「津久井やまゆり園」事件はなぜ起こったのか。それは偏執狂的人間の常軌を逸した犯行なのか。そうではあるまい。そこには「全人類が心の隅に隠した想い」、決して表立って語られることのない〝思想〟が隠されている。
金魚屋新人賞選考委員辻原登が、「その真の価値は作家の〝肉体的思想〟が表現されていることにある」と絶賛した現実の事件を超えた思想的事件を巡る衝撃的評論!
by 金魚屋編集部
二.自身の内なる差別者
被害者の実名は当初、数名を除いて公表されなかった。マスコミも揃ってこれに準じていた。* 被害者の遺族が強く拒んだことがその主たる理由である。これに対しても「事件の性質と肉親の心情を慮れば当然だ」「知的障害者だからといってなぜそこまで配慮するのか。差別の裏返しではないのか」など賛否両論、議論百出の状況だった。ネット上では一時、事件の謀略説や犯人複数説まで飛び交う始末で、世の反応も含め、異様な光景を呈していた。実名の公開についての遺族の思いは、必ずしも一様ではなかったはずだ。わが子と自分たち家族の生きざまを積極的に世へ発信したいと考える者がいる一方(事実そう考え、行動した遺族が複数おり、その一例は冒頭で紹介したとおりである)、ひっそりと生きたい、どうかそっとしておいてほしいと願う者もいて当然である。しかし非公開というこの一点について、事件当初は全員が足並みを揃えていた。その後公開に踏み切った遺族は、大きな勇気を要したに違いない。ここには、日本人に特有の同調圧力といった観点よりも、世間がこれまで臭いモノに蓋とばかり、見て見ぬフリをしながらやんわりと、だが容赦なく排斥してきた証左を、見るべきではないか。
(*各マスコミ報道によると、園の門前に設えられた献花台に刻まれる犠牲者の名前は徐々に増え、二〇二三年七月一八日現在、一九名のうち一〇名の実名が刻まれている。)
知的障害者とその家族が積年どんな思いで生きてきたのか。そのことに曇りのない眼差しを注いだ者が、これまでにどれほどいたのだろうか。たとえば、被害者家族の中に結婚や就職を控えた肉親がいるとしたらどうか。その中で少なからぬひとたちは、これまでも身内に知的障害者がいることをひた隠しにしてきたに相違ない。就職ならば、障害者雇用をはじめダイバーシティの啓蒙と浸透に(たんなる企業イメージ戦略や厚労省への忖度に止まらず)本腰を入れる企業も少なくない昨今、ことさらナーバスになる場面は減ってきてはいると思いたいが、結婚となるとどうか。重篤な疾病や障害者の兄弟姉妹がいるひとをこの頃は「きょうだい児」「きょうだい」と呼ぶが、妙齢の女性が「きょうだい」であればどうするだろうか。
私も「きょうだい」だった。結婚するとき、妹のことを相手に告げようとして、私はひどくためらった。カマトトぶるわけではないが、逡巡という感情をはっきり自覚したのは、このときが初めてだった。子どものころ、私は九つ下の妹のことをやけに癇の強いやんちゃな子だな、会話はよくできないけど毎日の遊び相手には事欠かないな、という以上に特別な存在とみなしたことはなかった。市内の小学校では、妹が通っていたその学校だけが知的障害者を普通学級に受け入れていた。日本ではいまなお数少ないインクルーシブ教育の走りというより、受け皿も教員も不足していたのだろう(日本においてインクルーシブ教育が捗らない現状と課題は先年、国連からも指摘されたが、大阪府豊中市のように早くから独自の取り組みを成功させてきた自治体もある。ここでは詳述しないが、肝心な点は共生のための誰ひとり取り残さない教育に、地域社会がどこまで本気になれるかである)。
ともあれ妹は「ふつう」の子に混じって勉強のまねごとをしたり、給食を食べたり、水泳やボール遊びをした。そのころの妹は楽しそうだった。わずかに遺された写真の中の妹は、たいてい子どもたちの輪の中心にいて、一緒に笑っている。クラスメイトたちもよく家に遊びにきて、私も中に入って遊んでいたが、そのとき私は「汚えなあ、ヨダレ垂らすなよ。」とか「コイツ、何言ってんのかわかんねえ。」などと時には口に出しながらも、その子を見下したり排斥するような感情を抱くことは微塵もなかった。そもそも近所のガキどもは私も含めみな青洟を垂らした小僧で毎日泥ん子だったのである。ところが中学を卒業し、養護学校(現在の特別支援学校)に入ってからの妹は、徐にしかし確実に坂道を転げ落ちていくようにみえた。街中を歩くとき、食事や買いものをしようと店に入るとき、粘りつく漿液のような好奇の視線が取り囲むようにへばりつくのを一緒にいた私も感じた。晩年の妹は休みがちだった地域の福祉作業所から帰ってくると、しばしばこうひとりごちた。「……ゆうこ、だめの子、しょうがいの子。」そしててんかんの発作かと思うほど全身をぶるぶると震わせ声を張り上げて泣いた(じっさい彼女はてんかん持ちだった。八歳の夏、不慮の交通事故から脳挫傷を起こしたのが原因だった)。その姿はこの理不尽きわまる世の中に対する根源的なプロテストのように思えた。いくら能天気な私でも、ようやく膾炙しはじめた「自閉症」「発達障害」といったことばとともに、妹たちのことを「世間」でのポジションを含め、やっと認識するに至った。
思春期になってからの私は、友人知己に対して、訊かれないかぎり妹のことを自ら進んで話題にすることはなかった。ことさら隠すつもりはなかったが、告白(ということばをつい用いてしまう「空気感」が問題なのだ)したとたん、かれらが私に気遣う反応とその場の一瞬のこわばりを、まざまざと感じるのがイヤだったからである。当時の私と「世間」との間には、その程度の皮膜が張られていたわけだが、それでも皮膜で済んだのは、私が両親の庇護の下にあったからである。妹が日々「世間」にさらされる場面に、私が当事者としてかかわる機会はそうそう無かった。皮膜が壁となって高く立ちはだかったのが、自らの結婚だったのである。
彼女はもちろんのこと、彼女の親が知ったらどう思うだろうか。拒否されたらどうしようかと悩んだ。懸念は的中した。相手の両親からは大反対され、彼女の家には出入りを禁じられ会うこともかなわず、結婚にこぎつけるまでには、ずいぶんとハードルを越えなくてはならなかった。
――田舎の親族や世間からどう見られることか。
――万が一、障害を持った子が生まれたらどうするのか。
誤解のないよう断っておきたいが、かれらがハッキリそう言ったわけではない。しかしそれが相手方の「本音」だった。それは「世間」の声を代弁していた。「遺伝するようなものじゃありませんから、大丈夫ですよ。」医師からそう説明してもらってもなお払拭できなかった不安と恐怖のこもったかれらの思いは、はね返って私まで呑み込もうとした。
さらに悩ましいのは、将来のことだった。いずれ両親が先立てば、妹の面倒は誰が見るのか。私は長男だった。妹とは二人兄妹である。世間知らずの私は、この問いに初めて現実の問題として向き合ったのだった。父は「この子は施設へ入れるから、お前は心配するな。」と言った。たったひとりの実の妹を見捨てるなどということは、私にはとてもできない相談だった。できないならどうするというのか。結婚を諦めるのか。結論は出せないまま、相手方には父のことばを伝えて説得した。妻となったひとは、私のことを誰よりも理解していたから、自分の親を説得しながらもそれを信じなかった。いずれ自分が面倒を看ることになると覚悟しながら、誰にもそれを言わなかった。私は彼女と妹の双方に対して、強い負い目をおぼえずにはいられなかった。そんな経緯もあって、妹を結婚式に出席させることができなかった。「おにいさん、けっこんする!」と嬉しそうに話す妹に私は心の中で「ゆうちゃん、ほんとにゴメンな。」幾度も謝った。顔を合わせるのが辛かった。妹亡き後、このことは今日なお私の負い目であり続けている。くどいようだが、先方が要求したわけではない。誰もそんなことなどひと言も口にしなかった。でもそれは「空気」だった。誰を責めることができるだろう? 身内に知的障害者がいるということの意味を、ひいては「世間」というものが何であるかを、おろかな私はそのとき初めて身に染みて知ったのである。昨日までは誰よりも近しい存在であったはずの妹が、知的障害者だからという理由で、今日からは彼女の前に見上げるような壁がそびえる。急によそよそしい存在になる。そのことが、まごうかたなき現実として私に迫ったのである。
「心の中の内なる差別」との葛藤を語る家族は少なくない。*1そのひとはこれまでずっと、自らと自らの中に棲む「世間」を相手に、懸命に戦い続けてきたのだ。ハンセン病患者とその家族が、感染のおそれなど無いととうに知れていながら、「世間」からはなおも白い眼でみられる事実に、他人事ではないと感じるのもゆえなしとしない。授かった子がお腹の中にいるとき、その子に重度の知的障害の可能性があると告げられたなら、どうするか。心から喜んでその子を産みたいと思うだろうか? 出生前診断の話は、先にしたとおりである。
「とって」性のまやかしとでも言うべきものがある。たとえば「きみにとってはそれで良いかもしれないけれど、AさんやBさんにとっては不利益なことかもしれないよね。」といったことばの用い方をする。「○○にとって」という視点をみちびくことで、あたかも他者の気持ちや立場を慮るかのようにうながす話法である。この「とって」性のロジックを巧みに利用するのがほかでもない、優性思想である。「重い障害を抱えて生まれてきたそのひと自身にとっても家族にとっても、そのひとがいなくなってしまったほうがよほど幸せではないだろうか。」などと。どこがまやかしなのか。いかにも他者を慮るかのような態度を装いながら、それによってわたしたちの思考の歩みを停止させてしまうからだ。多くの場合、発言する本人にもそこまでの自覚はない。そのため、たとえ何ぴとであろうとも「そのひと自身の気持ちや立場」になどけっして立ちえない、なぜならまさにそのことが、その到達不可能性こそが「そのひと自身」の真の意味にほかならないのだから、というごくシンプルな事実から眼を覆ってしまう。さらには、そのことに気付かせるためにあるのが「とって」性の視点なのだということにも。「まやかし」と呼ぶゆえんである。
「優性思想」の原点には、ひとはひとを、そして、ひと以外の生き物をそもそも差別するものだ、という基本前提がある。ひとはそのように出来ている生き物なのだ、それゆえ当然「差別」はなくなりっこない、ならばそれをいっそ「洗練」させようではないか、ということである。なぜかひとは、自らを中心にして世界を捉えるよう生まれついている。そして自らに近い存在ほどよくもわるくも関心度は高まり、それにともなうプラスマイナスの感情価も、これに比例して高くなる。仏教のような一部の宗教や思想は、このような「自ら」を我執として滅却し、プラマイゼロへ向かうという処方箋を示すが、生きる以上「差別」が生じるのはごく当然で不可避なことであって、わたしたちは「差別」の存在しない世界、いいかえれば中心のないのっぺらな世界を想像すらできない。あるいは想像できたつもりでいるにすぎない。そこに暴力の介在する余地が生じる。それに対抗し、この「のっぺらな世界」を性急に無理強いすることなく、すべての他人を自らと同様にひとしく愛すること――「隣人愛」と呼ばれるそれは、およそ人間には持ちえない視点、本来ありえないおこないである。ほとんど狂気の沙汰とも言うべきこの思念は、それゆえに外部から(神という名の下に)必然的にもたらされたのである。
ここで脱線するが、仏教に言及したついでに、その処方箋について少々触れておきたい。仏教をキリスト教やイスラム教と同様の意味で宗教と呼んでいいかという議論は措くとして、わたしたちが自らを滅却するための処方として示されたのが「観」というユニークですぐれた実践法である。だが私の理解が誤っていなければ、いわゆる「空」や「無」を中核とした仏教思想の多くに(ひと言で「仏教」と括るには多様に過ぎるため、「多く」と曖昧な表現を被せざるをえないが)私は懐疑的である。なぜならこのどうしようもない煩悩を、無明を、愛別離苦を、虚妄として骨抜きにしたり、無限遠点(悟り、彼岸)へと解消するのがその目的なのだとしたら、そんなことはけっしてあってはならないと考えるからである。これらは――ひとの世のあらゆる苦しみかなしみは――そっくり尊重されなくてはならない。たとえばよく「煩悩即菩提」と言われるが、このことばは「煩悩が機縁となって悟りへみちびかれるのだから、煩悩もまた悟りへの道に他ならぬ」などという意ではない。「即」とは縁起や因果的連鎖の意ではなく、「この煩悩はそのまま悟りの世界である。」と解されるべきである。これをひっくり返して「菩提即煩悩」と言ってもいい。これは「悟りの世界はそのままこの煩悩である。」と解される。それゆえひとの世は、どんなものだろうと尊ばれ、味わい尽くされなくてはならない。
こうして、それぞれの抱えてきた荷を思えば、被害者の名前を公表したくないという家族の思いは応分に汲み取られなくてはならない。そして、わが子ひとり、この見せかけだけの冷酷無残な「世間」へ残したまま死ねようかという肉親の悲痛な思いは、私の胸をつらぬいて背から突き出るようである。しかし、まさにこれこそ植松という男の思うツボであり、かれの主張する「正義」の立脚点なのだ。バリアフリーだとか差別なき社会をだとか、誰が言おうとキレイ事にすぎない、けれど理念としての看板は捨てられてはならないという考えまでも包むように、植松の射程はおよんでいるとすら思える。ならば、その射程をわたしたちも超えなければならない。どこにいても、知的障害の子たちの姿がごくあたりまえに溶け込んだ風景になればいいのに。不協和音も心地よい和声にしてしまう音楽家たちの宴のように、その子たちの声がそこらじゅうに充ちて、お互い笑ったりけなしたり励まし合える、そんな世の中になればいいのに。ルサンチマンからでもイロニーでもなく、私はそう心から願わずにいられない。
*1 NHK 「ニュースウオッチ9」二〇一九年七月二五日放送
(第03回 了)
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