さやは女子大に通う大学生。真面目な子だがお化粧やファッションも大好き。もちろんボーイフレンドもいる。ただ彼女の心を占めるのはまわりの女の子たち。否応なく彼女の生活と心に食い込んでくる。女友達とはなにか、女の友情とは。無為で有意義な〝学生だった〟女の子の物語。
by 金魚屋編集部
3 食卓(四)
*
イヴにはロブションに行った。店員さんは、黒を着ていた。料理名を言って、無表情のまま皿を目の前に滑らせる。なにかの儀式みたい。大きなお皿の中央に、菱形のものが乗っかっている。何層にもなっているそれは、ひな人形の下の台に似ている。
「料理っていうのはね、視覚で味わうという面もあるんだ。芸術なんだよ」
彼が、皿に視線をうつしながらしゃべる。
「詳しいんだね」
どうでもいいです。ひな壇のようなものにナイフを入れる。崩れないように気をつけないといけないのが、わずらわしい。フォークの背に乗せて、口に運ぶ。お箸が欲しい。色とりどりなのに、ゼラチンとまぐろの味しかしない。特別美味しいかと言われたら、そうでもない。三口で食べ終わってしまった。物足りない。どこからか店員が寄ってきて、一礼したあと皿を下げる。高い鼻筋に涼しげな目。和風の美しい顔立ちだ。
「ワインはね。人類の歴史上、最も古いお酒なんだ。ギルガメッシュ叙事詩に既に登場しているんだよ」
「すごいね。物知りだね」
ギルガメッシュ叙事詩ってなんだっけ。電子辞書で調べたい。先ほどとは違うギャルソンが、新しい料理を運んできた。長い前髪越しにのぞく、つぶらな目。二十五歳くらいだろうか。かわいい。さすがロブション。クリスマスイブの夜に一人でいるなんて、もったいない。
「天使エビ。グリエしてからスモークしたラクリットと大椎茸をのせて焼き上げ、ケイパーとセップオイルをアクセントに」
ケイパー。セップオイル。またしても眉ひとつ動かさないで言う。社員教育なのだろうか。ライスが付いている。真ん中に居座っているせいか、エビが小さく感じる。これが主菜だとしたら、私はお腹が空いてしまう。フォークとナイフで、エビを挟む。見るからに食べづらそう。滑って、エビがおかしな体勢で裏返った。エビの形状がいけないのだ。足が上に向いていて、転んで助けを求めている人みたい。目撃者がいないかどうか、あたりを見回す。彼が見ていない隙にもとに戻す。もう、細かく切ることにした。彼も同じようにして食べている。味は、普通のエビだった。肥大化したバナメイエビと変わらない。エビ本来の甘みが活きている割に、バナメイエビの評価は不当に低いと思う。
彼が、店員の問いかけに気取った口調で、「ミディアムレア」と答えた。私も合わせた。私の心配を見透かしたように、次には牛フィレ肉がテーブルの上に乗った。黙々と食べる。
「もっと飲みなよ。どれがいい?」
気付けば、ワイングラスが空だ。
「白ワインがいい」
「種類が色々あるんだよ。俺が好きなやつでいいよね? ムルソー・シャルム」
『異邦人』のムルソーさんを思い出した。法廷で、自分の思ったことを正直に言ってしまった人物。嫌いじゃない。
「うん」
外国人の客も少なくない。恵比寿という土地柄が反映されているのかもしれない。メニューにフランス語が並んでいるようなレストランで食事していても、私たちは日本人だ。ほとんど会話を交わすことなく、コーヒーまでたどりついた。
「これ」
彼がリボンのかかった箱をさりげなく私のほうに押しやった。
「あ」
「開けてみて」
金の輪に小さなダイヤモンドをひとつあしらった、シンプルなリング。薬指にはゆるくて、右手の中指に収まった。
「ありがと。綺麗だね」
「よかった。気に入った? サイズ、わからなくてごめん。でも、直せるから」
指輪のサイズは中指にちょうど。今の私の気分にも。
先に店を出て、外で待っている。たちまち寒さを感じる。彼が出てきた。
「お待たせ」
街中がイルミネーションで輝く。ひたすら二人で、街をぶらぶらする。
「寒くない?」
「大丈夫」
「あ。自販機がある」
彼が小走りになる。飲み物が取り出し口に落ちる音。金属がぶつかる音。
「はい。さやちゃん」
彼が私に、ペットボトルのホットミルクティを差し出す。
「私のこと、軽いと思ってる?」
「なんで?」
「遅い時間なのに帰らないから」
「でもそれだけだろ。だって」
うつむいている。
「まーね」
「俺、だまされてるのかな。ってたまに思う」
「じゃあ、お互いさまだね」
「そんなことないよ」
夜の道路を歩く。昼間とは違うもののように感じる。罪悪感を伴う行動は楽しい。鳥になりたいと思ったこともあるけど、夜に周囲が見えるから、人間でよかった。
「三木、家にいるのかな」
「じゃないの?」
「ぼっちか。負け組だな。いまごろ泣いてたりして」
「弟たちとテレビ観てそう」
容易にその姿が浮かんだ。
「ざまあ」
「三木君に勝つために私といるの?」
「なんだよそれ。関係ないし。でもごめん。あんな奴の話なんかして」
「せっかく二人でいるのに」
「沙耶ちゃんは特別だよ」
どこが?
本当に、そうだったらいいのに。
「ありがとう」
「なんで黙ってるの?」
無言になってしまった。
「別に」
手をつなぐ。店はほとんど閉まっている。静かで、私たちの存在をすっぽり隠してしまうような暗闇。すれ違う人が、スキップしている。小走りしている人もいる。たぶん、大学生だろうなと思う。嬌声を上げている。
「はしゃいじゃって、バカみたい」
実は私も、昂揚感でいっぱいだった。
「馬鹿の集合体だな……。ずっと一緒にいたいと思ってる」
唐突。でも嬉しい。目の前にいると淡泊で、無機質な感情が湧いてくる。離れていると、つらい。私が不信感を抱えて生きているからかもしれない。親しい人でも、一度離れてしまったら糸が切れた凧のように、私の手の届かないところに行ってしまうように感じる。マメに連絡してほしいのも、どこか疑っている部分があるからだ。こんな自分、情けないけど。
デートでの言葉って、健康診断みたいなものだと思っている。そのときは、無事でした。お互いに、好意を持ってました。でもそこから先はわからない。
「ずっと歩かせちゃったね。疲れてない? どこかで休んでいく?」
「あっ。いい。平気」
気まずい沈黙。なんかしゃべってよ。
「そうだよな」
「……ごめん」
「いいよ。お茶でも飲もう」
守りに弱いのは自覚してる。だから、これ以上追い詰めないでほしい。どうしていいのかわからない。
男の人はほかにもいる。彼じゃなくても、終わったらほかの人と付き合えばいい。
やっぱりそんな風に思えない。彼はたった一人だし、今の関係って男友達と違わないような気がする。彼が言ったように。前の彼女とのほうが親しいということなのだろうか。もっと距離をつめてぞんざいに扱われてみたい気もする。おまえとか呼ばれて。
比べても意味がないのはわかってる。彼と私なんだから。自分の感情を優先してること自体、勝手なのかもしれない。けど、一瞬で終わりたくなんてない。ほかの人を排除したい。
頭のなかで、処理しきれない思いがループする。一分くらいのあいだに、思考が追いかけてくる。恋愛感情なんて玉ねぎみたいなものだ。分析したら、実体がなくなってしまう。
どの喫茶店も、ラストオーダーの時間だ。終夜営業のファミレスに入り、奥の席に座る。彼がコートを脱ぎ、自分のマフラーをきれいにたたむ。メニューを広げる。
「とりあえず飲み物頼もう。ドリンクバーってやつ?」
机に備えてあるボタンを押す。オレンジの制服を着た店員が、注文をききにきた。
「私、あっちで飲み物とってくるね。なにがいい?」
「なんでもいいよ。俺は優しい男だからさ」
彼はすこし、むっとしたままだ。
とりあえず、コーヒーをふたつ持ってくる。
香りのぬけたコーヒー。
「ね、クリスマスケーキがあったよ。頼んできちゃった」
私はイベントの限定ものに弱い。
「ん? そっか。ケーキ、食べたいよね? 俺の家ではクリスマスとか、しないから」
「え?」
「正月とか、誕生日とか。そういうの、やらないんだ」
「うん」
聞いていることしかできない。
「うちの父親、なにか不満なことがあると家族カードを止めるんだよ。母には、予告せずに。大学時代の友達と食事に行ったとき、カードが使えなくて真っ青になったらしい。今更、話し合う雰囲気でもないみたいなんだよ。無理して取り繕わなくていい、って母親も言い出して。いつのまにかそんなかんじになってた」
夫とその子供に対して、余分な愛情を示さない。それが彼の母親の、消極的な復讐なのだろう。
「うん」
「だから、俺も父親のことはあんまり好きになれない」
彼がまばたきした。私に感じられるほど、早く。
「そっか」
「でも、結婚する前はそんなでもなかったみたいなんだ。ちゃんと見極めたつもりだったのに、私も悪かったのね、って母は言ってる。それを聞かされるのも複雑だけどね。しょうがないよな。うちの父親、祖母とべったりなんだよ。だから、母に嫌われてもどうにでもなるって思ってるところがある。やってられないだろうな」
「うん」
「親父、なにを言われてもへらへらしてるところがあるんだよ。母が怒って、椅子を振り上げたことがあって。でも、二階に上がっていくだけ。平然としてる。根がふてぶてしいんだろうな」
「……」
彼の母親が、敬語でまくしたてる情景が頭の中で再現された。
「俺、見た目が親父に似てるんだよ。だから、感情移入したくないって母親に言われた。ほかにも似てるところがあるんじゃないか、って。日に日に親父みたいになったら、顔も見たくないって」
コップから水があふれるように、もうたえられないと思ったのだろう。人を愛せなくなるとは、そういうことだ。ほんの些細なことでも、我慢できなくなる。連想ゲームに似ている。あっという間に関連するものにまで波及する。
「そっか」
「ごめん。こんなこと話して」
私は彼の手に自分の手を重ねた。
「私は、わかってるよ」
彼が私の手を握る。
オーダーしたケーキを持って、店員が近づいてきた。
ケーキをテーブルに置く。彼の身体が前のめりになる。
「メリークリスマス。ってこれ、カタカナだよ」
チョコレートのプレートを指さしている。声が大きい。そんなにおかしいのだろうか。
「ひらがなじゃないだけ、よかったよ」
「こういうのが、逆にオシャレなのかな?」
彼が笑っている。まわりの薄いフィルムを、フォークで丁寧にはがす。
「手でやればいいのに」
「さやちゃんって、大雑把だよな。別にいいけどさ」
私のほうには、プラスチックのひいらぎと、サンタさんが乗っかっている。赤すぎるイチゴと、缶詰めっぽいカット桃。
「そのサンタ、沙耶ちゃんに似てない?」
「どこが? 私、こんなに間の抜けた顔してる?」
「かわいいじゃん。すごくかわいい」
「褒め言葉になってないよ」
「星がサンタの帽子かぶってる」
彼のケーキの上には、顔がついた星。
息が止まってしまいそうなほど、笑っている。小刻みにふるえる。小さな男の子みたい。
「なんか、アルコール欲しくない?」
「飲む。っていっても、赤ワインか白ワインしかないけどね。私の好きな、白ワインでいいよね?」
「俺の口調を真似するなよ」
彼がぽんぽん、と私の頭に手を載せる。
時計が目に入った。十一時五十分頃。
「終電、なくなっちゃうね。ごめん。俺のせいだ」
「全然平気。クリスマス、一緒に過ごそう」
「ありがとう」
フォークでサンタを半分にする。ぎざぎざになってしまった。顔のほうを、彼のケーキに追加してあげる。
「うわ。超ひどい。でも、せっかくだし食べよ。いただきます」
彼はお行儀がいい。
「私も」
「なんか、ゴリゴリするんだけど。固くない? これ」
ものめずらしそうだ。
「だって、砂糖だもん。すごく甘いね」
「五分後には、クリスマスだね」
私はイベントが好き。特に誕生日とクリスマスは。非日常だから。
非日常が積み重なって、人生が終わってしまえばいいと思う。
明け方六時に、ファミレスを出た。
雪が降ってきた。彼の紺のコートの上で、結晶になって水滴と化す。
寒さとともに、いつか過ぎていく季節。
(第08回 了)
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