妻が妊娠した。夫の方には、男の方にはさしたる驚きも感慨もない。ただ人生の重大事であり岐路にさしかかっているのも確か。さて、男はどうすればいいのか? どう振る舞えばいいのか、自分は変化のない日常をどう続ければいいのか? ・・・。辻原登奨励小説賞受賞作家寅間心閑の連載小説第5弾!。
by 金魚屋編集部
目が合ったのはトダだったが、他の二人も俺を見ているのは分かった。コケモモ、と自分以外の声で聞くのは少し覚悟が必要で、今は全く無防備だったから目の裏側で軽く火花が散った。
「おお、懐かしい名前。コケモモか」
俺から視線を外したトダが、肉に添えられていたタマネギを焼く。だろ、とヤジマーがブザーで店員を呼んで人数分の生ビールを頼んだ。
「近くから?」
何も言わないのも大人気ないので尋ねてみたが、うまく伝わらなかったらしく、また三人の視線が集まってしまった。言い直してみる。
「道ですれ違ったのか、少し離れたところから見つけたのか、どんな状況?」
ああ、とヤジマーが空のジョッキに口をつけた。今度は伝わったようだ。
「休みの日に京都まで行ってきてさ」
「近いのか?」
「奈良から京都までの電車がある。それに乗れば五十分ないくらい」
へえ意外と近いんだな、と軽く盛り上がっている間、俺はコケモモの家の墓、あのだだっ広い墓地の風景を思い出していた。ずいぶん昔のような気もするが、実際はそんなに経っていない。ただ俺の環境が変化しただけだ。ビールが来て、話が再開した。あれ以来、京都へは行っていない。
「で、どこで見かけたんだ?」
「八坂神社。分かる?」
「名前くらいはもちろん知ってるけど、お前、なんでそんなところに?」
「あそこ、二十四時間やってて、夜行くと綺麗なんだよね」
そんなヤジマーの言葉で「一人で行くところじゃねえな」「まだ例の女と切れてないんだろ」と再び軽めの盛り上がり。こんな風に何度も脱線するのは、コケモモのことが昔の話、あまり重要ではない話題ということだ。そして、その事実は気持ちを楽にさせてくれる。
脱線してはビールを飲み干してから注文する、というノリをもう一度繰り返して、ようやくコケモモの話に戻った。
時刻は午後十一時前、ヤジマーは八坂神社の境内でコケモモらしき女性の姿を見かけたという。声を掛けなかったのは少し距離が離れていたし、自信がなかったから。
「本当にそれだけか?」
「お前が女連れだったんだろ?」
再度の追求には首を縦に振らなかったが、代わりにコケモモが男連れだったと打ち明けた。一瞬、俺に遠慮するような空気になりかけたので「それくらい、いるだろ」と流れを元に戻す。たしかに男連れの女性に声をかけ、人違いだったら目も当てられない。そうかあ、と場は収まりかけたが、いつものように真っ先に酔っ払ったイノウエが異を唱えた。
「いや、それやっぱり見間違いじゃないのか? もし、どうしてもコケモモだって言い張るなら、その一緒にいた男っていうのはただの友達だろう」
俺に気を遣っているのか、アルコール由来のグズりなのかは不明だが、脱線していることは間違いないので「お前は肉を焼いといてくれよ」と放っておく。イノウエも「せっかくの高級焼肉だからなあ」と食い下がらなかったが、だからといって、それ以上コケモモの話が広がるわけでもない。
それに気付いたヤジマーは「なあ、全然コケモモには会ってないんだろ?」と、直球をぶつけてきた。実はさ、と全てを打ち明ける気持ちにはなれず「うん、全然」と投げ返す。会っていないことには間違いないので特に顔色は変わらない。
「いつ見てもちぐはぐだと思ってたけど、その感じが良かったんだよなあ」
ヤジマーの発言に「え?」と反応すると、「うん、良かったというか似合ってたというか」とトダが言葉を添えた。
「何のことだ?」
「お前とコケモモだよ」
予想外の返答に思わず咳き込んだ。そんなこと、当時は一言も言わなかったくせに。
「結婚とまではいかなくても、もっと長く付き合うんじゃないかなと思ってた」
そんなトダに「そうか? 俺は結婚すると思ってたぞ」とヤジマーが重ねる。へえ、という声が心の底から出た。そんな風に思っていたのか……。
もう正確には思い出せないけれど、俺も当時はそのつもりだった、はずだ。ただ、子ども――強が意外なほど早く宿ったことを、受け止められなかった。
やっぱり今日、こいつらに色々と話してみようかな。そう気持ちが傾きかけた瞬間、おとなしく肉を焼いていたイノウエが口を開いた。
「なあ、ヤジマーが見たのってさ、まさかオバケじゃないよなあ?」
縁起でもないこと言うな、とトダがおしぼりを投げつけ、ヤジマーはビールを取り上げて飲み干した。俺は笑いながらその様子を見ていたが、何となく胸の奥の方に疼く感覚があり、それは店を出る頃になっても消えなかった。
結局、真っ先に酔っ払ったイノウエが仕切る形でラーメン屋を目指したが、上京した時しか家族サービスができないから早めに帰るとヤジマーが離脱した途端、急激に勢いがなくなり結局全員帰ることになった。キャバクラ行かなくて本当に大丈夫か、と言い出すヤツもいない。そう指摘すると「大人になったのさ」とトダが笑った。髪の色は黒。珍しがると「これも染めてんだけどな」と頭を突き出す。
「意外と白髪あってさ」
「マジか。全然知らなかった」
「俺も頑張ってんだよ」
「若作りをか?」
「仕事って言ってくれよ」
ふと、もう一軒寄りたいなと思ったが、やめておいた。永子への土産が増えるから、ではない。あの子がある程度大きくなるまで、小さくても一度した約束は守りたい。今日、パパちゃんが行くのは二軒だけ。
でも一駅前で降りたのは、どうしてだろう。コンビニで永子へのお土産を買うだけなら、家の近くでも構わない。こうして缶ビールも買って、それを公園のベンチで飲みながら、落ち着いて色々と考えたかった。
……色々、は嘘だ。微かだけれど、ずっと途切れることなく胸の奥を疼かせるコケモモのことを考えてから、家へ帰りたい。
イノウエが言うようにオバケになっていたって、ちっとも不思議じゃない。人はいつか死ぬし、コケモモは遠い場所で暮らしているし、互いに連絡も取っていない。案外、先にオバケになるのは俺の方、だったりして。
とりあえず電話をかけてみる、という選択肢はもちろんある。連絡先を変えるなら教えてと言っていたくらいだ。まさか、つながらないなんてことはないだろう。
最後に電話をかけたのは、七月十四日。強の命日だ。特に話したりはしない。留守電にメッセージを入れたりもしない。ただワンコールを鳴らすだけ。これは毎年欠かさない。
ここで座ったままあいつに連絡をして、オバケではないことさえ確認できれば、この気持ちの揺れはきっと消える。消えるけれど「でもなあ」と思う。
でも、それだけで終われる?
もし、必要とされたらどうする?
生きていてくれ、なんて危なっかしいこと、口にする?
箱根であのキャバ嬢と一泊した時に学んだはずだ。お前にそんな度量、ないじゃないか。
気付けば缶ビールを飲み終わっていた。
紙タバコを吸いたいが、この公園は大丈夫だろうか。いつも永子と行く公園は禁煙だが、父親に言わせると喫えるところも結構あるらしい。まあ、誰に見られているか分からないから、喫わないのが一番。トダと同じだ。あいつは若作りを頑張り、俺はタバコを我慢する。どっちも大切な仕事だ。
一人で笑いながら「ヤバいよね」を連発している若い女が公園を横切っていく。きっと電話で誰かと話しているのだろう。彼女とすれ違ったのは、光る首輪を付けた二匹のプードル。おばあさんを引っ張りながら迷いなく前進している。今、聞こえたのはバイクのエンジンをかける音。それをかき消したのはパトカーのサイレンの音――。
こんな風にゆっくりと、自分をこの場所に馴染ませていく。周囲の出来事をキャッチする度に、空気の粒と混じり合うようなイメージ。こうすることで、俺は浮ついた気持ちを鎮めていく。鎮めてどうするのかって? 馬鹿だなあ、自分の居場所で生きていくんじゃないか。
コンビニの袋を持って立ち上がる。永子へのお土産はプリンとゼリー。どちらもきっと大好物だと思う。でも正解かどうかは分からない。なぜなら、永子の中にはまだ「大好物」がない。多分「大好物」的なものはあるだろうけど、それを「大好物」とは呼んでいない。
実は俺もそうなんじゃないか、と思いたい。
本当はもう立派な「父親」で、単に「父親」という呼び方を知らないだけ。あれ? ちょっと違うか。永子と「大好物」はイコールじゃないから……と、言葉をこねくり回しているうちに、家の近くまで来ていた。
一つだけ灯りがついた我が家を見ながら考える。今日一日の総括だ。夕方に「夜想」で占われた時、チハルさんは何て言ってたっけ?
そんなに悪い感じではなかったんだよな。先々良いことはある。これは間違いない。で、今日はその良いことの正体が分かるとか何とか。
「何だよ、それ」
口に出すと笑えてきた。チハルさんは、占い師として優秀なのかもしれない。今度マスターに伝えておこう。
(第24回 了)
縦書きでもお読みいただけます。左のボタンをクリックしてファイルを表示させてください。
*『オトコは遅々として』は毎月07日にアップされます。
■ 金魚屋 BOOK SHOP ■
■ 金魚屋 BOOK Café ■