妻の春乃が悪夢でうなされ始めた。夫の祐斗は心配でたまらない。受診した心療内科で担当医から「Dream Sharing Technology(DST)を試してみませんか」と勧められる。試験中だが相手が睡眠中に見ている夢が見られる最新技術だ。悪夢の原因を突きとめたい祐斗は春乃の夢の中に入り込むのだが・・・。ルーマニア人能楽研究者で翻訳者でもあるラモーナ・ツァラヌによる連作短編小説!
by 金魚屋編集部
きっかけは春乃が悪夢でうなされ始めたことだった。眠っている時にグイと身体が痙攣し、その激しい動きで隣で寝ている僕は目を覚ました。彼女は一瞬だけパッと目を開いて部屋を見まわすと、すぐに落ち着きを取り戻した。叫んだりはしなかった。恐ろしい夢を見たというより何かに驚いているようだった。
「だいじょうぶ?」
あわてて声をかけると「だいじょぶ」と言って僕に抱きつき再び眠りに落ちる。僕が隣にいると安心なようで嬉しかったけど。
しかしこれが毎週のように起こるようになった。気になって朝、何の夢を見たのとたずねても思い出せないと言う。頻繁に起こるので僕は心療内科とか精神科を受診するようすすめた。最初は悪夢なんか見てないと否定して、そんな必要はないと嫌がっていた。しかし僕が心配して睡眠不足になっているのを気にかけたようで、結局は診察に行くのを同意してくれた。
初回は春乃一人で行ったが二回目からは僕も呼ばれて一緒に受診することになった。簡単なカウンセリングを受けた。春乃の見る悪夢が自分に関係あるとは思っていなかったが、先生の話では彼女一人の問題ではなく私たち二人の問題だろうということだった。
かなり驚いた。春乃を悩ませている悪夢の原因が僕にあるなんて! 先生に春乃がどんな夢を見ているのかを聞いてみると、特に何も起こらないが僕に似た人が彼女をただじっと見つめているのだと言う。なんとなく怖い視線なのでそれに驚いて目を覚ますのだと。
先生に促されて、過去に春乃のトラウマになったかもしれない事件がないか振り返ってみた。まあ、出会った頃は色々あった。お互い好きだったのにその気持ちをうまく伝えられずにいた。春乃は僕以外の男友達や女友達に話しかけられると笑顔で答えるのに、僕が近づくと棒みたいに固まって無口になっていた。僕は彼女と会話できないことに苛立った。彼女がぎこちない笑顔で話しかけてくれた時も、なんとなく気に入らなくて「俺に話しかけないで」と言い放ってその場を去ってしまったことがある。
でもそれは実に幼稚な好きの裏返しだったから、すぐに彼女に謝りに行った。少しずつ話すようになり気づけば普通に会話できていた。それから何でも話し合えるようになり夫婦になってからも仲が良く、周りの人に羨ましがれるくらい幸せだ。喧嘩もほとんどない。僕自身は自分でもびっくりするくらい幸せな結婚生活を送っていると思っていた。
だから彼女の悪夢の原因が僕にもあるかもしれないなんて、さっぱりわからない。思いつくのはあの時の意地悪くらいだ。もしかするとあの時僕がひどいことを言ったのを、彼女はいまだに許してくれていないのかな。彼女は深く傷ついて無意識にそれを引きずっているのかもしれない。
なんでも気づいたことは言ってくださいねと言われていたので、学生時代の意地悪を電話で先生に伝えた。先生は「それだけではなんとも言えませんねぇ」とうなり、「Dream Sharing Technology(DST)を試してみませんか」とおっしゃった。DSTは夢を共有する技術で相手が睡眠中に見ている夢が見られるらしい。もちろんお互いの許可を得た上で。開発されたばかりの技術でまだ試験中だけど、特許を取得すれば心理カウンセリングにおいてカップルや親子関係の問題解決に使えるかもしれないのだという。
春乃がどんな夢を見ているかわかったら、僕らが抱えているかもしれない問題を解決できるに違いない。春乃の心の中を覗いてもっともっと彼女を理解したいという欲望もあった。それに僕は新しいテクノロジーが大好きだ。ワクワクしながら先生に「ぜひ試してみたいです!」と言ってしまった。
しかし春乃を説得するのは大変だった。夢はとてもプライベートなもので、夢まで見られたらどこまで私でどこまであなたなのかが分からなくなってしまいそうだとか、小難しいことを言い出した。僕は彼女に信用されていないような気がした。
「僕に隠し事でもあるの?」
彼女が傷つかないように冗談っぽく言ってみた。
「あなたが心配するようなことはないわよ」
春乃は少し考えてから、
「もしあったとしても、あなたが傷つくようなものであれば、それを見せないのも愛だと思うよ」と付け加えた。
「傷つくって?」
訊かずにいられなかった。僕は少し苛立っていた。
「・・・うまく説明できないわ。あなたに不満があるとか、そういうことじゃないのよ」
「じゃDSTを試してみてもいいじゃない」
「そんなこと、言ってないよ」
「面白そうだからやってみようよ」
僕はしつこく誘った。
「でもそんなことしたら、イヤなものまで見てしまうような気がするのよ」
「まさか。でもそうなったとしてもだいじょうぶ。僕らはいっしょに何だって乗り越えられるさ」
僕は執拗にDSTを受けることを説得した。いつものように、結局は春乃の方から折れてくれた。僕らはDSTを受診することになった。
会社を半休して試験を受ける初日、先生と助手たちがいる研究室に着いた僕ははしゃいでいた。DSTは数回にわたって行う必要がある。初回は僕が春乃の夢の中に入り、次に春乃が僕の夢に入るのだ。それを終え、どちらかがまた相手の夢を見たいと希望した場合、何度でもそれを繰り返していいとのことだった。
二人で同意書にサインしてからDSTマシンの部屋に案内された。病院の放射線科にあるCT検査機のような大きなマシンが二台並んでいる。このマシンが僕と春乃の心を繋いでくれるわけだ。
「滝本祐斗さん」と呼ばれて僕の方が先にベッドに横たわった。すぐにマシンの中に吸い込まれる。「目を閉じていてください」と言われたが、見ると顔や頭の近くに複雑なチューブの壁があった。僕は平気だけど狭いところが嫌いな人なら苦しいかもしれない。深い睡眠に落ちるために薬の入った空気を吸う。甘い花の香りがして次の瞬間、暗い場所にいた。
正面から吹くそよ風。春乃の髪の毛を揺らす。彼女は隣で気持ちよさそうに目を閉じている。地平線の真上に夕陽。付き合い出した頃、一緒に山登りに行った時の記憶だろう。
「お饅頭食べよう」彼女が言う。
でも手元にあるのはスイカ。縁側に座っている。一人で。妻の実家の縁側のようだ。池で泳ぐ鯉にアイリスや木漏れ日。こんなに立派な庭、あったっけ?
家の中は薄暗い。床の間に一輪の花。奥の部屋から鼻歌が聞こえる。
「春乃、どこにいる?」
「はーい、ちょっと待っててね」子どもの頃の春乃の声だ。
窓から外を覗く彼女の後ろ姿。僕たちの家のキッチン。いつもの朝食の時間。
「今日、雨降るかしら?」
僕は調べようとスマホを取り出す。目を上げると生徒たちの前にいる。春乃が英語を教える塾の教室。だけど彼らに僕は見えない。黒板にアルファベットの文字。春乃が読み上げる英語の文章。滝の音。しぶきがキラキラする大きな滝。周りに深い森。滝の水が川になって岩の間を流れる。春乃の心の中。それとも英語のテキストの風景?
「春乃、どこにいる?」また呼んでみる。
「ここよ」
顔が近い。二人で一緒に家に帰る途中。「どうしたの?」彼女が聞く。僕の左腕に自分の腕を滑らせる。
その時だった
目の前に突然人影が現れた。
「あっ」と言って春乃が青ざめる。
その影は僕だった。なぜかはっきりそう思った。黒い洋服を着て暗い表情の僕。春乃をじっと見ている。これが春乃が怖がっている男なのか・・・。春乃はもういない。霧に包まれる。
目が覚めた。チューブの中は冷えていた。脳の中で「夢を見る活動」が終わると冷たい空気をチューブの中に流して目覚めるようにするのだという先生の説明を思い出した。あらかじめ言われていた通り、チューブの壁に設置されているボタンを押した。すぐにベッドがスライドして外に出た。
春乃はすでに起きて隣のベッドの端っこに座っていた。目が合うと恥ずかしそうに視線をそらした。
「めちゃくちゃでしょ、わたしの夢の中って」小さい声で言った。
「面白かったよ!」
僕は明るく返した。僕はもっと春乃の心を知りたい。確かに春乃の夢はとりとめがなく、ちゃんと彼女の心がわかったような気がしなかった。ここでやる気をなくしてしまわれると困る。
「ほんと?」
「うん。次回は僕の夢のほうだね」
話していると先生が部屋にやってきた。それから三十分ずつ個別カウンセリングを受けた。先生たちもモニターで夢を見ている。僕は思い出せる限りの光景を話した。一番気になったのは、やはり自分とよく似たヤツのことだった。
「驚いたでしょ」素っ気なく先生は言った。
「驚きましたよ。あれはいったいなんですか?」
「ただの心像だと思います」
「シンゾウ?」
「奥さんの心の中にある滝本さんのイメージでしょうね。彼女が持っている滝本さんの思い出を元に作られたものです」
「思い出? じゃ、どうしてあんなに暗いイメージなんですか。僕らはいっしょにいい思い出をたくさん作ってきたはずなんですけど」
「夢は無意識によって形作られるものです。記憶の断片や、本人さえ自覚していない心配事や不安などがランダムに混ざり合うんです。その黒い服を着た男は奥さんを襲ったりしてないでしょう。ですからだいじょうぶ、危険なものではないと判断していいと思います」
「もしあれが僕なら、危険なわけがないでしょう。でも妻は、もしかしてあの黒い服を着た男を見るたびに悪夢にうなされるんじゃないでしょうか」
「可能性はありますね」
先生はあっさり言った。僕は驚いた。
「そんなバカな! それじゃあどうすればいいんですか」
「私の予想では、しばらくすればあの影は見えなくなります。あの影が見えたことが一番大事なのかもしれません。あまり心配し過ぎず奥さんをそっとしておいてあげるのもいいかもしれません。しばらくベッドを別にするとか」
は? それが先生が提案する解決法なのか。言葉にはしなかったが内心では呆れていた。残りの質問に早口で答えると儀礼的にお礼を言って診察室を出た。先に診療を終えた春乃が待合室に座っていた。
春乃がカウンセリングでなにを聞かれたのか気になった。「あなたに夢を見られて不愉快じゃないかって聞かれたわ」ぽつりと答えた。
不愉快だって! 僕に夢を見られることが? 肝心な点はそこじゃないだろ。しかしうまく言葉にできない。僕はどんどん不機嫌になった。
「海が見えるテラスでランチにしましょ」
敏感に僕の気持ちを感じ取った春乃が言った。街のほとりにある浜辺に面したテラスは二人ともが大好きな場所だった。病院からなら歩いて行ける距離だ。
僕は春乃と並んで歩き出した。テラスから見える海の風景を思い浮かべるとイライラしていた気分がやわらいだ。僕が不機嫌になりそうになると春乃はすぐに明るいほうへ引っ張ってくれる。春乃の好きなところの一つだ。
僕の夢を春乃といっしょに見る日、僕は意外と緊張していることに気づいた。なぜ緊張するのだろう。心の中に春乃に見られたくないなにかを抱えているのだろうか。
しかしじっくり考える時間はなかった。DSTのベッドに横たわるとすぐに中に吸い込まれた。気づけば甘い香りがして、夢の入り口に立っていた。
ぎょっとした。
どこかの山頂か峰の上に立っている。風に吹き飛ばされそうで怖い。
「わぁっ!」
春乃の笑い声がする。
「ここ、すごいね!」
僕は山のてっぺんから落ちないようにするだけで精一杯だ。なのに春乃は楽しんでいる。はしゃいでいる。
遠くまで見わたせる。連なる峰の向こうは都会。そのさらに向こうに海が輝く。
気がつくと風はもう吹いていない。険しい岩に囲まれた谷にいる。草の中に色とりどりの花。彼女のために咲いているのがわかる。嬉しそうに草原に寝転がる春乃。僕を草の中へ引っ張る。いつもの春乃より大胆だ。嬉しくなる。空がとても近い。
「どこに行こうか」
春乃が笑いながら言う。
「行きたい場所、ある?」
「そうね」春乃が僕の手を取って立ち上がる。
が、すぐに扉が目の前に現れる。茶色く錆びた金属の頑丈な扉。左右に高い壁がそびえ立っている。鍵がかかっていて開けられない。問いかけるように春乃が僕を見る。
「これが何なのか、僕にもわからない」
壁伝いに角を曲がる。パッと視界が開けて浜辺と海。春乃はまた嬉しそうに笑って僕の手を取る。しかしすぐにまた扉と壁にぶつかってしまう。こちらも閉まっている。扉の前に立ち尽くす春乃。驚いた様子はない。じっと扉を見上げている。
「別の場所へ行こう」
僕は彼女の手を取って歩き始める。でもどこに行けばいいのかわからない。彼女が喜ぶような場所は・・・。
そうだ、あの博物館!
そう思った瞬間、巨大な博物館が目の前に現れた。
博物館を見た春乃に笑顔が戻った。入り口へ歩き出す。
が、また頑丈な扉が現れて僕らを遮る。
春乃が困っている。僕は焦る、全身から汗が噴き出すのがわかる。春乃をここから連れ出さないと!
次の瞬間、別の場所にいた。ガラス張りの展望台。見渡す限り夕暮れに包まれた街。春乃は紫色のカクテルドレスを着ている。僕の目を見ない、見てくれない。一人でガラス張りの窓に近づいて街の灯りを見つめている。
僕はここだよ!
彼女に手を伸ばす。
でも届かない。
届かないんだ!
(前編 了)
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