女優、そして劇団主宰でもある大畑ゆかり。劇団四季の研究生からスタートした彼女の青春は、とても濃密で尚且つスピーディー。浅利慶太、越路吹雪、夏目雅子らとの交流が人生に輪郭と彩りを与えていく。
やがて舞台からテレビへと活躍の場を移す彼女の七転び、否、八起きを辻原登奨励小説賞受賞作家・寅間心閑が Write Up。今を喘ぐ若者は勿論、昭和→ 平成→ 令和 を生き抜く「元」若者にも捧げる青春譚。
by 文学金魚編集部
「え! どうしてですか? 何でですか?」
ビアガーデンにおチビちゃんの声が響く。舞台で鍛えただけあって、少し離れたところにいた夏目雅子さんの耳にもちゃんと届いていた。
「早苗ちゃん、どうしたのよ」
心配そうな顔で駆けつけてくれたが、おチビちゃんは呆然とするばかりだ。
「だから明日の撮影はね、ちょっと無理なのよ」
金森マネージャーの言葉に素早く反応したのは、夏目さんの方だった。
「え? 明日ってコマーシャル撮りのことよね? え? 本当なの? 早苗ちゃん」
そう訊かれても、自分だって今聞いたばかりだ。何とか力を振り絞り「本当にダメなんですか?」と尋ねてみたが、金森さんは「申し訳ないんだけど」と首を振るばかり。そんなあ、と嘆いたのは夏目さんで、他の人たちも何事かと集まってきた。
撮影は明日なので、今頃スタッフの方々も大騒ぎになっているだろう。無論、四季がドタキャンした形となる。そんな事情が伝わりきるまで数分、ただみんなの反応はおチビちゃんの予想と違っていた。
「やっぱり今のままじゃダメなのよお」
そう言って笑ったのはプロデューサーの武さんだ。なにが面白いの? と思ったものの、その反応は彼女だけではない。他の人たちも苦笑いを浮かべながら、「まあ、こればっかりはねえ」といった雰囲気。さっき嘆いていた夏目さんも「もう一緒に出られると思ったのにい」と言いながら、その表情や仕草はおどけているようにも見える。
落ち込まないで、と励ましてくれているようにも受け取れるし、そもそもこんな話、この業界では珍しくないのかもしれない。もしそうだとしても「ハイそうですか」と呑み込める訳もなく、この夜、お酒を飲めないおチビちゃんは、ビアガーデンで不貞腐れ、打ちひしがれ、周りの人々に慰められた。
やさぐれる、とはこんな感じかなと思いながら、冷たいテーブルに突っ伏し、顔を上げては枝豆とフライドポテトを口に放り込み、声をかけてくれる人にはもれなく「何なんですか、もう!」と不満を表明していた。
翌朝、二日酔いには当然ならないし、記憶だってしっかりしている。ふと立ち上がったおチビちゃんは、無言で部屋を何周か歩いた後、難しい表情で電話をかけた。相手は浅利先生。自分からかけたくせに、出なければいいなと願っている。あと二回鳴らしてから切ろう。そう決めた瞬間につながった。
「あ、もしもし」変に力が入っているせいで声が大きくなってしまった。「少しお話があります。今お忙しいですか?」
大丈夫、と答えた先生はすぐ「もう聞いたのかな?」と言葉を続けた。
「はい。昨日の夜に……」
「そうか。まあ、そういうことだから……」
「あの……」
「うん?」
「どうしてですか? どうして夏目さんとのコマーシャル、出てはいけないんでしょうか?」
少し声が震えてしまった。自分の家の中なのに、背筋をピンと伸ばして緊張しながら立っている。思い出すのは映放部に移る前の、反抗期のような時期。先生に対して生意気に意見したり、あの時の私ってやっぱり普通じゃなかったんだわ。
「どうしてって、本当に分からないのか?」
恐る恐る「はい」と答えてみる。一度大きなため息をついてから、先生は子どもを諭すような口調でコマーシャルに出られない理由を教えてくれた。
それは予想どおり、ひとつではなかった。ギャラの話もあったし、夏目さんの話もあった。「刺身のつま」「添え物」という言葉が使われた。どうにか言い返そうとした瞬間、「プライド」という言葉が出てきて何も言えなくなる。結局「ギャラが倍ならいいんですか?」と尋ねるのが精一杯。先生はその質問には答えなかった。
――もう、どうにもならないんだわ……。
受話器からそっと口を離し、大きく息を吐いたおチビちゃんに、先生は最後の理由を話し始めた。近いうち、劇団の女優がコマーシャルに出るという。しかもカネボウの化粧品。え、と声が出た。聞こえたはずの先生は、ゆっくりと話し続けている。一言一言はよく覚えていないが、つまり先輩より先に後輩がコマーシャルに出演することが問題らしい。
平行線だ、と理解できた。この先、互いの意見が混じり合うことはない。だからおチビちゃんは「分かりました。ありがとうございました」と告げ、少々強引に電話を切った。しばらくは立ったままの姿勢でいる。これが一番楽だ。部屋の中は静かだから、自分の内側のモヤモヤがよく分かる。「やっぱり今のままじゃダメなのよお」という、昨晩の武さんの声をふと思い出した。
当たり前のことだけれど、映放部の所属になっても四季の人間であることに変わりはない。今回の一件で改めてそのことを痛感させられた。先輩後輩というどうすることもできない関係性から離れ、やりたい仕事を自由に選びたいなら、自ずと次に取るべき行動は決まってくる。
もちろん、今こうしていられることの有り難さは十分理解しているつもりだ。私のわがままを最大限に認めていただいた浅利先生には感謝してもしきれない。そして、この特殊な立ち位置を良く思わない人たちが、四季の中に一定数いるという話も聞こえてはいる。風の噂ではない。金森さんや前任のマネージャーの口ぶりから察することができた。
実はおチビちゃん自身、直接そういう声を聞いたこともある。あれは『野々村病院物語』の話が決まった直後だった。日生劇場の地下の喫茶店「アクトレス」で寛いでいると、突然駆け寄ってきた男性の先輩に怒鳴られたのだ。
「舞台に立ちもしないくせに、テレビに出るんだってな!」
別に忘れていた訳ではない。他人から、しかも知人から面と向かって怒りをぶつけられるのは怖い。だから思い出したくなかっただけ。その彼は劇団時代、一緒に遊びに行ったこともある人だったから尚更だ。
「つまり……そういうことか……」
今すぐに、ではないけれど、その時はきっと迫っている。それも遠くない将来に――。
そのことを考える度、おチビちゃんの内側では色々な想いがぶつかり合い、結論らしきものも見つけられないまま、ただ時間だけが過ぎてしまう。
ありがたいことに次の仕事は決まっていた。二十年近く続いているフジテレビの「ライオン奥様劇場」、月曜から金曜まで午後一時から三十分放送の所謂「昼ドラ」枠。『哀愁美容室』というタイトルで十一月からスタートする。
その名のとおり美容室を舞台にしたドラマで、主役は香野麻里さんという三年目の方。『野々村病院物語』の最終回が放映されるのが十一月なので、間髪入れずに新番組が始まる格好となる。
テレビ局が変わっても、基本的な仕事の流れは変わらないので、あまり戸惑うことなく『哀愁美容室』の撮影に入ることができた。テレビの撮影は舞台と違い、その場でセリフが変わることも多いが、おチビちゃんはそれが苦ではなかった。
「ちょっと今のセリフ、やっぱりこうした方がいいかな。えっとね――」
この後に監督さんが新しいセリフを口にし、おチビちゃんはそれを耳で聞いて覚える。そしてすぐにカメラを回して撮影開始。限られた予算の中で製作される昼ドラは、色々な場面で臨機応変な対応が要求される。
おチビちゃんの技術は今回の現場でとても重宝され、気付けば他の役者が苦労しているセリフを引き受ける、というパターンが増えていた。
本番の舞台に向け、何ヶ月も稽古を重ねる演劇とはまったく違う芝居の作り方だが、こうして作り上げたものが、テレビを通じて多くの人々に届けられているのもまた事実。案外向いているのかしら、と安堵しつつも、テレビと舞台、それぞれの芝居の違いについて考えると、結局は今後の話になってしまう。
舞台の上で演じることは魅力的だ。最近は二つのドラマの撮影が入っているため、なかなか休みが取れないが、それでも時間の都合がつけば舞台を観に行く。生の迫力に会場の熱気、なんて言うとありきたりの宣伝文句みたいだけれど、本当に素晴らしい空間だと足を踏み入れる度に思う。
では今からテレビの世界に見切りをつけ、古巣の劇団に戻るのか?
やはり答えは決まっている。ノーだ。私はまだ色々なことを経験したい。自分の力をもっと試してみたい。未来のことは分からないけど、少なくとも今は戻れない。
正直なことを言えば不安もある。きっと今の私は舞台に上がっても、過去の私を越えられないだろう。日々の練習は大切だ。私がドラマの撮影に取り組んでいる間、四季の同期や後輩たちは地道に鍛錬を積んでいる。もしかしたら戻っても、私の居場所はないかもしれない。
先日の電話の際、先生が発した「プライド」という言葉を思い出す。四季で学んでいたからこそ乗り越えられた場面が、ドラマの撮影中に何度となくあった。誇らしさもあったし、同時にプレッシャーも感じていた。これから新しいことに挑んでも、それは変わらないはずよね……。
そんな風に思い始めたおチビちゃんのもとに、魅力的な話が届けられた。映画の仕事だ。とはいっても、まだ本決まりではない。まずはオーディションに合格しなければそこまで。「やってみる?」と尋ねた金森さんが驚くほど大きな声で、おチビちゃんは返事をした。
「もちろん受けます!」
映画のタイトルは『ひめゆりの塔』。昭和二十八年に公開して配収一億五千万円の大ヒット、負債を抱えて倒産の危機にあった東映を救った作品のリメイク版だ。
そのタイトルが示すとおり、太平洋戦争末期に「国内唯一の地上戦」が行われた沖縄の悲劇を描いた映画だが、実は前回の撮影時には、まだアメリカの統治下にあったため、現地での撮影は許可が下りずに千葉県で撮影されたという。今回は約三十年越しの念願の沖縄ロケ、しかも監督は前回と同じ今井正監督。決して楽しいだけの娯楽映画ではないが、その熱意とテーマの重さには惹かれるものがあった。
「あの、大丈夫ですかね?」
威勢よく返事をした後で、おチビちゃんは金森さんにそっと尋ねていた。
「ん? 何が?」
「いや、またドタキャンみたいなことに……」
それは大丈夫よ、と金森さんは笑っていたが、どことなく安心はできないなと思っていた。そして、こんな気持ちで仕事をしていくのは不健康だなとも思った。
じゃあ、どうすればいいんだろう?
今までは何となく、近いうちに四季を離れると予想していたけれど、その先はどうすれば?
まさか自分ひとりで色々とこなせるタイプだとは思えないし、やはりどこかの芸能事務所へ所属するのが私には向いている……かな? あれやこれやと考えているうちに、ふと思い浮かんだのは夏目雅子さん。いつも良いお仕事の話が来ているし、現場で見たり本人からの話を聞く限り、とても大切に育ててもらっている。あと、マネージャーさんが女優のように容姿端麗なところも印象に残っていた。
いいかも、と思ったら話は早い。おチビちゃんにはそういうところがある。翌日、スタジオで一緒になった夏目さんに早速話しかけた。
「できれば私、夏目さんの事務所でお世話になりたいと思っているんですけど……」
「え?」
遠慮なく驚いた夏目さんだったけれど、コマーシャルの一件があったからだろうか、すぐに真面目な顔で「そうなのね」と応じてくれた。
「はい。なので今度、事務所の方とお話をさせてもらえたらと思っているんです。なので一応、ご報告しておきます」
「わざわざありがとう。私からもそれとなく言っておくわね」
ありがとうございます、と頭を下げると、夏目さんは「期待しないでね」と付け加えた。
「どんな風に決めているか、私も分からないから」
そんな優しい言葉が嬉しくて、その日は一日中、まるで新しく何かが決まったような気持ちで過ごすことができた。
(第35回 了)
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