月子(つきこ)・楡木子(ゆきこ)・好女子(すめこ)・夾子(きょうこ)の医家に生まれ育った四人姉妹に、立て続けに事件が襲いかかる。始まりはあのとき。いや、違う。絡まり合った過去の記憶。あるいは謎の糸口は…。詩人・批評家でもある小原眞紀子の手になる、ノスタルジックでハードボイルドな金魚屋ロマンチック・ミステリ・シリーズ第5弾!
by 小原眞紀子
第六幕(後編)
それから二日ほど経った晩、夾子から電話があった。
「今日、入籍したの」
突然の知らせに、受話器を持ったわたしは、リビングの絨毯に坐り込んだ。一昨日、あの中庭にやってきた夾子は一言も、そんなことを告げなかった。
「事前に話すと、反対されると思って」
逮捕前にサインさせてあった婚姻届けを提出した、と言う。
「不当逮捕への抗議の意味を込めて、ってことだから」
夾子は言い訳がましく、縷々まくし立てていた。
「そのこと、彼は知ってるの?」
「もちろんよ」
我ながら愚問だった。
「妻という立場が必要なの。院内のシンパとも、堂々と団結できるし」
電話を切ると、ソファに横たわり、一時間ばかり身動きできなかった。
文彦が不在なのは幸いだった。
妻という立場。
その言葉は呆れるばかりに凡庸だ。
妹は考えないのだろうか、彼の本当の欲望、本性を。
本性。思った瞬間、身震いが走った。
まさか。
警察の言い分など微塵の信憑性もない。わたしへの言いがかりと同じだ。
二日前、病院の中庭で、わたしは夾子に尋ねたのだ。
「美希に会えるかしら?」
「会うな、と好女子姉さんが言ったんでしょ」
妹は首を縦に振らなかった。
「親には権利があるからね。だいいち面会して、また圧力をかけたって、警察に勘ぐられでもしたら」
しかし、美希の証言は必ず撤回させると請け合った。
「わたしと、味方のスタッフを信じてよ」
その院内のシンパとやらには、三和子も含まれているらしい。
「病院の経営が苦しいのは察してる、ボーナスも雀の涙だし」
狭い中庭のベンチで、夾子は声もひそめずに答えた。
「元の外科部長は、わたしと入れ違いで辞めた人だから、あまり知らないな。不動産投資とか、研究補助金のこととか、今回の件と関係があるとは思えないけど」
目の前の白い病棟を、夾子は正面から見据えていた。
「とにかく病院は、ミスも故殺も認めてないから。院長先生たちと、その方向で共闘してゆくつもりよ」
夾子と彼、二人の医療人としての将来を考えるなら、それが当然の選択だろう。
「だけど結局、窃盗で逮捕されたのは、病院が裏付けたからじゃないの?」
「違うって、」舌打ちせんばかりに夾子は言った。
「薬剤師の一人が、後先考えずにぺらぺらしゃべっちゃって。あんまり微罪なんで、本人もつい認めてしまっただけなのよ」
その翌日、昼食を済ませた直後に、警察はやってきた。
「主人です」
刑事と婦警は一瞬、たじろいだように見えた。
やはりこれまで女一人だと、なめてかかっていたのだ。そう思うと、ひどく腹が立った。
「おめでとうございます。と、申し上げなくてはなりませんね」
リビングのソファに坐り、山城刑事は言った。
それが夾子の入籍のことだとわかるまで、少し時間がかかった。
「こんな折りに何ですが。実は、美希さんから新しく具体的な証言が取れましてね」
刑事はちらりと文彦の方を見た。
昼食時の出涸らしのお茶を、わたしは形ばかり勧めた。
「陽平くんと美希さんの間にトラブルがあり、姉川夫妻が苦情を言いに来られた。美希さんが抱き合ったお二人を見たのは、その晩だそうです」
「抱き合ったお二人、とは」
夫は平然と訊いてのけた。
「奥様と真田さんです。失礼ながら」
わたしは思わず目を閉じた。あの晩、美希はやはり見ていたのだ。
「お二人は、このリビングでキスされていた」
「つまり美希が、そう言っているということですか?」
「そう申し上げたつもりですが」
文彦の物言いは、山城刑事の癇にかなり障るようだった。
「奥様はアンゴラのセーターを着ておられた。真田さんはその下に手を入れ、胸に触れていた。奥様は手を彼の腰に回して、ちなみに真田さんはシャツにジーンズだった」
勝ち誇ったような声で、刑事はメモを読み続ける。
「その日、確かに姉川夫妻も、カッターシャツにジーンズ姿の真田さんを見かけたそうです。奥様は、助手だと紹介されたようですが。で、姉川夫妻が帰った後、服を脱ぎ、ソファで性行為に及んだ」
「嘘よ」と、わたしは叫んでいた。
見ていたというなら、そこまで至らなかったことも知っているはずだ。
「テレビの影響ですかな」
文彦は、ややわざとらしく鼻で笑った。
「今どきの子の言いそうなことです。型通りですね」
「子供の想像とは思えないことも言ってますよ」
刑事は首を横に振った。「ご主人の手前、これでも遠慮しておりましたが。服を脱ぐ前、奥様は真田さんの男性器をジーンズから露出させ、口に入れたと。美希さんは、その目撃に相当なショックを受けている」
「そんな、馬鹿なこと」わたしは呟いていた。
実際、そんな馬鹿なことは身に覚えがない。
「具体的な証言、と申しましたでしょう」
平板な声で刑事は言った。
「大きいのを食べさせて、と奥さんはおっしゃったそうです。性行為の間も、そのような言葉を、」
「無責任な中傷は許せないな」夫は遮った。
「たとえ子供でも。そのような言葉とは、何です」
山城刑事は眉間に皺を寄せ、手帳のページをめくった。
「ご主人様。パワーを見せて」
文彦は吹き出した。が、その手が微かに震えている。
「もっとも、とても最後までは見届けられず、部屋に戻ってベッドに潜り込んだそうです」
「そりゃB級アダルトでしょうが」
刑事の顔は、自分が侮辱されたように強張った。
「十一歳の女の子です。アダルトビデオは見ませんよ」
「どうだか。少なくとも、うちにはないな」
無理をして挑戦的に笑っていた夫だったが、本当に可笑しくなってきたらしかった。
「家内の趣味でも、性癖でもないからね」
山城刑事は苛立ちを隠そうとしなかった。
「美希さんはそれ以来、男の人を見ると怖くなると言ってますよ。無論、奥さんのことも」
「ああ、そうですか」と、文彦は上機嫌なふうに頷く。
「で、ジャングルジムから男の子を突き落とせ、という家内の命令に逆らえなかった、と」
「その通りです」
「それなら、ここで見たということを、夾子に告げ口すればよかったんだ」
「信じてもらえない、と思ったんでしょ」
黙っていた婦警が、急に口を挟んだ。
「夾子叔母さんは真田さんに夢中なのだと、一番痛感しているのは彼女ですよ。実際、夾子さんはさっさと真田さんとの婚姻届けを出された。美希さんの証言を少しでも真に受けたなら、躊躇されるはずですよね」
「わたしも真に受けませんね」
文彦は即座に応じた。
「虚言癖が疑われる神経症の姪の証言など。当然のことですが」
やりとりの間、わたしはどうにか落ち着きを取り戻していた。
「ところで美希はどこから、わたしたちを見ていたと言うんです?」と、わたしは尋ねた。
「二階からの手摺りの影から、です」
刑事は吹き抜けの天井を指差した。
「美希さんの背丈なら、脇の目隠しの部分に隠れられるでしょう」
わたしは婦警の方を振り返った。
「そこに横になってください」
ぎょっとした目をした婦警に、「ソファで性行為したんでしょ。現場検証よ。その姿勢をとってみて」
太った婦警はいかにも嫌そうに、硬い表情でソファに横たわった。
「何が見えますか」
腰を落とし、婦警の目線に高さを合わせる。
ソファでの寝姿勢からでも、二階の美希の居室のドア上辺が見えるはずだった。主婦は家の中のすべてを知っている。
「行為の最中、美希が自室に戻ったとおっしゃいましたね。あの部屋に出入りしたなら、ソファに寝ていてもわかります。美希に見られたと気づきながら、口止めもしないでいるとでも?」
「しかし、身体の上に男性が覆い被さっていたら、いや逆でもいいんですが」
刑事は急に慌てた様子だった。
「夢中で気づかない、とか。それに、たとえば頭をソファの反対側に向けていたら」
「美希は二階の自室にいる、と、わたしは思ってたんでしょ」
わたしは刑事を遮って言った。
「子供に見られて困ることをするなら、その子の動向には注意を払うんじゃないですか?」
それはまさに、あのときのわたし自身だった。
「そうそう、」と夫は頷いた。
「向う見ずな家内ですがね。そのぐらいの用心深さはある」
「ほら、見て。このソファだって簡単に動かせるのよ」
わたしはなかば図に乗りはじめていた。
「二階の様子を窺えない位置で、わざわざそんなこと、するもんですか」
刑事と婦警は、ソファの上と階上とを、黙って見比べていた。
「もっとも家内と義弟がここで何をしようと、大きなお世話です」
文彦の表情には、すでに余裕が加わっていた。
「あなた方が取り調べている義弟の容疑にも、公園で男の子が死んだ件にも、まったく関係はない」
何か言おうとした刑事を、文彦は手で制した。
「おっしゃりたいことは知っております。しかし、もしミュンヒハウゼン症候群型犯罪の事例を適用したいなら、その特殊な動機付けの妥当性を客観的に評価しなくてはなりませんね」
その冷徹な目つきは、わたしが初めて見る夫の演技力らしきものだった。
「私自身、普段は米国におりますが。能力主義的な社会構造の中での英雄願望は、我々日本人より格段に強いリビドーを示している」
典型的な学者口調で、文彦は眼鏡の縁に触れさえした。
「若い看護師でありながら、女医と婚約した義弟。また家内は、騒動など起こさなくとも自己表現の場を持っている。いずれも日本社会において、常態としてむしろ突出する存在です。罪を犯してまで、さらなる自己顕示のリビドーに突き動かされる力学的必然性がありますか?」
「そういう議論は、さぞお得意でしょうね」
刑事は一瞬ひるんだが、どうやら踏みとどまった。
「では、事実関係のみ申しましょう。奥さんは、真田さんと二人でいた機会は二、三回、美希さんの世話をしに彼が訪ねてきた夕方だけ、とおっしゃっています。ところが、この近所でたびたび彼を見たという証言がありまして。それも早朝や昼間です」
「早朝や昼間? 正確には、いつのことです」
夫の問いに、刑事は再び手帳を開き、日付と時刻を並べ立てた。が、それはただの数字の羅列にしか聞こえなかった。
「昼間は彼も病院だし、人違いではないですか」
実際、そうとしか思えない。
「いや。昼間の目撃は二回だけで、幸い日時がはっきりしている。この両日ともに真田さんは休みで、夾子さんは出勤です」
「見たというのは、誰なんですか?」
「病院の通院患者です。真田さんは目立つ方ですから、白衣を着ていなくても、見間違えられることはないでしょう」
「妹と彼の住まいも、さして遠くないし」わたしは疲れ果て、息を吐いた。
「きっと、買い物でもしてたんじゃないですか?」
刑事はわたしの顔にちらりと視線を走らせ、返事もしなかった。
コンビニなど早朝営業しているような店は、むしろ夾子の2DKの近くに多い。夾子がいない昼間や当直の深夜、この辺りの住宅街にわざわざやってくる用があるとしたら、確かにこの家しか考えられない。
「とにかく、わたしは知りませんから。何をしにきたのか」
その言葉に嘘はなかった。
女の子の家の周囲をうろつく中学生じゃあるまいし、会いたければちゃんと訪ねてくればよかったのだ。そのほうがまだしも言い訳しやすいではないか。
刑事は片頬で微笑んだ。
「ところで奥さん。真田さんと妹さんの婚約を喜んでお認めになったのは、なぜです?」
「別に、喜んで認めたつもりは」と呟きかけ、「本人の意思ですから」と言い直す。
「妹も四〇過ぎだし、言い出したら聞かない性格ですから」
「そう。意志の強い方らしいですね」刑事は頷いた。
「十数年も浪人して、結局は親族を説得して私立医大の学費を出させた」
「説得というか、まあ、たまたまそういうタイミングで」
が、刑事は無視した。「そんな莫大な労力、資金を使って一人前にした妹が、十九かそこらの准看護師と結婚したがる。普通なら反対しませんかね。他のご姉妹のように」
好女子が何かしゃべったのだ。
わたしは瞬時に、余計なことは言うまい、と決めた。あれがその気になったなら、伝わった話はこの程度で済んでいるはずなかった。
「おっしゃってることが矛盾してますね」
笑みを浮かべ、夫が口を挟んだ。
「義弟は家内の恋人だ、と疑っておられるんでしょ? 妹との結婚に賛成したなら、その疑いは晴れようものではないですか」
「人の心は不思議なもので」と、鉄面皮の刑事はにやにやした。
「男女の機微も細部に渡れば、わたしどもの捜査の対象外です。ただ奥さんの感覚は、他の姉妹の方々とずれておられる」
なるほど、と夫は皮肉に頷いた。
「男女の機微は捜査対象外だが、姉妹間の感覚のずれは追及に値する、と。都合がいいことだ」
山城刑事は文彦を横目で睨み、わたしに向き直った。
「生後間もない弟さんの頭を打ち、直後に亡くなったことについて、新聞に書かれてますね」
わたしは頷き、急いで言い足した。
「締切が迫って、何か書かなくてはならなかったんです」
「乳幼児の突然死は珍しくない」と、文彦が再び割って入る。
「家内はまだ幼かった。不注意で階段から落ちたが、死因とは無関係という解剖所見も出ている」
「としても、」刑事は顎をしゃくり上げた。
「それを自ら触れて回るという発想は、医家のお嬢さんとは思えませんね。演劇人らしいパフォーマンス、かな」
文彦に機先を制され、ミュンヒハウゼンという物言いをただ避けているに過ぎなかった。
「言葉と鋏は使いようですな」
呆れ果てたように、夫は首を振った。
「最初から結論ありきときている。そんなインチキは学問の世界で事欠かないが、あなた方は警察だ。事実に基づく証拠を示していただきたい」
「おや。議論がお好きと思いきや、証拠をご所望で」
山城刑事の顔に達成感が漂い、わたしは嫌な予感がした。
「薦田くん。あれを」
婦警は懐からメモを取り出した。
「保護された当時、美希さんの身体に数カ所見られた内出血について、その直前に行われた虐待痕との鑑定結果が出ました」
(第12回 第六幕 後編 了)
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