さやは女子大に通う大学生。真面目な子だがお化粧やファッションも大好き。もちろんボーイフレンドもいる。ただ彼女の心を占めるのはまわりの女の子たち。否応なく彼女の生活と心に食い込んでくる。女友達とはなにか、女の友情とは。無為で有意義な〝学生だった〟女の子の物語。
by 金魚屋編集部
5 フランス(上編)
書類を何度も確認する。空欄は全部埋まっている。
「これで大丈夫だよね?」
「さやねえ、すぐに不安になるんだから」
ゆかが笑う。
「もういいや、このまま出しちゃおう」
「すみませーん」
声をそろえて言う。事務員が近づいてきた。
「はい。確かにお預かりしますね。詳細に関しましては、後日郵送させていただきます。遅くても一週間前までには届きますので。もしもなにかございましたら、ご連絡くださいませ」
ついに、フランスに行ける。憧れていたものが、徐々に近づいてくる。そんな感覚を味わっていた。
出発の日は、あまりにも早く訪れた。羽田空港は人の波。やっと日常から解放される。やっと一息つける。あらゆる価値観が、私を待っている。そわそわしながら、息を吸い込んだ。
飛行機に乗ると、そこはもはや日本ではなかった。イギリス人のスチュワーデスが、機内食を運んできてくれた。ビニール袋の中の、見るからにパサパサしたパン。続いて、アルミの皿に入った、じゃがいもをぐずぐずに煮たなにか。袋を開封すると、かすかにミントの歯磨き粉のような香りがした。はじっこをちぎって、口の中に入れてみる。なんと形容したらいいのかわからない風味が広がった。これがイギリスなのか。
「不思議な味がするね」
隣の席で、まいまいが声をあげる。いつも通り、語尾が不明瞭だ。ピンクの、まるいレースの襟が付いたワンピースを着て、ニーソックスを履いている。髪の毛は栗色で、どんなに忙しいときでも混合巻きにしてある。彼女は身長が低めで童顔だから、おっとり系に分類されている。実はしっかりしているのだが、そのことを本人はひた隠しにしている。「意外」と言われるのを避けているのだ。
とはいえ、さみしがりやなのは見た目通りなので、私はすぐにリアクションを返す。
「ミンティアみたいな味じゃない?」
「っていうか、まずい」
ゆかが、後ろの席から話しかける。
「イモのほう、食べた? なんか、ありえないんですけど」
たらの声。
非常識な会話のせいで、他の乗客がこちらに注意を向けているのがわかる。怒られないのは、一目で学生だとわかる雰囲気だからだろう。学生=無分別。そんな図式を私たちは無意識のうちに踏襲していた。窓の外は暗闇。朝になれば、雲が見えるだろう。心臓の脈打つリズムが、身体全体に伝わってくる。
「ねえねえ。6チャンネルで、デヴィッド・ボウイのライブ画像配信してるよ。一緒に観よう」
答えるよりも先に、イヤホンの片方が耳に突っ込まれていた。液晶の中で、男が奇妙なポーズをとっている。クモの真似をしているらしい。思わず吹き出してしまう。腕に体温を感じる。まいまいの指先が目に入った。ネイルを塗った上に、ラインストーンがちりばめられている。
「亜紀ちゃんは?」
「ここにいます」
控えめに手を上げるしぐさ。通りを挟んですぐ横の席に座っているのに、気づかなかった。
「パン、食べた?」
「食べた」
「微妙じゃなかった?」
「うん。微妙だったよね」
いつもの亜紀ちゃんだ。
「間もなく消灯の時間です」
アナウンスと共に、機内が暗くなる。七時間後にはヒースロー空港に着く。待ち時間があり、二時間ほど次の飛行機に乗れば、もうフランスだ。目を閉じて、備え付けの毛布にくるまる。寝ているあいだに、数々の国を通過するだろう。
*
見知らぬ街を歩く。息を吸うと肺の中に、粒子の細かな空気が入ってくる。心の準備ができようとできなかろうと、私は今フランスにいるのだ。
「なに考えてた?」
ゆかが私に話しかけてきた。
「なんかずっと座ったままだったから、疲れちゃったね」
「飛行機の中で、爆睡してたくせにね」
「入りたい店があったら、言ってね」
さっきから、ずっと歩いている。すれ違う人々が、一瞬こちらを見て、関心がなさそうに視線をそらす。明らかに異端者として存在できる今の空間が、居心地よく思える。
「ここがいい」
外のテーブルを拭いている男が、顔を上げこちらを見てうなずいた。手で人数を示す。二人掛けの席に通された。店内の内装は古く、モノトーンを基調としている。椅子は木製で、真紅の布が貼ってある。薄暗くて、小声で話したくなる。
「クレーム・ブリュレと紅茶」
「じゃあ、私はマカロンとコーヒーにする」
笑い合う。同席の人と違うものを頼むのがフランス式だ。
「亜紀ちゃんたち今、なにしてると思う?」
「部屋でトランプでもしてるんじゃない?」
「あの子真面目だよね」
外はもう真夜中。人通りもまばらだ。パリの表通りは、写真で見たよりも建造物に重厚感がなかった。けれども、そんなことはどうでも良かった。背筋を伸ばして歩きたくなるような、開放的な雰囲気。
「はじめてだね。こんなに長い時間、二人で一緒に過ごすの」
「そうだね」
女子大の生徒は、お互いによそよそしい。私もゆかも、約束して出かけたことがない。授業の帰りに買い物に行く程度だった。違う家から来た同士が、一時的に集まる場所。それが学校だった。ゆかが口を開いた。
「さやねえの爪、かわいい。自分でやったの? 見せて」
「これ、実は簡単なの。シール貼って、トップコート塗っただけだよ」
「爪の形、きれいだね」
「ゆかの髪も、すごいさらさら」
「そう見える? 枝毛が多すぎて困ってるんだけど」
水のように流れて、右から左に消えていく会話。
「なんかこの店、落ち着くね」
「だよね」
飲み物を一口飲んだとき、携帯が鳴った。まいまいからの着信だ。
「今、どこ?」
焦っているのが伝わってくる。
「カフェ。歩いて行けるところ」
「すぐ戻ってこれないかな?」
「だれから?」ゆかが言う。
黙って画面を見せる。手でバツを作るサイン。面倒だから電話を切れ、という意味だろう。ゆかとまいまいは仲が悪い。もともと、まいまいは大学デビューでCanCam系のゆかに、違和感があったらしい。あまりにタイプが違い過ぎる。私は両方と友達だから、どう反応していいのかわからない。
「なんで? お茶してるんだけど戻らないとだめ?」
急がせる理由を知りたい。
「亜紀ちゃんたちが、けっこう酔っぱらってるの。手に負えない」
機械越しに聞こえる、早口な声。
「うん。わかった。すぐ帰る」
「ごめんね。じゃあ、切るね」
プツリという音。私も終話ボタンを押す。ゆかに事情を説明し、二人で宿に戻る。さっきと同じ道。しばらく歩くと、頭の上から日本語らしい叫び声が途切れ途切れに聞こえてきた。
「なにこれ、何かのアナウンス?」
「違うでしょ」
「なんか、聞いたことあるフレーズじゃない?」
「たしかに、覚えのあるリズムかも」
声は、だんだんと近づいてくる。
「どこから?」
「上のほうからだよ、たぶん」
「だけどこのあたり、私たちの宿のほかには、建物なんてないよ」
二人、黙った。
「おーい! さやねえ、ゆか」
私たちを呼んでいる声。
思わず上を見上げた。宿の部屋のバルコニーに、二つの人影が立って手を振っている。片方は亜紀ちゃんで、もう一方はたらだった。騒音の発信源は、彼らだったのか。
亜紀ちゃんは、その場でくるくる回りながら歌いだした。素肌にジャケットを羽織っている。『コスモポリタン』の表紙みたいな服装。その横で、たらがエアギターを弾いている。ポンチョにジーパンというカジュアルな装い。たしか、この曲にギターパートなんかなかったはずだが……。
「あの子たちなにやってるの?」
ゆかの表情が険しい。笑ってなだめようと思ったが、やっぱり無理だ。
「とりあえず、部屋に戻ってなんとかしよう」
エレベーターに乗り、二階のボタンを押す。プレッシャーで、胃がせり上がってきそうだ。到着を知らせる音が妙に大きく響いているように感じた。廊下に出て、小走りで急ぐ。二〇五号室。せわしなくドアをノックする。
「来るの遅いってば。もう、頼む。助けてよ」
まいまいの顔から、ゆとりが消えている。室内はかなり散らかっていた。
「あいつらなんなの。もううるさい、うるさい、うるさーーい」
外の二人に向かってまいまいが叫んだ。修羅場だ。ベランダにいる二人には、まいまいの声は聞こえていない。私は部屋の奥まで進み、窓を開けて小声で言った。
「ねえ、もう深夜三時だよ。やめなよ。さすがにまずいよ。せめて、中で歌おうよ。あんまり体力使うと、明日、なにもできなくなるよ。八日間って、案外短いしさ。疲れてるでしょ? 風邪ひくから、もう寝よう」
こんな場面なのに、大人な対応ができた自分が、うっすら嬉しい。
「好きにさせてよ」
亜紀ちゃんから発された、意外な言葉。
私は黙った。
「この子たち、説得なんかしても、無駄だってば」
ゆかがいらだったような声を出す。
まいまいが、亜紀ちゃんの腕をつかんで引っ張った。強攻突破だ。私とゆかは、たらの担当。二人を強引に屋内に引き戻したところで窓を閉めた。
みんな、疲れきっている。気まずさのせいか、沈黙が広がっている。
私たちは、部屋にひきあげてそのまま眠った。
(第12回 了)
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*『学生だった』は毎月05日にアップされます。
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