母親の様子がおかしい。これがいわゆる認知症というやつなのか。母親だけじゃない、父親も年老いた。若い頃のキツイ物言いがさらに先鋭化している。崩れそうな積木のような危うさ。それを支えるのは還暦近いオレしかいない・・・。「津久井やまゆり園」事件を論じた『アブラハムの末裔』で金魚屋新人賞を受賞した作家による苦しくも切ない介護小説。
by 金魚屋編集部
十一.
母が死んでからは、くる日もくる日も病院へ通った。よほどの荒天でないかぎり自転車で通った。家から病院までは、鎌倉大仏の先のトンネルを抜け手広の交差点を右折するのが至近ルートだが、他にも北鎌倉を経由して大船を回ったり、あるいは梶原の住宅地を上り鎌倉中央公園の前を通り抜けたり、海岸沿いの一三四号線から回り込む等々複数のルートがある。いずれも五キロからせいぜい七キロしかない。たかがしれた距離だ。いま用いている自転車だって、浦和で乗っていた通勤用のクロスバイクを鎌倉まで漕いできて使っている。メタボのため四十代後半で始めた自転車は、いつしかぼくの生活の中心になっていた。
クルマのハンドルはもう二十年以上握っていない。いくたびも車体を凹ませていた下手クソなぼくを見かねた妻から、「お兄ちゃんはクルマの運転には向いていない。これから運転はわたしがするから、お兄ちゃんはもう二度としないで」と厳命されたからである。妻はなぜかぼくを「お兄ちゃん」と呼んだ。彼女の判断は正しかった。ママチャリ六段変速で五キロ、十キロと近所を回ることからスタートした自転車だったが、やがて街乗りMTBへ、クロスバイクへと出世魚のように姿を変え、いまではクルマが買えるほどの値段のロードバイクに跨って週末は百五十キロ、二百キロと遠乗りを楽しむまでになった。
父は別人のようになってしまった。昭和ひと桁らしく頑固で気骨があって、あれほど多趣味で社交的でしょっちゅう動き回っていたひとが、朝から晩まで眠りっ放し、たまに目を開けても渋面を作ってはぶつぶつ文句をたれてばかり。それでも告別式の時は皆に笑顔を見せるほどだった。久々のわが家、そこへ郷里から駆けつけた弟妹と近親のひとたちに囲まれ、一座の中心になってよほど嬉しかったのだろう。入院して初めて見る父の破顔だった。ところが病院へ送り届けたと思ったら、無理したせいか肺炎を起こしかけた。そのための点滴を、手足を拘束されたものと解したらしい。
「こんなに手足を縛りおって」
溜まっていた不満が爆発した。
「頼んだじゃないか。何でアイスクリーム出してくれないんだ」
たらたらと言い立てる。これはぼくが悪いのだが、告別式の夜、亡母が好きで買い溜めてあったハーゲンダッツの抹茶のアイスクリームを、ついあげてみたら喜んで丸々一個平らげてしまった。血糖値が跳ね上がってしまい、看護師にひどく怒られた。甘いものは和菓子以外食べないひとだったが、これ以来癖になってしまったらしい。
リハビリもやろうとはしない。
「やる気出ない。オレはもうダメだ」
目を瞑って眠っているか、目を覚ましてもトロトロしている。
「シズ子は可哀想な奴と思っていたが、あれはあれで幸せだったのかな。しまいはボケちゃあいたが、まアしっかりしたところもあったな」
「ガンコだけど、ブレなかったよね。よくもわるくも純粋なひとだったんじゃないかな。裏表がなくて一途で」
頷く父。
「オヤジの時計をずっとじぶんの腕にはめていたんだよ。それで、毎日一所懸命祈っていたんだ。良くなりますように、って」
「その時計はどうした」
「仏壇に供えてあるよ」
「そうか」
いつしか眠りにつく父。
*
鎌倉の家は三四〇平米あって、独りで住まうには大き過ぎた。母の葬儀が終わったのにぼくは勤めを休んだきり、朝から目まぐるしく家事に追われる。洗濯・片付け・ゴミ捨て・ゴキブリ退治・床の雑巾がけ・庭の草むしり……病院通いはこれらの前後、たいてい買い物とセットである。夜になると家の中はがらんと静まり返って、じぶん自身もがらんどうになったみたいだ。
父は病室で声をかけると眼を開き、ぼくの顔を見るなりニコッと笑って頷く。「お茶がほしい」と言うから、買って来たペットボトルの麦茶を吸い呑みに入れてハイとあげたら、半分ほど呑んでムセてしまった。看護師が「ダメですよ。誤嚥して肺炎になるかもしれないでしょ」とぼくに注意する。呑ませる時はトロ味を付けなくてはいけないのだと、初めて知った。
「お前、エミ子とはよりを戻せないのか」
来たか。と思ったら、話は孫娘、つまりぼくの娘におよんだ。
「亜矢とここへ住めばいい」来た来た。
「いまね、ちょうど話を進めようとしているんだ」嘘をつく。
「そうか。急いてはいかんが、鉄は熱いうちに、と言うからな」
うしろめたい気持ちで一杯になる。
エミ子とぼくが別れたのは、ぼくが浮気をしたからでも、借金を作ったからでもDVにおよんだからでも、特殊な性癖の持ち主だったからでもない。諍いはたびたびあった。けれど致命的ではないとぼくは思い込んでいた。それは進行性の難病のように進んで、そうと知った時にはもう遅かった。東日本大震災が起きた年の前後から、妻と娘は時間をかけてさりげなく家を離れていった。娘は大学を卒業すると、妻の実家から勤めに通っていたが、そのことも数年を経てから知った。家の中から二人の持ち物が一つ減り、二つ減りしていくのを見ても、ぼくは何も言わなかった。あるとき妻はぼくに言った。「お兄ちゃんを独りにさせてあげたの。自由にさせてあげたのよ。だからあたしに感謝しなさいよ」ぼくは必ずしも独りでいたいと望んだわけではなかった。だがそれは、ぼくの本音ではないと彼女は固く思い込んでいた。この話はお互いのあいだをブーメランのように行ったり来たり、ループしたまま一年が経ち二年が経ち、二人はいつからか帰って来なくなった。「いつか笑顔で会える時になったら、その時に三人でまた会おうね」彼女が電話口の向こうでそう言った時には、いなくなって十年が経っていた。その時には二人の痕跡は髪の毛ひとつ残っていなかった。父の希望を叶えることはもうけっしてできないだろう。それでもぼくは騙し続けなくてはならない。ぼくは父に残されたかすかな熾火なのだから。
*
それから一年近く経った頃だろうか。ある晴れた冬の日、ぼくは父の書斎に入り、古いフォトアルバムをめくっていた。縁起でもないとは思ったが、いよいよという時が来たら用いる遺影の候補を絞っておかなくてはと物色していたのである。母のときはまさか死ぬとは夢にも思わなかったせいで、見つくろうのに手間取った。
書棚に立て置かれた三〇冊余りのアルバムの一冊に、一人娘の亜矢の写真が数枚貼ってあった。長くなった髪をおさげにした姿から推し測ると、四歳から五歳というところだろうか。当時カメラに夢中になっていた父は、聞けばびっくりするような値段のニコンの一眼レフと望遠レンズを手に全国津々浦々旅して回っては、風景や花々を撮り歩いていた。父がじぶんのただひとりの孫を撮った時のことを、ぼくはおぼえていない。エミ子が一緒に写った写真もあったが、ぼくの姿は一枚もなかった。というより家族三人で笹目のこの家を訪れたおぼえがない。二人だけで行った? 何やら引っかかるものがあったが、もう二十五年前のことだ。
その写真を見るのは初めてだった。
ひと目見るなり、ぼくは自転車からいきなり落車したときのような衝撃を受けた。まだ幼児といってもそこはさすがに女の子で、イヤイヤながら、でもそんなに撮りたいならちょっとだけポーズを決めてあげるわ、と言いたげな娘は、無理に笑顔を拵えてカメラ目線になっている。他人が見ればごくたわいのない、ありふれた子どもの写真にすぎない。だがその数枚は、撮ったのは父だと瞬時にわかる写真だった。たぶん父が生涯に撮った中でも最高の写真だった。一眼レフの、二桁では買えない高級カメラで撮られたからではない。そこには娘の姿と二重に被さるようにして、父が一緒に写っていた。それは二十五年の時空を跳び越えてぼくを刺し貫いた。オレはアンタの思いに応えることはできないんだよオヤジ。こうなったのは誰のせいでもないのに。
十二.
家を出る前、父が病院からスマホで電話して来た。朝の七時を回っていた。「替えの下着とな、あと爪切りを持って来てくれんか」少しは意欲が出てきたか。
ちょうどリハビリのまっ最中だった。ぼくを見るなりニコッと入れ歯のない口を開け首を縦に振って笑う。「ありがとう」ひと誑しの父である。片手は手すりに、もう片方は杖につかまってイチ、ニイ、イチ、ニイと声をかけられながら一〇メートル往復する。大丈夫そうならさらに一往復。存外足取りはしっかりしている。ベッドへ戻るとさすがに疲れた様子ではあったが、前日と打って変わって元気そうだ。眼をしっかり見開いてぼくや周囲を観察している。本人が家で使っていた大きな爪切りを持って来て渡すと、じぶんでパチパチやっている。指先が巧みに動くのに感心する。もともと器用なひとである。どこが「オレはもうダメだ」だよ。
翌日の午後、病院側から退院後についての話があった。すぐ帰宅するよりもワンクッションおいて、最大六〇日から九〇日、リハビリ専門病院かあるいは地域包括ケア病棟へ移るのが望ましいというので、病院側に調整を委ねた。その間、家の方では車イス用のスロープと手すりを付け、介護ベッドを設えておく。
「待ってるからね。リハビリ頑張ってよ」
ウンと頷く父。
ところが、数日も経ないうちにまた弱気な父がいる。この頃の天気と変わらない。
「オレはこれまでそんなに罪なことをしちゃいないつもりだがなァ。人生、最後になぜこんな不幸な目に遭うのかなァ」
「……」
かと思えば、明くる日はぼくが訪れると同時に眼を見開いて、ニコッとあの笑顔で迎える。「今日は調子がいいよ」そう語ること自体珍しい。六〇メートル歩いたら退院できますよと医師から言われたらしい。この日のリハビリでは一〇メートルの距離を一往復、それを三セットこなした。早々とノルマ達成である。
「退院がいよいよ近いと思ったら、やる気が出るものだナ」
じぶんでそうと実感しているようだ。
「あと二、三日で出られるんじゃないか」
ぼくは黙って笑う。
ちょっと気が早いんじゃない。言おうとして、やめた。そもそもいつ何をもって退院とみなされるのか。転院先はいつ決まるのか。主治医はいつも不在だった。今日もオペだという。入院からひと月経った。大船の街を彩る玉縄桜は早くも散ったが、ソメイヨシノと山桜はいよいよ本番を迎えようとしていた。季節だけは確実にそして容赦なく進んでいく。
「二人で花見ができるといいね」
「出来るだろ」
ところが翌日になるとまた元気がない。
「意欲がどうもな」
無理もない。退院が近そうだと身体は実感しているのに、なかなか日取りが決まらないからだ。ひと月もベッドに縛り付けられたら誰だって不安になる。気もおかしくなる。とうぜんだ。当初は一週間だの二週間だのと言っていなかったか。せめて目処だけでも教えてくれと、スタッフをつかまえてはしつこく訊いて回るが、首を横に振られるばかりである。いざ決まれば、いきなり明日だとか言ってくるくせに。病院ってのはそんなものだ。
「外の空気に当たろうか」
車イスで病院の玄関から少し出てみた。
鎌倉のソメイヨシノはまだ七分咲きというところか。
「もう二三日もすれば満開かな。花見に行けるといいね」
うん、と父。
桜が何よりも好きなひとで、会社勤めだった往時は、出張にかこつけて全国の桜の名所という名所を訪って歩いていた。好きな歌は西行法師の「願わくは花の下にて春死なんその如月の望月の頃」。
「逗子ハイランドの桜が日本一だとオレは思っているんだ」
意外な意見だった。
「ところでお前、そろそろ藤枝に帰らなくていいのか」
「藤枝ァ? オレはアツヒトだよ。いま鎌倉のオヤジの家に住んでるんじゃないか。忠広叔父さんと間違えてるだろ」
「何、アツヒトだって? ……忠広ってのは、お前の兄じゃなかったか」
「……」
*
「日本一」と父がたたえた鎌倉逗子ハイランドの桜を家から自転車をこぎこぎ観に行った。朝比奈峠の手前、十二所から右に折れ逗子、葉山へと抜ける広大な住宅地である。当時は飛ぶ鳥を落とす勢いだった西武鉄道グループが鎌倉霊園とともに造成を手がけ、分譲を開始したのは昭和四十五年。桜が生い茂っているはずもない。けれど考えてみるまでもなくあれから四十年、当時苗木であればいまは立派な桜並木に育っていておかしくはない。いまごろ気づくぼくも迂闊だが、父の言ったことに偽りはないと知れるには、時間を要しなかった。通りという通りは左右を白とピンクに塗りつぶされ、広い通りなのにあちこちトンネルが出来ていた。そこへ、初夏を思わせるほどの陽光と紺碧の空とが包み込むように大きく垂れ下がって、未だ八分から九分咲きであるのに、はや絶景と言いたくなる。思わず拍手した。その場にいた十数人の見物人のあいだからも拍手が起きた。父に見せてやろうと携帯を取り出しカシャカシャやっていると、その携帯が鳴った。病院からだ。
「リハビリ先の病院がようやく決まりました。聖ヨハネ病院です。第一希望ですよ。良かったですね」
あろうことか、五つほど転院先候補を当たってもらっていた、その中でも希望者が多く早くて半年待ち、一年待ちも珍しくない一番人気の病院だった。以前からそれを知っていた父も「ご縁があればいいが」と言っていた、その病院に決まるとは。大船まで自転車で全力疾走した。
「ヨハネ病院。そうかそうか」
「くじで一等賞に当たったようなものだよ」
「それは楽しみになって来たな」
そう言って相好を崩した。入院してこのかた、誰にも見せたことのないような笑顔だった。
だが、ホッとしたのもつかの間だった。その翌日、
「明日退院できるんだろ」
「え、いや……」
「ヨハネ病院が迎えを寄こしてくれるんだろ」
リハビリの時も、自宅の住所を正しく書けない。うつらうつらしている。
ぼくに気づくと、
「今日も連絡は来なかったのか」
「……」
「まだなんだな? 病院っていうのは横暴だなァ」
早く喜ばせたいばかりに、退院への期待を抱かせてしまったことをぼくは悔やんだ。
鼾を立てる父。
翌日、リハビリの後で疲れていたのか、グガ―ッといつも以上に大きな鼾を立てて眠りこけていた父を無理やり起こすと、半眼のまま天井を見つめながら、
「天井の右側の方に何か字が書いてあるんだがな。何て書いてあるのかな」
気になって仕方がないらしい。幾度もぼくに問いかける。もちろん、それっぽい模様すらない。認知症の中には、幻覚を見る患者もいるというが……。
「……まあそれはいいとして、病院から連絡はあったのか」
再び眠りに落ちる。泥濘の中に幾日も埋もれたきり出て来れないダボ鯊のように、無力感と疲労感がぼくを呑み込む。
次の日、いきなり口をついて出たことばには、あー壊れていくよと思わずにいられない。
「おっ母は元気にしているか」
「……と、思うよ」そう答えるのがやっとだった。
「今も通りや庭や街中を、好きなように闊歩しているのか? しょうがないヤツだなァ」
「ああ。きっと空の向こうをね」
「お前、シズ子の持ってる金で車を買って、その車でシズ子を連れて熱海へ行けるかな」
「連れて行くって……」
そういや、オヤジとお袋の新婚旅行ってたしか熱海だったな。
「家では料理を作ってくれるのか」
「んー、トンカツ旨かったなあ。おにぎりなんて八個も平らげちゃってさ、お袋あきれてたっけ。それに八丁味噌のシジミ汁、これがもうたまらなかったよね」
「そうだったな。お前が帰ったら、直ぐ風呂へ入れるよう用意してくれているのか」
「そうだねえ……毎晩帰るとお袋の大きな遺影が迎えてくれるし、朝は挨拶されてるみたいだし。まあ一緒に住んでるようなものかな」
「そういう考え方もあるな。しかしシズ子も気の毒なヤツだなァ」
「そうでもないんじゃないかな。逝った時は幸せそうな顔をしていたよ。いまごろ祐子と一緒に楽しく暮らしてるよ」
「祐子と一緒か……そうだよなァ」
どこまでわかって話しているのだろう。いや、わかっていないのはぼくの方かもしれない。コイツいい加減な受け答えしおって、しょうのないヤツめと思いながら、ぼくに話を合わそうとしてくれているのかもしれない。話していると、時として父とぼくのどちらが病人なのかわからなくなることがある。
(第03回 了)
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*『春の墓標』は23日にアップされます。
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