妻の春乃が悪夢でうなされ始めた。夫の祐斗は心配でたまらない。受診した心療内科で担当医から「Dream Sharing Technology(DST)を試してみませんか」と勧められる。試験中だが相手が睡眠中に見ている夢が見られる最新技術だ。悪夢の原因を突きとめたい祐斗は春乃の夢の中に入り込むのだが・・・。ルーマニア人能楽研究者で翻訳者でもあるラモーナ・ツァラヌによる連作短編小説!
by 金魚屋編集部
パッと目が覚めた。あまりに急な目ざめだったのでチューブの内側に頭をぶつけてしまった。「痛っ」と思った瞬間、やっとDSTの中にいるのを思い出した。早く出たかったので乱暴にボタンをこぶしで殴った。
春乃は僕の後からDSTを出て来た。僕を見たが何も言わなかった。
カウンセリングの時、やはり扉のことを聞かれた。
「今までに、あのような扉が夢に出てきたことはありますか?」
「ないです。妻が歩き出すと道を遮るように扉が現れるみたいでした。でも彼女はあまり驚いていなかったような・・・」
「どうしてそう思うんですか?」
「いや、なんとなくですが」
先生は丁寧にメモを取っていた。
「夢の中の奥さんは、いつもと違っていましたか?」
「そういえば、普段より大胆というか、積極的だったような気がします。僕の手を引っ張って歩き出したりして。いつもは僕がリードするんですが・・・」
「そうですか」
先生は相変わらずメモを取り続けていた。サラサラとかすかなペンの音がした。僕はなぜか夢の中の春乃について話すのを苦痛に感じた。
「しかし面白いですね。夢の中じゃ、状況を変えたいと思ったら、それがすぐ目の前に現れるんだから。夢の世界の法則みたいなものに触れたような気がしましたよ」と話題を変えた。
「そうですね、面白い、とても面白いんです」
先生はそう言って謎めいた微笑みを浮かべた。
カウンセリングの後、すぐに家に帰った。その夜の春乃は言葉少なだった。彼女が何を考えているのかはだいたい想像できた。僕だって夢で見たことが気がかりだった。なぜ扉なんだろう。どう解釈していいのかわからなかった。
翌朝はすっきり目ざめた。疲れも取れていた。いつも通り朝食をとると春乃は仕事に出かける僕を明るく玄関で見送ってくれた。ただ二人ともいっさい昨日の話はしなかった。またそれでいいと思った。壁なんて冗談じゃない。夢は夢で僕らの幸せな生活の方が現実なんだから。
しかししばらくして、また春乃が悪夢で激しく身体を痙攣させた。僕は飛び起きた。
「だいじょぶよ」と春乃は言ったが僕は不安だった。その夜は朝まで眠れなかった。DSTを受けたが問題は解決していない。なんとかしなければ・・・。
「ねぇ、もう一回君の夢の中に入らせてくれない?」
僕は寝不足のまま朝食のテーブルにつくと春乃に言った。それしか解決の方法はないと思った。しかし彼女の反応は意外だった。「イヤよ、もうじゅうぶんでしょ!」それまで聞いたことのない強い口調で拒絶した。顔がこわばっていた。
しかしもっとはっきり彼女の悪夢の原因を突き止めなければ、せっかくDSTを受けた意味がなくなってしまう。僕は必死になって悪夢が未解決なのに治療を止めるわけにはいかないと説得した。
「わたしは病気じゃない。もう勘弁して」
「僕にとっては大事なんだ。お願いだ、これで最後だって約束するから」
僕は説得し続けた。壁時計を見るととっくに出社時間を過ぎていた。春乃もチラリと時計を見た。時間を気にしていた。いけないと思ったが僕は春乃の優しさにつけ込んだ。「お願いだよ」と言葉を重ねた。
「これで最後よ、約束して」
しばらくして、溜息交じりの声で春乃が言った。
なにはともあれ春乃はもう一度DSTを受けることを承諾してくれた。僕は再び春乃の夢に入れば、問題解決の糸口が見つかると思い込んでいた。どうしても春乃の心を隅々まで理解したかった。
家の中を掃除している春乃。リビングで床を一生懸命に拭いている彼女。声をかけてみるが振り向かない。聞こえていないようだ。
僕は砂浜を想像してみた。すぐに足裏の砂が波に解かれていく感触がした。春乃の夢の中なのに僕の望みが反映されるようだ。これならうまくいく!
春乃と手をつないで砂浜を歩く。目をキラキラ輝かせて波の泡を踏む彼女。無邪気にはしゃいでいる。いつまでも見ていたい。
突然、春乃の後ろに影が! 黒い服の暗い表情の男だ! 彼女をじっと見つめている。世界が暗くなったような気がする。
春乃を守らなくちゃ!
刃物を想像する。そして手の中にズシリと重いナイフの感触があった。見ると流線型でキラリと光った。
僕は男に突進した。体当たりしたが手応えがない。フッと黒い霧になって消え去ったような。あたりを見回すと血まみれになった男が倒れている。
え? まさか!
僕は男に駆け寄った。服をつかんで揺り動かした。だいじょぶか、だいじょぶかと言っているのだが声にならない。男の目からスーッと光が消えた。ゾッとした。
いやあああっ! いやあああっ!
遠くの方から春乃の叫び声が響いた。
だいじょうぶだよ、あの男は僕が殺してしまったから・・・。
そう言ってやりたいのだがやはり声が出ない。
ハッと目ざめた。
「いやあああっ! いやあああっ!」
春乃の鋭い叫び声が聞こえた。現実だった。
「救急対応!」
誰かが叫んでいた。
本当に春乃が叫んでいるのに、なぜか僕は冷静だった。チューブ内のボタンを押してDSTからゆっくり出た。先生とスタッフが春乃のチューブの周りに集まっていた。
「ゆっくり上半身を起こしてください。ほら、君は傷をおさえて」
先生たちの様子から、彼女がチューブの壁に頭を強くぶつけてしまったらしいとわかった。
人だかりの間から春乃の姿がチラリと見えた。スタッフが春乃の額をおさえるガーゼに血がにじんでいた。春乃は身体を震わせて泣いていた。「いやっ、いやっ」と小さく叫び続けていた。
僕が春乃の方を見つめているのに気づくと先生が小走りで近寄ってきた。
「申しわけありませんが、わたしたちにも予想外のことが起こってしまいました。今は奥様に落ち着いていただくことが先決ですから、しばらく病室でお待ちいただけますか」険しい顔で言った。
僕はスタッフ二人に両側から支えられてDST部屋から出た。「一人で歩けます」と言ったのだが「念のためです」とスタッフたちは両側から僕の肘を軽く支え続けた。
病室はどこにでもある簡素な部屋だった。ベッドに座ってぼんやりしていた。春乃のことが気になったが先生たちにお任せするしかない。
「大変お待たせして申しわけありません」
小一時間ほどで先生が部屋に入ってきて、見舞客用の椅子に座って僕に向き合った。
「奥様は鎮静剤で落ち着かれました。しかし万が一ということがあります。今日は入院して、様子を見させていただけませんでしょうか」
「万が一とは?」胸がざわついた。
「精神的な傷のことです。ああいうことが起こるとは・・・」
先生は言葉を途切らせた。夢の中で起こった殺人事件には触れなかった。僕も触れたくなかった。「春乃はだいじょうぶなんですよね」と訊いた。
「わたしたちの経験上、深い精神外傷になっていつまでも残ることはないと思います。しかしカウンセリングをさせていただいて、それを確認する必要があります」
「そうですか」
気の抜けた声が出た。いまさらながら夢の中で男を殺してしまったことに、自分でも大きなショックを受けているのに気づいた。たとえ春乃を守るためとはいえ、僕があんなことをするなんて・・・。
黙っていると先生が僕の顔を覗き込みながら「今日はお帰りください。奥様はわたしどもで責任もってケアをさせていただきます」と言った。
「ああ、はい」
そう言っていた。春乃に会わせて欲しいとは言わなかった。疲れていた。それだけでじゃなく春乃に申しわけなかった。春乃を怖がらせてしまったのは僕なんだ。今は僕は病院にいない方がいいんじゃないかと思った。
ほとんど眠れないまま夜が明けた。出勤しようと思ったのだが春乃のことが気になって仕方がない。会社に欠勤のメールを出して壁時計を見つめた。病院は九時からだった。時計の針が九時を指すのと同時に電話した。
「奥様は朝食をお食べになって元気ですよ」
先生の言葉にホッとした。「もう迎えに行っていいですか?」息せききって訊ねた。
「いえ、カウンセリングがまだです。それを終えてからでないと」
「カウンセリングはいつからですか?」
「午後からですが、終わる時間はちょっとわかりません。長引く可能性もありますから」
「じゃあだいたいの時間を教えてください。病院に行って待ってます」
「いや、奥様のカウンセリング結果を分析して、旦那さまともお話しなければなりません。申しわけありませんが、私の方から連絡差し上げます。ご心配でしょうが、それまでお待ちいただけませんでしょうか」
電話を切ってリビングのソファに座り込んだ。考えなければいけないことがたくさんあるような気がしたが、どう整理していいのかわからなかった。春乃のいない家の中はガランとして寂しかった。先生からの電話があったのは夕方だった。
「最初に申しあげておきますが、奥様はもう一日入院なさいます」
カウンセリング室に通されると、先生はまずそう言った。
「えっ、やはり三回目のDSTが精神的外傷になったんですか?」
「そうは思えません。カウンセリング結果に問題はありませんから。夢の中に黒い服の男が現れたでしょう。以前のカウンセリングで滝本さんは、ご自身の影じゃないかとおっしゃいましたが」
ドキリとした。「そうじゃないかという気がしたんですが・・・」
「奥様は、あの影は自分の心が作り上げた滝本さんの心像だろうとおっしゃいました。滝本さん本人ではないとも。ですからあの影を現実の滝本さんに重ね合わせることはありません」
「じゃあ妻はなぜあの影を怖がるんでしょうか」
「人間の心は複雑です。奥様の場合、怖がると言っても危害を加えられるとか、そういった恐怖ではないでしょうね。奥様と滝本さんはお互いを深く思いやっているからああいう影が現れたのだと思います」
わかったようなわからなような説明だった。もやもやしたまま黙っていると、先生が「滝本さんは、なぜあの影を抹消しようとなさったんですか?」と訊ねた。
ハッとした。一番考えたくないことだった。先生は〝殺した〟という言葉を使わなかった。それがとても重い意味を持っているような気がした。
「邪魔なような気がしたんです」咄嗟にそう答えた。
「そうかもしれませんし、そうでないかもしれません。今回のDSTでの一番の収穫は、滝本さんもあの影を見たことだと思います。本当なら奥様の心の中から出ないものですからね。あの影をお二人で見たことは必ずいい結果をもたらしますよ。ただ少し時間がかかると思います。しばらく時間を置いて滝本さんと奥様にカウンセリングさせていただきます」
先生はじっと僕を見ながら言った。
明日になれば退院するのだからそっとしておこうと思い、僕はまた春乃に会わずに家に帰った。
春乃は翌日の朝電話してきて「ねぇ、しばらく実家に戻ってもいい?」と言った。驚いたが「いいよ」と答えていた。春乃の心がどうなっているのか、今の僕にはわからない。
「あんまり言いたくないけど、また悪夢にうなされて、あなたを心配させるのがイヤなのよ。先生はいずれ悪夢は見なくなるっておっしゃったけど、自分一人でなんとかしたいの。また同じこと起こっちゃうんじゃないかって心配なの」
「うん、ゆっくりしておいで」
本当はすぐに戻ってきて欲しかったがそう言った。春乃の実家は電車で二時間ほどの場所にあるからそう遠くない。
「ああそうだ、歯ブラシとか着替えはどうするの?」そう聞いたが、実家にまだ荷物が残ってるからだいじょうぶだということだった。塾もしばらく休むと言う。どうやら春乃は僕に会わずに実家に行きたいようだ。それがいいことなのか悪いことなのかわからなかったが、彼女の気持ちを優先することにした。
春乃からは毎日メールが来た。「寝坊してない?」「ご飯ちゃんと食べてる?」といった短い内容だった。僕も簡単な返事を返した。電話はしなかった。彼女から電話してくるまで待とうと思った。ただ一週間たっても春乃は帰ると連絡してこない。不安がつのった。
「あら祐斗さんお久しぶり。ええ、春乃は元気ですよ。今買い物に出てるけど」
我慢しきれず土曜の昼に春乃の実家に電話すると、義母が出た。がっかりしたがホッとしてもいた。
「なんか怖い夢見るんですってね。それで祐斗さんにもご迷惑かけちゃって。でも、春乃、そんなに繊細な子だったかしら」
義母の口調はあっけらかんとしていた。物静かな春乃と違って快活な女性だった。
少し元気が出た。「春乃はとっても繊細ですよ」そう言って思わず笑った。
「結婚三年目よね、まあ夫婦になったらいろいろありますよ。こっちに帰ってくると、口に出さないけどお父さん大喜びでいいんだけど、祐斗さんは寂しいわよねぇ」
義母は義母で、それなりに心配しているようだ。
「僕はだいじょうぶです。ちょっと春乃の様子が知りたかっただけですから」
「帰ってきたら電話させましょうか」
「いえ、それには及びません。別に用事はないんで後で春乃にメールしておきます」
電話を切るとすぐに春乃にメールした。「さっき家に電話したけど気にしないで。ゆっくり休んでね」と打った。せかすつもりはないと伝えたかった。でも本当は「いつ帰ってくるの?」と訊きたかった。春乃が電話に出たらきっと訊いていただろう。
そんなことすら言いにくくなっていた。あんなに愛し合っていたのに・・・。春乃からは夜になって「ありがとう」というメールが着いた。週末で休みになったせいかメールはそれだけだった。
明け方まで眠れずにいたので、目覚めると昼前だった。顔を洗いに洗面所に行った。
ハッとした。電気をつけなかったせいか、鏡に写る自分の顔があの夢の中で見た男のようになっていた! 肌の色が黒く眉間に皺ができ虚ろな目だった。
手早く顔を洗い、鏡を見ないようにして歯を磨いて洗面所を出た。
春乃がいない家にいるのがいたたまれなかった。車に乗って海辺のテラスに出かけた。チラチラバックミラーを見た。やはり自分の顔があの影の男のそれになっているような気がした。気のせいだと思いたかった。サングラスをかけた。
テラス席に座ってコーヒーを注文すると少し落ち着いた。昼過ぎの海は穏やかで波がキラキラ光った。しかし海が明るく綺麗であればあるほど、自分の中の闇が深まってゆくようだった。少し息苦しかった。視界が狭まり壁に囲まれてゆくような気がした。春乃と僕はどうなってしまうのだろう・・・。
いたたまれず目をつぶって考えた。春乃と受けたDSTの光景がとりとめもなく心の中に浮かんだ。
突然、なんの前触れもなく「ああそうか」と思った。
僕は、あの影の男だ。間違いない。それを認めなければ。
しかし恐らく見るべきはなかった。見てしまったからあんなことが・・・。
だけど見なければわからなかった。
黒い影の男はいる。でも見えなくていいし、殺さなくてもいい。
そう思って目を開いた。
スマホが鳴った。春乃からだった。
「今お家に帰ったの。どこにいるの?」
いつもの彼女の声だった。
「ああ、海辺のテラス。ちょっと気分転換したくてね」
「そう。わたし、もうだいじょうぶだよ。そう感じるの」
静かな声だった。
「よかった。これから帰るよ」
「うん。お夕食用意するわ」
「ちょっと待って」
春乃を呼びとめた。
「僕も君に伝えたいことがあるんだ。僕ももうだいじょうぶだよ」
「うん」
電話が切れた。
僕はサングラスを外して海を見た。
視界を覆っていた闇が消えて、眩しい海の青が目に飛び込んできた。
(後編 了)
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