月子(つきこ)・楡木子(ゆきこ)・好女子(すめこ)・夾子(きょうこ)の医家に生まれ育った四人姉妹に、立て続けに事件が襲いかかる。始まりはあのとき。いや、違う。絡まり合った過去の記憶。あるいは謎の糸口は…。詩人・批評家でもある小原眞紀子の手になる、ノスタルジックでハードボイルドな金魚屋ロマンチック・ミステリ・シリーズ第5弾!
by 小原眞紀子
第五幕(前編)
刑事と婦警が再びやってきたのは、翌日の昼過ぎだった。
「今から病院へ行くところなんですが」
わたしの下げた紙袋やバッグを、山城刑事はやや困惑した表情で眺めた。
「美希ちゃんには、会えないと思いますよ」
別に会いたいわけではない。着替えをはじめ、美希の荷物の一切を病室に放り込んでくるだけのつもりだったが、やはり尋ねた。
「会えない、とおっしゃいますと?」
「午前中に私どもがお話を伺いまして。午後から、面会謝絶になっているはずです」
すると、またヒステリーの発作を起こしたのだ。
いくら警察とはいえ、神経症の子供に、もう少し気を使った対応ができないものか。
ともあれ、二人をリビングに迎え入れた。
わたしは上着を着たまま、ソファに浅く腰かける。
「美希は、どんな様子でしたか?」
「陽平くんを、自分がジャングルジムから突き落としたそうです」
婦警の言葉に、わたしは思わず刑事の顔を見た。
山城刑事の細面は無表情で、濃い髭がアンバランスに映った。
どうして、とわたしは呟いた。
「美希はなぜ、そんなことを」
刑事はしばし躊躇した。が、それは単に儀礼上のものに過ぎなかった。
「あなたの指図だ、と言ってます」
わたしは文字通り、唖然とした。
なぜ、と同じ台詞を口にする。
「あなたから虐待されて、逆らえなかったと」
「虐待ですって!」
いったい、どこの国の言葉をしゃべっているのだろう。
「わたしは妹に頼まれて預かったんですよ」
「ええ。妹さんも自分が頼んだとおっしゃってましたが」
山城刑事は、わたしの顔を上目遣いで見つめていた。
「虐待なんかするぐらいなら、妹に突っ返します」
わたしはやっと論理の糸口を見つけた気になった。
「拝み倒されただけなんだから。預かる義理はないんです」
「実際、熊本まで美希ちゃんを戻しに行かれましたものね」
刑事は頷いたが、いったい何に納得しているのか、見当もつかない。
「だけど、美希ちゃんは熊本にはいられなかった。妹さんが迎えに行き、翌日に交通事故に遭い、あなたはまた子供を置かざるを得なくなった」
それがどうしたのか。虐待というならむしろ、熊本の自宅に一日もいられないことを不審がるべきではないか。
「ここしばらく、美希は安定して、いい状態だったんです」
話せばわかる。わたしは刑事の正面から、あらためて向き合った。わかるはずだ。
「この家でやっている英語劇教室が気に入ったようで」
「言うことを聞かないと参加させない、と脅してたんじゃないですか?」
突然、婦警が口を挟んだ。
「それで美希ちゃんは大人しく、いい状態、とやらを保っていた。あくまで、あなたにとっての、ですが」
婦警の顔は横幅が広く、頑固そうにえらが張っていた。
「たまたま人の勧めがあって、芝居をやらせてみただけです」
我ながら辛抱強く、わたしは応じた。
「結果的によかったので、とても喜んでいました」
「その、勧めた人というのは」
妹の婚約者です、と刑事に向かって答えた。
「演劇療法についての論文を読んだ、とかで」
「真田さん。聖清会病院の准看ですね」
山城刑事は目を細め、値踏みするような視線で見た。
突然、わたしはどきまぎした。
演劇療法。後ろめたいことはない。
コルサコフ型老年痴呆に、と、こもった声が蘇った。今着ているセーターの、この胸に顔を埋めて。
「彼を御存じなんですね?」
ええ、と刑事は曖昧に頷いた。「あの病院も今、いろいろ大変ですのでね」
医療ミス。警察が入っている、と生徒の親が言っていた。
「真田さんと、よくお会いになるんですか」
いいえ、とわたしは首を振った。
「最初の約束では、頻繁に美希の面倒を見に来てくれるはずでしたが。どうも時間がないらしくて」
確かに、と刑事は呟いた。
「ここ数日、任意の事情聴取でずっと署にいらしてますから」
事情聴取。わたしは、はっと顔を上げた。
責任を負わされているのか。
医師ですらない、若い彼が。
認めないからだ、と頭に血が上った。大きな病院にミスなど付き物だ。とっとと謝罪しないから、警察沙汰なんぞに。
「業務上過失とかですか。もともとは医療事故の訴訟でしょ?」
そう尋ねる自分の声に、動揺を覗かせるまいと苦心した。
「さあ、事故があったかどうかも」
濁す言葉と裏腹に、あからさまに探りを入れている目つきだった。
「婚約者の方のお身内ということで申しますが。実は、故殺の疑いもありましてね」
コサツ。
一瞬、馬鹿げたことに名勝古刹を思った。
「故殺って。誰が?」
わたしの声は掠れていた。どう聞こえるかなど、もはやどうでもよかった。
「いやいや、まだそんな」
掌を振る刑事にはどこか、してやったりという表情が浮かんでいる。
「ただ、足りない薬があるようで。窃盗というと聞こえは悪いですが。真田さんの現在の容疑というと、そうなりますかね」
「彼は未成年よ!」
叫んでから、しまったと後悔した。いったいこれで、何を認めたことになる。
「一昨日で二〇歳です」
同じ目つきのまま、刑事は薄く笑った。
「もっとも犯行時は未成年ですから、おっしゃる通りです。もちろん窃盗犯と認められた場合、ですがね」
警察が帰ったのは三時過ぎだった。教室が始まるまで、あと一時間余りしかない。
わたしは美希の荷物を持ち、すぐさま病院に向かった。
ナースセンターで夾子を呼び出した。髪をアップにした白衣の妹は、どうやら医師らしく見える。
やはり忙しいらしく、十分ばかりしか空けられないと言う。
「構わないわ。こっちも早く帰らないと」
その時間帯なら、病院の食堂で傍目を気にせずに済んだ。一番隅のテーブルで、話しはじめた夾子は見るからに疲労困憊していた。
「窃盗容疑は、精神安定薬一シートよ」
目は充血し、頬が垂れ、普段より老けた顔つきだった。
「仕事にならないから、考えないようにしてるんだけど」
美希から電話があったときも、それどころではなかったのだ、と言う。
「心ここにあらず、だったかもしれない。悪かったわね」
「それにしても窃盗だなんて」
盗んだと言われれば、と妹は息を吐いた。
「そうには違いない。本人も認めてるし」
「わたしたちだって、」と張り上げたわたしの声は、がらんとした食堂によく響いた。
「睡眠薬代わりの安定剤ぐらい、家でよく失敬してたわ」
「ええ。黙って持っていくんじゃないって、よくお父さんに怒られた。彼も薬局に断りを入れるつもりで、つい忘れただけよ。アネクチンを盗ったなんて、否定してる」
「アネクチンって何?」
筋弛緩剤、と夾子は瞼を押さえた。
故殺。
その言葉が初めてくっきり脳裏に浮かんだ。
殺人事件の容疑者になっているのだ。
「薬剤の仕入れ数と使用残数が合わないのが動かぬ証拠だって、何時間も取り調べを受けて。そんなの、いつもは使用記録の付け違いで処理してるのに」
使用残数の照合。
警察の取り調べ。
彼らが抱えていたものとは、そこまでの事態だったのだ。
「動機は?」
妹を相手に、わたしは目の前にいない警官に反論していた。
「いったい何のために、そんなことをしたって言うの?」
夾子は疲れた笑みを浮かべ、首を横に振った。
「さあ。愉快犯っていうのもあるから、って」
おそらく何日も寝ていないに違いない。いつもはごく人よさげな顔立ちが蒼ざめ、のっぺり能面じみてみえる。
愉快犯。
真田さんとは、よくお会いになるんですか。
あの質問は、どういう意味だったのか。
「で、美希は?」と、わたしは訊いた。
「別に。今は落ち着いてる」
妹の目は虚ろで、宙を捉えるようだった。
「陽平くんをジャングルジムから突き落としたって、本当なの?」
わからない、と夾子は呟く。
「わからない、ですって」
突然、無性に腹が立った。美希のことなら何でも飲み込んでいるような口を利いていたくせに。
「いいこと。美希はね、わたしの指示でやったなんて言い出したのよ」
やっと懸念に気づいたように、夾子は目を上げた。
「ああ。警察には、ちゃんと伝えたから。神経症で情緒不安定だって。そんな子供の言うことなんか、誰もまともに取らないわよ」
どうだか、とわたしは吐き捨てた。
「大丈夫だってば、楡木子姉さん」
無理矢理に気を引き立たせるように、夾子は初めて笑みらしい笑みを浮かべた。
「時間が経てば、美希の言うことは変わってくる。証言が変わるということ自体、証拠能力がないことになるんだから」
「他人がどう考えるかなんて、わかりゃしないわよ」わたしは言った。
特に相手が、あら探し専門の刑事、駐車違反の切符切りに飽き、有能ぶりたいのが見え見えの婦警ならなおのことだ。
夾子はまたふいに肩を落とすと、心底憔悴しきった表情になった。
「忠くんのことも、ここぞとばかり無責任に言い散らす人がいるの。前々から、他のスタッフに嫉妬されていて」
いずれ、証言が変われば。
それもまた、慰めに過ぎないのだ。夾子はむしろ、自分自身に言い聞かせていたに違いない。
「たぶん、人権派の弁護士が引き受けてくれそうなんだけど」と、妹は目を上げた。
「ごめんね。姉さんまで変なことに巻き込んじゃって。でも美希に関しては、きっと心配いらないわよ」
次に警察がやってきたのは、三日後の午前中だった。
「亡くなった陽平くんの御両親、姉川夫妻が、美希さんのことでこちらに苦情を言いに来られたことがあったとか」
リビングのソファに、刑事は足を広げて掛けている。婦警は脇の椅子に控えていた。
「はい。美希を最初に預かった日です」
「何かトラブルがあったんでしょう? しかしその後、また美希さんを陽平くんのクラスに参加させた。それ自体が非常識だと、姉川夫妻はおっしゃってますが」
美希ちゃん、と言っていた刑事が、美希さん、と呼ぶようになったのには、何か意味があるのだろうか。
「教室のある日は、美希が落ち着かなくなって」
いったい、どう説明したらわかってもらえるのか。
「身体がうずうずして、やりたくてたまらないという感じで」
「本人がやりたがったから、支障があっても出してやった、と?」
「いえ、」別の言葉を探すしかなかった。
「語学教育ツールとして、芝居はとても有効なんです。さらに精神的な療法として、どこまで可能性があるのか、と考えまして」
「つまり知的な興味で実験していた、ということですか?」
はい、と、わたしは認めた。
「美希は演じることに喜びを感じていて、何か特効薬を発見したような興奮を覚えました。それは他の生徒にも伝わり、神経症の子供と普通児の垣根を越えて、いい影響を与えていました」
「そして美希さんは学校の帰り、たまたま会った陽平くんと公園のジャングルジムで遊びはじめた。それほど親しくなった、というわけですね」
そうだった。
陽平を主役に、という姉川夫妻との約束に対して、ならば美希を相手役に、とまで案を練っていたのだ。最初の揉め事はそれで本当にちゃらになるし、息子が満足なら、あの親は決して文句を言うまい、と。
「ところで、あなたは姉川夫妻を嫌ってらした」
まさか、とわたしは呆れ、刑事を見返した。
「生徒の親御さんを嫌うなんて」
うちの月謝がいくらか知ってるの、と言ってやりたかった。
「少人数制ともなれば、御父兄とうまくやるのは当たり前です」
「しかし、美希さんはそう言ってますよ。楡木子伯母ちゃんは、陽平くんのお母さんとお父さんの悪口を言っていた、と」
悪口。
物わかりがよくなった美希を相手に、愚痴をこぼしたことがあった。
関心なさげに聞き流していたはずが、今頃、持ち出してくるとは。
このわたしが、子供、よりによって好女子の娘に気を許すなんて。
「姉川さんには神経を使ってたので。つい、ストレスが溜まって」
「なるほど。ストレスが溜まった」
まずい言い方だった、と気づいたときは遅かった。
我が意を得たように刑事は頷く。
「あなたはそのストレスを、美希さんにぶつけたんですか?」
「そんな覚えはありません」
「美希さんの身体には、打ち身や傷が数多くありましてね」
どうやら質問の核心に入ったらしかった。
やっと出番だ、というように、婦警が幅広な顔を上げた。
「数日前の傷も、前のものが治りかけた内出血の跡もみられます」
聖清会病院で、美希の診察に立ち会い、検分したのだと言う。
「あのですね」と、わたしは言い返した。「美希が普通に暮らせるようになったのは、ごく最近ですよ」
それまで自ら階段から落ち、児童館の本棚を倒し、という騒動の連続だったのだ。実際、あれで痣の一つもこしらえてないなら、まさしく神童だ。
「で、あなたはどう対応されていたんです?」
刑事は目を細めた。「美希さんの精神状態が安定してくるまで。夜遅くまで、公園に放置したりしてたのではないですか?」
わたしは言葉に詰まり、刑事は細めていた目を大きく開けた。
「無理にトイレに行かされた後、ロフトに閉じ込めて鍵をかけられた、と御本人が言ってますよ」と、また婦警が口を挟んだ。
「まあ、教室があるときには、」
とにかく正確に話さねば、と自分に言い聞かせる。
「美希も参加できると気づくまで、そうするしか」
「ようするに閉じ込めたんですねえ」
刑事は大げさに首を振る。「出してほしいと泣きませんでしたか?」
泣いたら、出すべきだったとでも言うのか。その後のロフトの惨状を、写真に撮っておくべきだった。
「ほう。屋根裏に閉じ込めたら、泣いて暴れて物を壊したわけですね。で、折檻をした」
「折檻ですって。叱っちゃいけないんですか?」
だいいちロフト付きの部屋であって、屋根裏ではない。が、そんなことを言っても無駄だろう。この人たちにはプロットを立てる才能がある。
(第09回 第五幕 前編 了)
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