女優、そして劇団主宰でもある大畑ゆかり。劇団四季の研究生からスタートした彼女の青春は、とても濃密で尚且つスピーディー。浅利慶太、越路吹雪、夏目雅子らとの交流が人生に輪郭と彩りを与えていく。
やがて舞台からテレビへと活躍の場を移す彼女の七転び、否、八起きを辻原登奨励小説賞受賞作家・寅間心閑が Write Up。今を喘ぐ若者は勿論、昭和→ 平成→ 令和 を生き抜く「元」若者にも捧げる青春譚。
by 文学金魚編集部
また私だ、と思った。ようやく声の調整が出来たと思ったらまただ。でも正直な所、その言葉の意味は掴みかねている。フレームからいなくなった? どういう状態なのかしら……。その戸惑いが伝わったらしく、ADさんが近付いてきた。
「えっと、少し動きが大きいみたいです」
「はあ……」
その頼りない様子で察してくれたのだろう、彼は天の声の主である監督さんと短く話し合った後、さっき映像をチェックしたモニターで「動きが大きい」という演技を見せてくれた。ああ、と思わず声が漏れる。確かにモニターの中を歩く川原早苗は、ひとつひとつの挙動が大振りで、何度も画面の枠=フレームからはみ出てしまっている。それだけではない。動きの大きさと周囲の風景が馴染んでいないから、とてもわざとらしく、いかにもお芝居という感じに溢れている。
思い当たることはあった。実は声の大きさを指摘された時にも浮かんだことだ。きっと今日の私は張り切り過ぎている。初めて見る何種類ものセットの見事さや、リハーサルと違って衣装を身につけた役者さんたちの本気のムードに煽られ、身体の内側にある「演技スイッチ」が作動してしまったらしい。
「あ、はい、分かりました」
自分でも驚くほど小さな声で、理解し納得したことをADさんに伝える。多分この程度のボリュームでもマイクは拾ってくれるだろう。
無意識のうちにオンになっていた「演技スイッチ」を、意識的にオフにする。私がいるのは舞台の上ではなく、廊下や事務室や病室だ。普段どおりに振る舞えばいい。力を抜いて軽くするのよ、簡単じゃない? そう自分に言い聞かせ、実践することは難しくなかった。
それでもふとした瞬間に「演技スイッチ」がオンになってしまう。歩き方や振り返り方、何なら笑い方までもが大きくなり、不自然に浮き上がり始める。
「早苗ちゃん、振り返り方、強すぎるよ」
「今のところさ、声、大きすぎるかなあ」
「あのね、視線の動かし方が強い」
もちろんその兆候を感じる度に、気取られぬよう微調整を試みるが、一回で監督さんのオーケーが出ることは意外と少ない。
「じゃあ、今のところ、もういっぺん」
そんな指示が出るたび「今度もダメだったかな」と落ち込みそうになるが、やはりドラマの現場は勝手が違う。何度も繰り返すのは、うまくいかないからではなく、様々なアングルから撮るため、ということだってある。スタジオ撮影初日の身としては、そんな流れについていくだけでも大変だ。
そうこうするうちに出演するシーンの撮影がすべて終わり、おチビちゃんはようやく看護学生の川原早苗から自分自身へ戻った。メイク室で鏡の前に座った途端、一気に力が抜ける。
「ご飯食べる時間、ちゃんと取れた? お腹が減ってちゃ何も出来ないもんね」
冗談混じりで気遣ってくれるメイクさんに、思わず「疲れましたあ」と本音を漏らす。自分で思っている以上に緊張していたらしく、身体がそこはかとなく硬く重い。それはそうよ、という感じで彼女は微笑み、おどけた仕草で肩を揉んでくれた。
舞台とドラマの違いに戸惑う瞬間は多かったが、四季での経験がおチビちゃんの宝であることに間違いはなく、共演者の中にはその輝きに強い関心を示す人もいた。
あれは梶芽衣子さんとのシーンだった。おチビちゃんの梶さんに対する、遠くから見ている/少しずつ近づく/肩に手を添える、という一連の動き。これがディレクタールームで見ていた女優の感性に響いた。その音色はかなり大きかったらしく、彼女は下まで降りてきてこう言った。
「今のはちょっと……どうして出来たの? ねえ、悔しいわ」
その女優こそ、ロケ初日からおチビちゃんを気遣ってくれた夏目雅子さんだった。真っ直ぐに目を見ながら、素直に悔しさをぶつける彼女の姿は眩しく、羨ましく思われた喜びもさることながら、間近で見る純度の高い情熱に感心してしまった。
「どうしてって言われても……」
まだ言葉にはなっていないが、思い当たる節はある。きっとあれだ。最初に監督さんから指摘された、あの部分に違いない。おチビちゃんは夏目さんの情熱に応えるように、少しずつ言葉に直してみた。
まず、自分の基礎は劇団四季の舞台で養われたということ。そして、劇団とテレビは演技の仕方が違うということ。もちろん演劇は途中でストップしてやり直すことはないし、自分の立ち位置が舞台の隅の暗がりでも、まだ出番前で袖にいても、役の気持ちになっている。
それを聞くと夏目さんの真剣な表情に少し変化があった。どこか納得できる部分があったのかもしれない。
「今のシーンは、最初に私が見ているところから撮っていたんですよね?」
「うん。そうだった」
「映っていたのは私の全身……」
「そう。それがすごく良かったのよ。身体全体で表現しているんだもの」
やっぱりそうなのね、とおチビちゃんは合点がいった。舞台の上では、観客に全身を晒しながら演技をする。夏目さんがさっき見ていたのは、一番慣れ親しんでいる方法だ。そのことを告げると、「そうなのねえ」としばらく考え込んだ後、照れ臭そうに打ち明けてくれた。
「私ね、もっと舞台のお仕事をたくさんやってみたいと思っているのよ」
その言葉が嬉しくて「舞台?」と思わず大きな声を出すと、「ちょっと、ナイショなんだから」と小さな女の子みたいに慌てていた。そんな可愛らしい仕草におチビちゃんも気持ちがほぐれて、「私は夏目さんみたいなお芝居、いいなと思ってます」と伝えることができた。
「えーっ、それどういうこと?」
「うまく言えないんですけど、私、細かいお芝居が苦手で、もっと夏目さんみたいに繊細に出来たらなって」
「そお? すぐ出来るわよ」
その不満そうな言い方が妙に面白くて、二人して笑ってしまった。夏目さん演じる北見看護婦主任と川原早苗は、寮の一部屋で一緒に生活している、という設定のため、元々共通のシーンが多かったが、このことをきっかけに色々な話をするようになった。
撮影の合間に空き時間が出来ると、スタジオの向かいにある、夜にはお酒も出すカフェ「ヘンリーアフリカ」へ一緒に行ってお喋りをしたり、原宿で取材が入っていた彼女についていき、そのままショッピングを楽しんだり。
また撮影が深夜まで長引いた日には、同じタクシーで帰ることもある。夏目さんが住んでいたのは横浜だったので、思いがけず実家へ顔を出す機会が増えることになった。
車内での話題は主に芝居の話。おチビちゃんも質問されたことには真剣に答えていた。感覚が似ていると感じることも多く、話題には事欠かないけれど、いつも車を降りる頃になると彼女は口数が途端に少なくなる。初めての時は、理由が分からないので何の気なしに尋ねてみた。
「どうしたの?」
「……うん、十二時過ぎるとね、叱られるんだ」
「え、誰に? お母さんに?」
「うん」
でもお仕事なんだから、というおチビちゃんの言葉にも寂しそうに頷くだけ。それ以降もタクシーで帰る時はいつもそんな感じだった。
カネボウ化粧品のキャンペーンガールとしてコマーシャルに出演、「クッキーフェイス」のキャッチフレーズで一躍有名になり、すぐに続編が始まるほど好評だったドラマ『西遊記』の三蔵法師役で人気を博した彼女の、普段からは想像できないその姿は強く印象に残った。
ちなみに普段の夏目さんは、とても明るくて天真爛漫。いわゆる「笑いのツボ」にはまってしまうと、なかなか抜け出せないタイプで、撮影中に何かのきっかけで笑ってしまうともうダメ。カメラに撮られないよう、肘や腿をつねって頑張るけれど、最終的には噴き出してしまう。大袈裟ではなく、十回近くNGを出したこともあった。
彼女のキャラクターもあって、それで場の空気が悪くなったりはしないけれど、時折ADさんが少々厳しめに注意したりもする。そんな時は「ごめんなさあい」とほんわか謝った後に、「分かりました。しっかりやりまあす」と頭を下げれば、何となくみんなも和んでしまう。普段、人前で台本を読むようなことはないが、長い台詞なども見事に決めるので、きっと見えないところで努力をする人なんだと、おチビちゃんは感心していた。
撮影が始まって一ヶ月と少しが過ぎた昭和五十六年五月十二日、記念すべき第一話が放送された。時間は毎週火曜の午後九時から。初回の視聴率は三十一パーセントと高かったので、現場もますます活気づいてくる。
おチビちゃんも期待に胸を膨らませて、全国のお茶の間に流れる『野々村病院物語』を見た……と言いたいところだけれど、実はそうではなかった。もちろん火曜の夜に撮影があれば見ることは不可能だが、そういう理由ではないし、その可能性を考えて毎週実家でビデオに録画してもらっていた。つまり見る気はあった。でも、なのだ。録画されたビデオもセットして、せっかく見ることが出来るのに気が進まない。とりあえず実家に電話をかける。お母さんが出た。
「あら、どうしたの?」
「うん、別に何ってわけじゃないけど……。あのさ、どうだった? ドラマ」
「え? 何よ、まだ見てないの?」
だってさ、と言った後に言葉が続かない。気持ちとして近いのは「怖い」とか「恥ずかしい」だけど、あまり自分から言いたくはない。だから代わりにひとつ質問をしてみた。
「私、大丈夫だった?」
「え? 大丈夫って何よ」
「何って、ほら色々あるじゃない。映りが良かったとか、演技が良かったとか」
「うん、そうねえ。良かったわよ」
「何が?」
「だから全部よ」
「本当?」
本当よ、とお母さんは言うものの、まだ不安なので、友達数人にも電話をかける。同じように「大丈夫だった?」と聞くと、みんな「大丈夫」と言ってくれた。中には笑って「いいから早く見なさいよ」と言う人もいた。だったら、とビデオを再生する。両手で耳をふさぎ、薄目で視聴開始。自分の顔がアップになったり、声が聞こえるところでは思わず身体に力が入る。身体を何度もよじりながら、ようやく最後まで見終えて思ったことは、やっぱり「恥ずかしい」だった。親戚や友達に宣伝してくれたお父様やお母さんのことが恨めしい。許されるなら「見ないでください!」と言って回りたい気持ちだ。
私ってあんな顔だっけ?
あんな声だっけ?
あんな演技してたっけ?
本当はもっと良いはずなのに、という気持ちがうずいている。
もし、お腹ペコペコの状態でラーメン屋に入って、ようやく目の前に運ばれて来たとしても、店のテレビに自分が映ったなら、食べずにお金だけ払って逃げ出すんだろうな――。部屋で一人、そんなことを考えながら、もっと洒落た想像はないものかと笑ってしまった。
そんなおチビちゃんの気持ちが、ちょっとずつ変わり始めるのは、親戚や友達からハガキや電話で感想が届き始めた頃だった。
あの話のあのシーンがとても良かった、とか、一生懸命な時の表情が何度見ても素晴らしい、とか、本当にそういう言葉が励みになり、いつの間にか耳をふさがず、目もちゃんと開けて録画していたビデオを見るようになっていた。
中でも印象的だったのは、叔父が送ってきてくれた新聞の切り抜きで、そこにはドラマの視聴者の投稿文が載っていた。内容は川原早苗のことをとても褒めてくれる内容で、「笑顔を見ると心が励まされて元気になる」と書かれていた。
報われた!
おチビちゃんは読んだ瞬間、そう思った。今までの苦労や嫌なことや何もかもが、すっと消えてなくなるような爽快さがある。この仕事と巡りあえて本当に良かった。浅利先生を始めとして、気持ちよく送り出してくれた四季の人たちにも改めて感謝したい。
そしてもうひとつ。テレビって凄いな、と初めて実感できた。ドラマを見てくれている視聴者の方々は、絶対観たいと思い、チケットを購入して、当日電車に乗って劇場まで足を運んでくれる、熱心な演劇のお客様とは違う。ただ火曜日の夜九時にチャンネルを合わせていただけの人がたくさんいるのだ。
そんな興味のなかった人に、自分の存在を、そして演技やメッセージを届けることができるテレビは本当に凄い! 無限の可能性に触れたようで、おチビちゃんは力が湧いてくるような感触を味わっていた。
(第32回 了)
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