妻が妊娠した。夫の方には、男の方にはさしたる驚きも感慨もない。ただ人生の重大事であり岐路にさしかかっているのも確か。さて、男はどうすればいいのか? どう振る舞えばいいのか、自分は変化のない日常をどう続ければいいのか? ・・・。辻原登奨励小説賞受賞作家寅間心閑の連載小説第5弾!。
by 金魚屋編集部
ドラッグストアからの帰り道、トイレットペーパーを片手に持って、少し離れた酒屋に立ち寄った。ここは店の軒先にテーブルと椅子を置いていて、ご主人が注いでくれた生ビールを飲むことができる。店は閉めたし、もう今日はいいだろう。アガリだ。レジ金数えたり、掃除したりは帰ってからやればいい。
ビールはご主人に頼んだが、持ってきたのは奥さんの方。よろしければ、とブランケットを隣の椅子に置いた後「あらどうも」と頭を下げられた。そういえばここの子どもが、兄貴か姉貴の同級生だったと思う。
「お母さん、お元気?」
「はい。現役バリバリでやってます」
「じゃあ私と同じだわね」
そんな挨拶を交わしてビールを一口。ここは商店街から外れているけれど、地下鉄の出入り口が近いからか人通りが多い。会社から、学校から帰ってきた人たちが、目の前を通り過ぎる。
心遣いのブランケットは暖かいけれど、結果的には「寒い」が勝つ。マフラー巻いてくればよかったな。本当は敵情視察がてらどこかの喫茶店に入っても良かったが、知っている人に会うと煩わしいし、静寂と人の話し声で気が散りそうだったからやめた。矛盾するようだがパチンコ屋の方がいい。意味のないノイズなら気は散らない。むしろ物事を考えるのに最適だ。
そう、今の俺には考えたいことがある。
さっきヤジマーは、六、七歳の男の子と手をつないで歩いているコケモモを、京都で見たと言っていた。きっと喜ばないであろう俺にわざわざ電話をかけてきたのだから、多分見間違いではないと思う。
いくつか知りたいことはあるが、優先順位が断トツに高いものはひとつだけ。その子は強なのか? それだけは今すぐにでも知りたい。
もしそうだとしたら、凄いことだ。ショック、という感じとも違う。全身、というか心身をギュッと掴まれブンブンと振り回されたみたいになるだろう。感想とか感情は、きっとないと思う。ただ、強が亡くなったなんて、どうしてそんな嘘をついたのか。それはコケモモに尋ねてみたい。
まあ、予想はつく。俺のことをずっと許せなかった、ということだ。彼女に酷いことをしてからもう何年になる? そんなに長い間? と驚くのは加害者の勝手な都合。再放送の二時間ドラマでも、積年の恨みを晴らす話はよくあった。
あれは学生時代、一緒に観ていたのはコケモモだ。情念ヤバいよね、なんて言い合って笑っていたけれど、テレビのあっち側もこっち側も、そんなに変わらなかったらしい。強の入っていない墓に泣きながら手を合わせる俺の姿は、少しでも彼女の心を軽くしただろうか。大人ぶるわけでも、良い子ぶるわけでもなく、そんなコケモモに対して感想や感情はない。ただ、強が生きていてよかったと、心底思うだけだ。もう一杯、ビールを頼んだ。
「そういえばお姉さんは元気?」
奥さんからそう言われ、子どもは姉貴の同級生だと理解する。普通の生ビール以外にクラフトビールやハイボールも頼めると言っていた。家に帰る人々を眺めながら飲むのもなかなかだ。また来ます、と伝えた言葉は嘘ではない。
寄り道してよかったと思いながらの帰り道、永子のことだけ引っかかっている。もし強が今も生きていて、コケモモに手を引かれて京都の街を歩いているとしたら、あいつの言う「おにいちゃん」って誰なんだ?
結局覚悟はできたけれど、真実にはまるで近づいていなかった。なんだか頭悪いな、とトイレットペーパー片手に、さっきまでビールの肴にしていた人々に溶け込み家に帰る。
こんな時、適当に発散するのは難しい。現状、話ができるのはコケモモだけ。そこまで重い感じではなく、軽く紛らしたいだけなんだよな。けれど選択肢はオール・オア・ナッシング。こんな時ラスボスに喩えたら、あいつは昔みたく「何それ」と短く笑ってくれるだろうか。
こんな状態でトダの店に行ったら、あいつは俺から全てを聞き出してしまうはず。なのでNG。かと言ってこれからデュークの店は遠いし、「夜想」も面倒くさい。しばらく他の客から「トイレットペーパー」と呼ばれてしまう。これもNG。発想を切り替えて初見の店に入ってもいいが、そう都合よく発散はできないだろう。収穫ゼロの可能性が高すぎる。やはりNG。となると誘えるヤツはイノウエくらいだ。
確かにあいつの子どもは永子のひとつ下だし、もしかしたらコケモモの話をすることなく、何か収穫にありつけるかもしれない。あたってみるか。俺は歩きながらあいつに出来るだけさりげないメッセージを送った。
突然ごめん/今日これから会えたりする? /無理しなくていいんだけど
返信はきっかり一分後。待っていた分、遅いと感じた自分が浅ましい。
いいよ/今、会社の連中と飲み終わったところ/喫茶店の方に行けばいい?
持つべきものは友だ。そして消去法で選ばれた友は、待ち合わせ場所――近場の大きなチェーン店居酒屋に入って来るなり、満面の笑みを浮かべていた。
「おい何だよ、そのトイレットペーパー」
まあまあと取りなしつつ、店へ入って生ビールを頼んで乾杯。すでに顔が赤いイノウエに、単刀直入で訊いてみた。
「イマジナリーフレンドって知ってるか?」
何? と聞き返してきただけあって、その言葉すら知らなかったが、永子より一歳下の娘、ミユちゃんもたまにそんな感じがあるという。
「お前のところみたいにしっかり呼びかけたりはしないかな。でも何もないところをずっと見てたりしてさ、案外霊感あるのかななんて嫁さんと話したこともあるよ」
そうかあ、とビールに口をつける。本日三杯目。あまり飲み過ぎてはいけない。
「で、その『おにいちゃん』ってのは、お前的に心当たりあるのか?」
予想外の単刀直入返しに思わず「んー」と変な声が出る。コケモモのことを話すつもりはないが、もし話すにしても事態が複雑だ。酒のせいで的外れ気味なイノウエの追求を交わしつつ、一時間ほどでお開きにした。
「まあ嫁さんにも聞いておくよ。俺なんかより詳しいだろうし。何か分かったら連絡するわ」
駅前で頼れる友に「サンキュー」と手を振り、すっかり人通りも少なくなった街を歩く。さすがに寒いので早歩き。店の鍵を開け、暗い店内を器用に通り抜け、階段を上って我が家へ。マキはテレビを見ながら髪を乾かしていた。
「お帰り。イノウエさん、何だって?」
イノウエから急に呼ばれた、とマキには伝えておいた。つまり計画通りの展開だ。
「それなんだけどさ、イマジナリーフレンドって聞いたことある?」
綺麗に決まった。密かに得意がる俺に「とりあえずトイレットペーパー置いたら?」と笑った後、「それ、分かるんだけど、なんか違う呼び方じゃなかったけ?」と、マキはタオルを置きに立ち上がる。
ほらこれ、と見せてくれたスマホの画面には「イマジナリーコンパニオン」の文字。そうとも呼ぶらしい。なんだ、マキも色々調べてたのか。
ということは、という表情の俺に「うん」と頷き、「だって自分にもいたらしいじゃない。このイマジナリーっていうの。ちょっと前にお義母さんから聞いたよ」と言う。その辺りの連携はちゃんと取れているんだな、と感心しつつ、当時のことは全く覚えていないと真実を告げる。
「でも何で『おにいちゃん』なんだろうねえ。私、知らないうちに男の子産んでたのかな」
笑えないジョークに微笑むのはなかなか難しい。何だよそれ、とだけ返しつつ、まずはこのイマジナリー問題をみんなで共有している現状に安堵する。
「ほら、いつもラフな感じだからさ、あまり気にしてないかと思ってた」
「いや、さすがに気にはなるけど、まあ病気とは違うんだろうし……」
「ああ、たしかに病院とかじゃないよね。でもあまり続くようなら、相談くらいはした方がいいのかなあ」
いつの間にかイノウエの話は吹き飛んでしまったがそれでいい。しっかりと役割を果たした友に感謝しつつ、掃除をするため店の方へ下りた。
「お義母さんがテーブルは拭いておいてくれたって」
「了解。じゃあ床とレジ金だな」
床掃除だけなら灯りは全部つけなくてもいい。薄暗い店内でコードレスの掃除機をかけ、次にモップがけをする。いつもの順路でテーブルの間をすり抜けながら、考えていたのは強のこと。もし生きているなら今すぐにでも会いたいが、それは想像以上に大変なこととなるだろう。
マキの反応を予想するまでもない。通常、夫に隠し子がいたら一大事だ。ふとモップを持ったまま立ち止まる。
初めてだ――。
俺とコケモモのストーリーに初めてマキが現れる。今まで想像しなかった可能性が胃の辺りを重くした。
もしかしたら離婚なんて可能性もあるんだよなあ……。
離婚、裁判、慰謝料、親権、養育費。レジの中の金を数えているせいで、そんな言葉が生々しく感じられる。でもだからといって、強が生きていることを望まないわけではなかった。
軽々しく想像するのは罰当たりで不謹慎だが、もし強が生きているか亡くなっているかを俺が決められるなら、迷いなく生きている方にする。自分でもちょっと驚くがそんな結論が出た。マキには、そして永子にも迷惑をかけるだろうが、そう考えてしまったものは仕方ない。
数枚の一万円札を意味なく何度も数えながら、そう思ったのは永子を育てているからだなと理解できた。何とかレジ金の処理を終えて二階へ。洗面所の鏡に映った俺の顔は、頭で思うより四、五歳老けていた。
(第28回 了)
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