女優、そして劇団主宰でもある大畑ゆかり。劇団四季の研究生からスタートした彼女の青春は、とても濃密で尚且つスピーディー。浅利慶太、越路吹雪、夏目雅子らとの交流が人生に輪郭と彩りを与えていく。
やがて舞台からテレビへと活躍の場を移す彼女の七転び、否、八起きを辻原登奨励小説賞受賞作家・寅間心閑が Write Up。今を喘ぐ若者は勿論、昭和→ 平成→ 令和 を生き抜く「元」若者にも捧げる青春譚。
by 文学金魚編集部
「センセイ、オハヨウゴザイマス」
少したどたどしいその声が、自分に向けられたものだとすぐには気付けなかった。
「センセイ?」
その言葉でようやく気付いて振り返り、「おはよう!」と声を張ってみた。
「オハヨウゴザイマス」
どこか安心したような顔で頭を下げたのは、ワンさん。おチビちゃんが受け持つクラスの中で、一番勉強熱心な生徒さんだ。生徒、とはいっても彼は多分四十代半ば。来日する前は中国で学校の先生をしていたらしい。
よし、と軽く気合いを入れて「教師」モードに切り替える。数ヶ月前から、生まれて初めて人に何かを教え、「センセイ」と呼ばれるようになった。
生徒たちには口が裂けても言えないが、実はおチビちゃん、三年ほど前に取得した日本語教師の資格のことをすっかり忘れていた。だからお父様に「先生、やってみないか」と言われた時、一瞬何の話をしているのか分からなかった。
「あれ、取ったんだよな? 日本語の先生」
そう言われてようやく話がつながった。一応ね、と答えると苦笑いで返される。
「一応でも何でも先生は先生だよ。どうだ、実際に教えてみないか?」
はい、と即答しなかった理由ははっきりしている。昔からおチビちゃん、先生にだけはなりたくないと思っていた。
両親だけでなく、親族にも「先生」が多かったので、小さな頃から良いイメージがない。堅苦しくて、杓子定規。これに尽きる。役者の道へ進もうとした時、大反対したお父様のことを恨んではいないが忘れてもいない。
数日後、改めて話を聞いてみると、今度新設される日本語学校の学校長になるという。
「え? 何で? どういうこと?」
混乱するおチビちゃんに、お父様は順を追って説明してくれたが、あまり頭には入ってこなかった。ざっくり言えば、台湾の友人から持ち込まれた話とのこと。その学校で日本語を教えてみてはどうか、という有難い話だ。
お願いします、と今度は即答した。実は数日前、数年ぶりに浅利先生とお会いする機会があり、直接言われたことがある。先生が贔屓にしている寿司屋でご馳走になり、そろそろその店を出ようかというタイミングだった。
「あ、それからな」
「はい」
「君はもう、役者を目指さない方がいい」
え、と素っ頓狂な声が出た。周りのお客さんの視線を感じたが、そんなことで先生は動揺しない。すみません、と小さな声でおチビちゃんは謝った。
「でもね、演出だったら出来ると思うよ」
また声が出るところだった。演出? 私が? これは素直に尋ねてみる。
「だったら私、どうしたらいいんでしょうか? どんな風に勉強すれば……」
そんなおチビちゃんに、先生は力強く笑ってこう告げた。
「俺の背中を見とけばいい」
格好良いなあ、と素直に思った。でも同時に「それってどうすればいいのかしら?」と疑問が浮かぶ。次の言葉を待っていたが、先生は湯呑みのお茶に口をつけた後、「じゃあ、ご馳走様ね」と店の大将に声をかけただけ。どうやら話は終わったらしい。
まさか話を蒸し返すこともできず、おチビちゃんの中には理由が分からない二つの言葉が残った。「役者を目指すな」と「演出なら出来る」。もちろん信じるに値する言葉だ。だから今回、日本語学校で教えてみようと思った。そして開店休業状態に近かった俳優業も一旦ストップすることにした。
この選択が正しいかどうかは分からないし、「演出なら出来る」という先生の言葉に近付いているかどうかもまた分からない。でも、今までだってそうだったのよね。そう振り返り、おチビちゃんは未知の世界へ一歩踏み出した。
その先に待っていたのは、中国をはじめ、タイ、ビルマ(現在のミャンマー)、ベトナムから来日してきた生徒さんだった。平均年齢は三、四十代と高め。大半がアルバイトをして、本国に仕送りをしながら日本語を習得しようと頑張っている方々だ。
教え方は特に決まっていないと聞かされ、正直なところ躊躇したおチビちゃんだったが、ならばと腹をくくることにした。そう、私は役者。しかも「演出なら出来る」と浅利先生にも言っていただいた――。
考えた末に出した答えは「ロールプレイ」。今後日本語が必要になるであろうシーンを想定し、それぞれの役を演じてもらうことで、生きた日本語を学んでほしいと考えた。
例えば病院。自分の体調をちゃんと伝えることは大切。文字通り、命にかかわる。それが伝わるからこそ、生徒さんたちも真剣だ。こういう授業形式だからこそ、おチビちゃんの授業はいつも活気に溢れていた。
vまたこの学校は日本語教師の育成にも力を入れていて、放課後は教師の為の授業を実施。おチビちゃんは、綺麗な日本語を話す為の「発声法」の練習を担当した。
ちなみに一緒に担当した先生は、映画「ひめゆりの塔」に出演していた青年座の役者さん。懐かしさよりも、役者というキャリアの可能性を実感できて心強かった。
その後、元号が「昭和」から「平成」へ変わった年に、妹の先輩から専門学校で教えてほしいという話が舞い込んでくる。担当する授業は、自動車デザイン科のプレゼンテーション。つまり車のデザイナーさんが、自分のデザインを売り込む為に必要な話術・技術を教えなければならない。実はこれも、俳優というキャリアを見込まれてのものだった。
車のデザインに関しては全くの門外漢なので、あまりそこに捉われることなく、プレゼテーションの上達だけを目指すことにした。やはり授業に用いたのは「ロールプレイ」。
想定した舞台は、テレビなどで見ることの多い記者会見場。生徒を質問する側、される側に分け、役柄を演じてもらう。テーマは車のデザイン、ではなくプライベートな事柄。「どんな人がタイプですか?」「恋人はいますか?」という他愛もない質問に、生徒たちはその度盛り上がった。
どうやらこの授業も好評だったようで、数ヶ月後には同じ学校内で「ディスクジョッキー科の講師を任される。そしてその数ヶ月後、思いがけないところから講師としての依頼が届いた。
――株式会社浅利演出事務所。
そう、劇団活動の他にオペラの演出や、長野冬季オリンピックなど国際的な仕事も多くなった浅利先生が、数年前に個人としての仕事を行うために設立した事務所だ。
実はこの時期、先生は松竹歌劇団から団員への指導を頼まれていた。
松竹歌劇団、通称SKDは水の江瀧子、草笛光子、そして倍賞千恵子・美津子姉妹ら多くのスターを輩出した、五十年以上の歴史を持つレビュー劇団だが、ここ数年は本拠地である国際劇場の閉鎖や海外公演の終結、そして経営的にも赤字が続き「ミュージカル劇団」への転換を掲げていた。その目的達成のため、白羽の矢が立ったのが浅利先生。その先生がおチビちゃんに白羽の矢を立てた形だった。
おチビちゃんが依頼されたのは、先生の代行としての演技講師。ざっくりとした言い方をすれば、踊りがメインだった人たちに芝居を教えるのが役割。今までと較べるまでもなく、キャリアを存分に活かせることは間違いない。
先生から「俺の背中を見とけばいい」と告げられたあの日から数年。予想よりも早く訪れたこの機会に、おチビちゃんは心地よいプレッシャーを感じていた。ただ実際指導に入ってみると、今までとはまったく違う悩みを抱えることとなる。
その最大の理由は生徒さんの立場だった。歴史の長いSKDだけに、中には四十代、そしてきっとそれ以上であろう先輩がたも多くいる。今まで培ってきたキャリアもあるし、ダンス力、歌唱力のレベルだけならずプライドも高い。
もちろん既に自分のスタイルが完成している人に、新しく何かを学んでもらう難しさもあるが、それ以上に「習わなくてはならない」現状に対する不満・反発を感じる瞬間が、無視できない程度には見受けられた。いくら浅利先生の代行とはいえ、ベテランの生徒さんからすればおチビちゃんは後輩。素直に受け入れづらい部分があるのかもしれない。
そんな時、役に立ったのはこれまでの「先生」としての経験だった。人に何かを教える時に、違う角度からアプローチすることで思わぬ成果が上がることは理解していたが、大切なのはそれが決して「近道」ではないということ。結局は時間を惜しまずに向き合うことが、最良の結果を生み出す唯一のやり方。
だからおチビちゃんは、予定されている発表会に照準を合わせ、「近道」を探すことなく日々の指導を続けてきた。演目は『夢から醒めた夢』。赤川次郎原作のミュージカルで、数年前に劇団四季が初演を行っている。
一番頭を悩ませたのはキャスティング。大勢の生徒さんを全員輝かせる為に、まず班ごとに分け、一幕はこの班、二幕はこの班、という具合に割り振ることにした。何度やっても、もっと良い答えがあるように思えてしまうのが苦しいところだが、そのポイントを見極めるのが「先生」に託された最大の責任。おチビちゃんは丹念にその作業を行った。
その結果、発表会を観た浅利先生から高い評価を得ることとなる。まずはキャスティングについて褒めていただき、そこから派生する形で「この芝居の弱いところが分かった」との言葉を聞くことが出来た。
「君のおかげでね、この芝居の弱いところというか、生き方が分かったよ」
別に見返りを求めて頑張ったわけではないが、先生からの畏れ多くも嬉しい一言を聞き、おチビちゃんの内側は報われた想いで一杯になった。
この時期にもうひとつ印象的だったことがある。先生や四季のスタッフと共に、イギリスやイタリアを巡った時に立ち寄ったミラノの歌劇場・スカラ座でのこと。「ちょっといいかな」と先生は劇場のスタッフを呼び、頼みごとをしてくれた。
「僕はもう行かなきゃいけないんだけどさ、この子、観るのが好きだから、何でもいいから観せてあげてくれないかな?」
この子、はもちろんおチビちゃん。え、と驚く本人をよそに先生は何度も「観るのが好きな子だから」と頼んでくれた。
「どんな舞台でもいいから、別にオペラじゃなくてもいいんだ。観るのが好きだから、何か見せてあげてよ」
その結果、おチビちゃんはバレエを鑑賞することができた。もちろんそれ自体も我を忘れるほど素晴らしかったが、先生から「観るのが好き」だと認識されていることが、とても嬉しく道中一番の思い出になった。
SKDと同時期に受け持つことになったのは、自動車デザイン科、ディスクジョッキー科を担当した専門学校が新設した「ミュージカル・コース」。また、その二年後には「東京声専音楽学校」から改称した「昭和音楽芸術学院」で教えることとなる。この時に声をかけていただいたのも浅利先生。ある日突然電話がかかってきた。
「どうだ、君、やってみないか?」
そう言いながらも、まるで冗談を言う時のように笑っていた。なぜかしら、と考える間も無く、先生の言葉は続く。
「ただ、やるのは『演出論』だぞ。大丈夫か?」
大丈夫じゃないです、という言葉をグッと堪えて話を聞く。座学の授業なら無理だろうなと思っていたが、どうやらそうではないらしい。スタッフ志望の学生にも役者をやらせる必要があるので、その指導を担当しないかという話。しかも、また四季の脚本を使えるという。だったら、とおチビちゃんは引き受けて、授業では大好きな演目『エクウス』を取り上げることにした。
順調に指導者としてのキャリアを重ねる中、平成七年から授業を持つことになったのは、日本工学院八王子専門学校の演劇科。新設コースなので、もちろん学生は一学年のみ。
生徒も少ないが先生も少なく、色々と受け持たなければいけない状況で、遂に避けてきた座学の授業を担当することとなった。タイトルは「演劇史」。四季の研究生時代、フランスについてはある程度教わったが、さすがにそれだけでは足りない。どうしたものかと考えた挙句、頼りにしたのは親族。叔父が大学でギリシャ文学を教えていることを思い出せた。演劇のルーツを辿るなら、この辺りは不可避だろうと当たりをつけ、プリント、映像類の準備を協力してもらい、なんとか事なきを得た。いや、本当にギリギリセーフ。
あんなに嫌がっていた「先生」だらけの親族に救われるなんて、と自らも「先生」になったおチビちゃんは、ちょっとだけ運命の不思議を感じていた。
二年後の四月、工学院での指導がメインとなったおチビちゃんは、少々緊張した面持ちで校内を歩いていた。これから入学してくる生徒たちにも、「近道」を探すことなくしっかり向き合わなくては……。
色々なタイプの生徒たちと向き合うのは、体力も精神力も必要だと最近理解できるようになった。ざっくばらんに言えば「しんどい」ってヤツだ。頑張らなくちゃなあ、と背筋を伸ばすおチビちゃんはまだ知らなかった。
身長百八十六センチでドレッド・ヘアー、大学受験に失敗し、「なんか楽そうだから」という不埒な理由で入学を決めた新入生がいることを――。
(第44回 了)
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