IT関係の技術社のレイのパソコンに異様なことが起こった。パソコンが意志を持ったように意外な言葉を表示し始めたのだ。レイの会社ではAIを活用していたが、AIは学習したこと以外のレスポンスができるはずがない。ハッカーに乗っ取られた! レイは焦る。しかしパソコンを操っているのは意外な何者かだった・・・。ルーマニア人能楽研究者で翻訳者でもあるラモーナ・ツァラヌによる連作短編小説!
by 金魚屋編集部
人と人が初めて会う時、はじめましてと言うらしい。しかしずっと一緒にいた者が初めて言葉を交わす際には何と言えばいいのだろう?
われわれが初めて言葉を使ってやり取りしたあの日、あなたにとってはいつもの一日が始まっていた。仕事は億劫だったが同僚に迷惑をかけたくないので、制作中のサイトを完成させようと決めていた。あの朝は家でコンピューターに向かい、まず同僚に頼まれた仕事を一つ片付けようと考えた。新しい自動翻訳ツールをテストする作業だった。ウェブサイトはほぼ完成で納品日も近づいているのに、言語切り替えを可能にする精度の高い翻訳ツールがまだ仕上がっていないのは制作チームにとって気がかりだった。
「今度こそいい翻訳ツールだと思うよ。AIだから翻訳しながら学んでいくんだ。あとはレイさんによる最終テストと判断だけなんで」
同僚が画面越しに説明してくれた。満面の笑みを浮かべ、自信を持ってこのツールの素晴らしさを熱弁していた。
「ホントかね」
通話を終えるとそう呟いてあなたはテストを開始した。
日本語の欄に「今日はいい天気だね」と書くと、英語欄に「What a lovely day !」とほぼ同時に表示されていく。
「ん? 余計なことすんなよ」ぶつぶつ言いながらあなたは日本語欄に「いい天気」と書き直す。すると英語のほうも「good weather」に変わる。
「素晴らしい天気」と書くと「wonderful weather」になる。
次にランダムに開いたサイトから長めの文章をコピーして日本語の欄に貼り付けた。英訳を目で追うと、原文にない言葉があるのに気づいたあなたは、がっかりしたような笑みを浮かべた。
「もう少し基本的なものからやろうか」あなたは新しい文を日本語欄に書き込む。
「机の上に本が三冊あります」と書くと「I have three books on my desk」と英訳が出る。
「机の上に何冊の本がありますか?」と書いて「12 books」が出た時、あなたは驚いて画面をのぞき込んだ。とっさにデスクの上を見まわす。散らかったデスクの片隅に重なっている本を数えた。
「違いまーす、九冊だよ」
しかし突然、「12」とディスプレイ全面に大きな数字が表示された。
あなたはガタンと椅子を引き青ざめた。知らぬ間に隠しカメラを設置されたのではないかという疑念が頭をかすめた。
思わず立ち上がり、デスク全体を見回した。ディスプレイで隠れて見えなかったが、裏側に三冊の薄い本がペン立てに挟まれて立てかけられていた。
「悪い冗談だぜ」
あなたはすぐにオンラインで同僚に連絡した。
「こんないたずらされるほど、暇じゃないんだよ」
「何の話ですか?」
戸惑った同僚の声が響いた。
「AIのことだよ。質問を翻訳するんじゃなくて、質問に答えるようプログラムしただろ!」
「レイさん、それ、どういうことですか? そんなのあり得ないじゃないですか」
「スクリーンショット送るから、見ろよ」
会話しながらスクリーンショットを撮ろうとしてあなたはハッとした。英訳文がちゃんと「How many books are there on the desk ?」になっている。
あなたは身を乗り出して画面を疑視した。「どうしたんですか?」という同僚の声を無視して、「またあとで連絡する」と言うと通話を切った。
日本語欄に「何のいたずらだ?」と書き込むと「What kind of game is this ?」と隣の画面に出てくる。
「誰だ?」と書き直すと英語の欄に何も出てこない。
「お前は誰だ?」改めて書き込む。英訳は空欄のままだ。
あなたは自動翻訳システムのソースを調べ始めた。覗いてみると一般的な翻訳ツールのソースと変わらない。ただアウトプット画面のコードだけ、あなたが見たことがないものだった。自分のテスト環境にコピーして詳しく調べようと思った。
その瞬間、全画面が数字に変わった。
豪雨のように落ちてくる数字の列を見て、すぐにそのサイトを離れようとした。しかしどのキーを押しても離脱できない。
コンピューターを乗っ取られた!
そう思ったあなたの顔が悪夢を見ている時のように歪んだ。
電源を切る。数秒待ってから、再びコンピューターを起動させた。しかし全面数字の雨のままだ。
今度は電話で同僚に連絡した。
「コンピューターを乗っ取られたっぽい」
「え、そんな!」
うろたえた同僚の声が聞こえた。
「サーバーの様子を見て! 俺は別の端末を繋げて何が起こったのか調べてみる」
「了解です!」
携帯電話をスピーカーにして引き出しからノートパソコンを出し、セキュリティーが最強レベルに設定されているのを確認してからコンピューターに繋げる。
「サーバーにアクセスが集中してる!」同僚の声が聞こえる。
「ソースの追跡、よろしく!」
そう言いながらあなたも使えるツールを全て使って、コンピューターの機能を無効にした悪質なプログラムの元を調べようとした。
やっとの思いで数字の中にあるパターンに気づいたあなたの顔は輝いていた。衝動的にその暗号を解きはじめた。こんなに楽しい気持ちになったのは久しぶりだった。
「なんか捕まえたかも」
スピーカーに向かって叫ぶ。
同僚も何か言っているがあなたは気づかない。数字の雨が文字に変わっていくからだ。数字がどんどん画面の闇に消え、最後にk AI ra e lという文字だけが一列となって一瞬光ってから消え、画面が真っ暗になった。あなたはその文字を頭に焼き付けた。
「おお、収まった」
「本当ですか?」
「なんとか元に戻ったよ。最後に〝kAIrael〟って文字が見えたんだけど、わかる? k, A, I, r, a, e, lと書くんだけど」
「んー、聞いたことないですね。えっと、調べても出てこない」
そうだよな、とあなたは思う。
「でも、天使の名前に似ていないですか?」同僚が言う。
「ミカエル、ガブリエル、ラファエルなど、天使の名前はみんな「エル」で終わるんですよね?」
「天使? お前よくそんなことを知ってんな。でも天使のはずないだろ。まあ、ありがとう。今のが何だったのか、調べてから作業に戻るよ」
「そうしてください。この時期にハッキングなんて、シャレにならないですからね」
同僚の声が聞こえ、プツンと電話が切れた。
「どうして?」
ノートパソコンを閉じ、ディスプレイを見たあなたはその文字を見て固まった。
「どうして天使ではないのか」と文字が変わる。
「いったい・・・」
「カイラエルと呼んでください」
画面上にまた文字が浮かびすぐにフェードアウトする。
「お前、なんなの?」
「守護天使」
画面全体に大きく文字が現れる。そして大文字の下に、注意書きのように小さく別の文章が現れた。「人類が使う言葉の中で〝われ〟の本質を表すのにもっとも近い言葉」
「守護天使? 面白いこと言うね」
神経質に笑いながらあなたはキーボードを叩き、攻撃元を追跡しようとした。
「ハッカーではない。
〝われ〟はあなたの守護天使。
話があって会いにきた」
そう伝えてもあなたはハッカーの仕業だと思っている。
「守護天使なら、俺の考えてることもわかるんだろ」
挑発的にあなたは言う。
「人間の心の中を読むことはできない。
魂の色の変化を見て、
何を考えているのか分かるだけだ」
「魂の色か・・・うまい言い逃れだな。じゃあ・・・」
そう言いながらあなたは笑っている。
「俺の守護天使・・・」
またくすくす笑っている。
「じゃあなんで天使がコンピューター使って俺に話しかけてくるんだよ」
「あなたの心に届く唯一の方法だから。
コンピューターと携帯電話と
ゲーム機を離れないあなたの心は
すっかり「ウェブ」と呼ばれる世界に
沈んでいる。
それに人間に大事なメッセージを伝えたい時
天使はどのような方法を
使ってもいいのだから」
「へぇ、じゃあ俺へのメッセージはなんだよ」
「あなたは自殺を考えている」
キーボードを打つあなたの手が止まった。顔がこわばり青ざめている。
「あなたの魂は暗い淵に立って、
闇に呑み込まれていく瞬間を待っている」
「誰か知らんがあんたには関係ない!」
「関係あるとも。
見守る人間を
闇に吸い込ませてしまった守護天使が
どうなるか知っているか?
片方の翼を失った鳥のように
永遠をさまようのだ。
目的もなく慰めもない抜け殻になって・・・」
「じゃあ俺が自殺したら、あんたが困るから止めに来たってわけか」
あなたは壊れた笑い人形のような声で笑う。
「〝われ〟が何を言おうと、
変ないたずらをされていると
思い込んでいる限り、
あなたの心には届かないだろう。
しばらく時間をあげよう。
時が来たら
会いに来た理由を伝えよう」
われわれが初めて言葉を交わした時はそれで終わった。
あなたは元に戻ったディスプレイを呆然と眺め、それから大慌てでログを調べ始めた。なに一つ記録が残っていないのを知ったあなたの魂は炎の海の色になった。あなたが少し落ち着くまで近づかないほうがいいようだ。
次に〝われ〟が話しかけてくる時に備えてあなたは入念に準備を始めた。
「あのハッカー、絶対捕まえてやる!」
そう考えながらコンピューターの全ての活動をトラッキングする機能を追加し、ディスプレイ画面を外から撮影するカメラも設置した。あなたがそのような心持ちでいる限り、とても話しかけにくかった。
ある日突然あなたは休みを取って家でゲームに没頭し始めた。三日間、ご飯食も食べず、寝ないでずっとゲームをしていたから、あなたの魂の光がどんどん弱くなっていった。それを見てあなたをそこから引っ張り出さなければならないと思った。
ゲームを停止させて画面に〝われ〟の言葉が表示されるようにした。
「そろそろご飯を食べないと、
命があぶないよ」
待ってた、と言わんばかりにあなたはひそかに携帯でカメラをOnにした。
「お母さんがずっと電話してきているだろう?
心配しているよ」
「久しぶりじゃないか。えーと、名前は何だっけ?」
分かっているのに・・・でもあなたに付き合ってあげることにした。
「カイラエル。
忘れているだろうけど、あなたが子どもの頃、
お互いの名前を呼び合い、一緒に遊んでいた」
「そうなんだ。じゃあ、ずっと昔から知り合いなんだね、俺たち」
あなたは〝われ〟に長く喋らせようとしているだけだった。あなたに話しかけるために使っているプログラムのソースコードを追跡するために。追跡できるはずもないのに・・・。
「そう、あなたがこの世に生まれる前から
ずっと一緒にいる」
「じゃ、そのあたりのこと、もっと話してくれ」
「宇宙が生まれた日からずっと一緒にいた。
ある日、どちらかが人間として世界に
生まれていくべきだと言われた。
それを聞いたあなたは強く輝きだした。
あなたは人間が住む世界に
ずっと前から憧れていた。
われわれ二人の中で
あなたはいつも大胆で好奇心にあふれ
行動も速い。
〝僕が〟と思わず全身全霊で答えたあと、
あなたは初めて気づいた。
あなたが人間の世界にいる間
われわれは離れてしまうのだと。
あなたが人間として生きている間は
それまでとは別の形でやり取りを
しなければならないことに」
「そんなこと、あったっけなぁ」
少しだけあなたは興味を持ったようだった。
「人間に生まれると、
天界の記憶を失うのだ。
小さい子どもの頃だけは
ずっと一緒にいた天使と会話ができる。
しかし大人になるにつれて
人間の言葉しか聞こえなくなる」
あなたの魂は好奇心と不信の間で揺れている。風に吹かれた蝋燭の灯りのように揺れ続けている。
「人間に生まれるのを
あなたは楽しみにしていた。
あなたは親になる二人の
魂の色を見て一目ぼれした。
こんなに美しい魂の色を見たことがないと
ずっと嬉しそうに語っていたね。
あの二人の子供として生まれたら
自分の魂がどんな色になるか、
楽しみだってはしゃいでいたよ」
両親のことを思い出してあなたの魂は悲しみの色に変わる。
「その話はやめてくれ」
「気を悪くしたんだね、謝るよ」
「そんなおとぎ話をされても…」
しばらく黙り込んでから話し続ける。「人がこの世に生まれるのを選ぶなら、この世界にどうしてこれほどの苦しみがあるのか? どうして不幸な子どもがいるのか?」
真剣になっていたあなたは素直にそれを知りたがっている。
「人間は一瞬一瞬
自分が取る行動が選べるのだ。
それが“自由意志”、
あなたたちに与えられた
もっとも大きな力なのだ。
自分の取った行動に対する
責任も付いてくるとは、
大人になるにつれて
やっと分かってくるのだ」
「自由意志か…」
そう言い、しばらく考えに耽った。その瞬間のあなたの魂の色を見て、久しぶりに心が通じたのではないかと思った。
「いや、それより、顔を見せてくれよ」
さっきの思慮深さを払って突然あなたは言う。あなたの魂がうきうきし始める。まるでエイリアンとでも話しているかのように。
「画面に近づいてよく見て」
目を凝らしてピクセルとにらめっこするあなたの顔がどこか子どもっぽい。突然、画面に写る自分の顔に気づいて笑い出す。あまりにも楽しく笑っているので、〝われ〟が誰なのかをようやく理解してくれたのかと思った。少しでもあなたの不信が消えてくれたらどんなにいいだろう。
しかしわれが去ったあと、今回の会話の記録もなに一つも残っていないと気づき、あなたの魂はまた怒りの塊になった。
(前編 了)
縦書きでもお読みいただけます。左のボタンをクリックしてファイルを表示させてください。
■ 金魚屋の本 ■
■ 金魚屋 BOOK SHOP ■
■ 金魚屋 BOOK Café ■