「現代俳句時評③」で白濱一羊さんが「後世に残るべき俳句――俳句は「一字千金」」を書いておられる。俳句は短い表現だから類句類想句が生まれやすい、と思われるだろう。しかし案外少ないものである。俳人の方々ができるだけ先行句と重なり合わないよう気をつけているからだが、言葉の組み合わせは無限でもあるのですな。しかしそうは言っても様々なフェーズで似た句は生まれて来る。白濱さんはそんな類句類想句について論じておられる。
あからさまな盗作を取り上げても意味がないので、白濱さんは類句類想句をとりあえず五つくらいのタイプに分類しておられる。
■類句~盗作■
青蘆原をんなの一生透きとほる 橋本多佳子
青芒女の色香透き通る 車谷長吉
車谷さんの句は最初は「青芒女の一生透き通る」だったが、多佳子の盗作と批判されて「青芒女の色香透き通る」に改作した。車谷さんは「これでもまだ橋本さまの類句だとおっしゃる向きが、あるいはあるやも知れませんが、私としてはこれで自分の句になったと考えます」と書いた。
まー苦しい弁解というより、あまり面白い展開ではありませんな。要するに「青芒女の一生透き通る」でも「青芒女の色香透き通る」でも、車谷さんの句には、はなっから魅力がない。直木賞作家でなければ話題にならなかったかもしれませんね。ただ別に車谷さんを貶めているわけではなく、ぶきっちょであまり想像力も豊かではなく、でも愚かしいまでの実直さが長吉っさんなのだ。車谷長吉論として考えればこの盗作騒ぎは面白い。しかしそれではもう俳句の問題ではなくなる。
■本歌取りの句■
世にふるもさらにしぐれのやどりかな 宗祇
世にふるもさらに宗祇のやどりかな 芭蕉
類句類想句といっても盗作とまったく縁のないのが、宗祇「世にふるもさらにしぐれのやどりかな」と芭蕉「世にふるもさらに宗祇のやどりかな」である。宗祇の句は「大事にされるべき年寄りなのに、わびしい家で時雨に降られながらの旅寝かよ-」といった嘆きだが、それを受けて芭蕉は「長生きっちゅーもんは、宗祇さんの(時雨の)宿りみたいなもんだよなぁ」と詠んでいる。要するにオマージュである。現代俳人もしきりに先師の句の発想や語法を使った句を詠んだりする。類句類想句とは言いながら、出自がはっきりした句である。
■類似句~独立句■
雪嶺の裏側まつかかもしれぬ 今瀬剛一
涅槃図の裏側まつかかも知れぬ 作者不詳
文字面では類句類想句だが、本質的に関係ないと言ってしまった方がスッキリするのが、今瀬剛一「雪嶺の裏側まつかかもしれぬ」と作者不詳「涅槃図の裏側まつかかも知れぬ」である。
「涅槃図」はある俳句全国大会に投句された某氏の句だが、今瀬さんの「雪嶺」の方が先に発表されている。上五句を除けば「裏側まつかかも知れぬ」の表現は同じである。どうすんべぇと議論が為されたが、「類似句ではあるが、明らかに発想が決定的に違うとみて類想句ではないという結論」になったのだという。
白濱さんの孫引きだが、俳句全国大会の審査員をなさった鈴木鷹夫さんが「今瀬剛一の作品は、雪嶺の裏側へ落ちてゆく夕日をイメージしたと思われるが、某氏の句は仏教思想を主題にした、いわゆる虚に於いて実をなす態の発想であることは明白である」と書いておられるらしい。
「雪嶺」は今瀬さんの句としてはそれほど冴えないが、「雪嶺の裏側へ落ちてゆく夕日をイメージした」句だという鈴木さんの評釈は、好意的なものだがドンピシャな感じがしない。火山でも爆発したんかいな、と受け取ってもいい。しかし某氏の「涅槃図の裏側まつかかも知れぬ」は、涅槃と地獄の火焔は近しいわけだから、誰が評釈しても同じになる。もし某氏が今瀬さんの「雪嶺」を知っていて「涅槃図」を詠んだのなら後者の方が文学的に正解である。で、最後に最も俳句〝文学〟ならではの類句比較である。
■類句~独創性①■
旅人の窓よりのぞく雛かな 白雄
旅人ののぞきてゆける雛かな 久保田万太郎
加舎白雄はいわゆる天明俳句を代表する俳人の一人。万太郎は芭蕉のようにオマージュを捧げているのかというと、ぜんぜんそうではない。盗作だ、類似句だと批判されて万太郎は、「似てはいるが自作の方が数等上であるから等類ではない」と言ったのだという。まさにその通り。
白雄の句の主語は「旅人」である。対する万太郎句の主語は「雛」である。旅人が通りすがりに民家の暗がりに飾ってある雛人形を見たという場面は同じだが、動かない雛と過ぎ去ってゆく旅人を対比した万太郎句の方が、遙かに余韻のある秀句になっている。
このあたりの先行句のある改作は、俳句ならではの問題を孕んでいる。似ているから類句、盗作だとは決して言えないのである。
■類句~独創性②■
獺祭忌明治は遠くなりにけり 志賀芥子
降る雪や明治は遠くなりにけり 中村草田男
志賀芥子「獺祭忌明治は遠くなりにけり」と中村草田男「降る雪や明治は遠くなりにけり」は、俳句史上で最も有名な類似句である。これも白濱さんの孫引きだが、香西照雄さんは「獺祭忌(子規忌のこと)では、歴史の解説の平凡な断片に過ぎない。『明治は遠くなりにけり』の独創性の主張は、それがむしろ平凡な語句だけに、ナンセンスだ。盗作説を主張する人は、俳句におけるモンタージュないし配合の重要性を理解していない」と書いておられるようだ。
また類似句を比較検討して、白濱さんは「俳句のオリジナリティの問題は、最終的には句の優劣に行き着くのではないか。優劣があるということは違いがあるということでもある。優劣がないのであれば当然先行句が残るべきであろう」と結論付けておられる。
白濱さんの結論にまったくもって異論はないのだが、ちょいとあっさりし過ぎているとは思う。優劣とは何か、俳句における優劣の質とは何かはそんなに簡単な問題ではない。
芥子と草田男の句は、文字面だけを見れば明らかな類句であり、草田男句の方が後なのだから盗作と言われても仕方がない。ただそうなっていないのは優劣の質の問題である。質が伴わなければ似ているというだけで盗作と批判されるのは目に見えている。香西さんのように、それを「俳句におけるモンタージュないし配合の重要性」で説明できるとは思えない。
草田男句は何事かの本質をズバリと衝いている。これに対し、芥子の句はぼんやりしている。ある本質が明らかになっている感じがしないのだ。このあたりに俳句文学の最も重要な機微がある。それは俳句の初源であり、実質的な俳句文学のスタートである芭蕉「古池や」にも言えることである。
俳人は誰もが、一生に一句でいいから芭蕉や蕪村etc.に比肩できるような名句を詠みたいと思っているだろう。それは俳句が何事かの本質をズバリと射貫いた時に可能になる。たいていの場合、俳句はその本質の影である。この影を俳句文学の本質だと思って追いかけてはいけないのである。テニオハや季語の使い方などを一所懸命勉強してもダメということだ。コトの本質は俳句文学の本質としての観念をつかむことである。
アルパカの春の朝みたいな目もと
かげろふをのばせばのばすほどに青
落書きのやうに始まる夏休み
思考とはまばたきのこと熱帯魚
アイスティー裁判みたいな時間だ
呼ばれたら行くしかなくて赤とんぼ
クレーンで月まで運ぶほどのこと
紙を裂くはじめに力冬に入る
木枯らしに脚が生えたといふことも
風邪だから海の向うに歩かうよ
細村星一郎「触れられて」より
今号には鬼貫青春俳句大賞の受賞作が掲載されていて、細村星一郎さんの「触れられて」三十句が受賞された。〝青春俳句大賞〟にふさわしい清新な句である。文語体をちょこちょこ使っておられるが、手触りはニューウエーブ短歌に通じる。口語体俳句だと言っていいだろう。
俳句は一瞬の煌めきを詠むのに適している。まあいまさらだが俳句は時間表現よりも空間表現と相性がいい。だから「思考とはまばたきのこと熱帯魚」でいいのだが、こういった取合せ――昔ながらの言い方で言うとシュルレアリスティックな遠い物の連結は、いずれ飽きが来る。なぜ「紙を裂くはじめに力冬に入る」のか、なぜ「風邪だから海の向うに歩かうよ」なのかが問われるようになる。
しかし青春俳句大賞であり、作家もまだ若いのだからモラトリアムの時間はたっぷりある。賞をもらってからが最初の勝負でしょうね。この作風で処女作をまとめるのか、次のステップを見据えて処女作を考えるのかで、作家の将来の半分以上は決まる。
岡野隆
■ 白濱一羊さんの本 ■
■ 金魚屋の本 ■