男がいて女がいて、二人はふとしたきっかけで知り合った。運命的な出会いではなかった。純愛でもなかった。どこにでもいる中年男女のママゴトのような愛だった。しかし男は女のために横領という罪を犯し、社会から追いつめられてゆく。では女は男からなにを得てなにを失ったのか、なにを奪いなにを与えたのか・・・。詩人、批評家でもあるマルチジャンル作家による、奪い奪われる男と女の愛を巡る物語。
by 文学金魚編集部
「上ってみよう」
男はエスカレータの前で女の背中を押した。エスカレータは数段に分かれて上に伸びていた。乗り継ぎのフロアは広く、ブティックやデパートの入り口が並んでいた。
「屋根ないとこあるんだ」
女が天を見上げた。夜風が女の髪をなぶり、そのあわいから星が見えた。
てっぺんまで登ると男と女は手すりにもたれてコンコースを見下ろした。コンコースは一方の口が吹き抜けになっていて、そこから京都市街の明かりが見えた。
男と女はエスカレータを使わず、コンコース上部に差し渡された廻廊のような狭い通路を歩いてホテルに戻った。
部屋に戻ると「なにから始める?」と言って女がキャリーバックを開けた。ガムテープや市販品のそれをキャビネットの上に並べ、部屋に備え付けのお皿に睡眠薬を全部あけた。
「ちょっと買いすぎたかなぁ。足りないよりいいよね」
女は笑った。落ち着いていた。
男は部屋を見てまわった。窓ははめ殺しなので、ドアのまわりとバスルームの換気口、それにエアコンの吹き出し口を密閉するだけでいいと思った。
男はテーブルにコップと酒を並べている女をしばらく見てから「ちょっと書き物していいかな」と言った。
「書き物って、遺書?」
女が聞いた。
「うん、まあそんなとこだけど、新聞に使い込み額が四千万って出ただろ。いまさら馬鹿馬鹿しいけど、俺はそんなに使ってない。覚えてる内訳、書いとこうと思って」
男は小さなデスクに座るとホテルの便箋を拡げた。女は窓から夜景を見ていた。男はふと顔を上げ「お前はなんか書き残しておかなくていいの?」と聞いた。
「うーん、わたしはいいよ」
ほんの箇条書きのつもりだったが、気がつくと男は便箋七、八枚も書き続けていた。
女は遺書は書かないと言ったが、女のことも書き残しておかなければならなかった。女は男が渡した金でローンを繰り上げ返済していた。必要ないと断っても「もし別れたらどうするのよ」と言って、手書きの借用書まで書いた。それが役に立つと思った。
金と女のことを書き終えると男の手が止まった。
妻と娘に何か書き残しておかなければならなかった。
男は言葉を無理に押し出すようにペンを持つ手に力をこめた。
「宏美、すまない」と書いた。
なんとかペンを動かして「亜美、パパを軽蔑して恨んでるだろうけど、パパは亜美を愛してる、心から愛してる、本当にすまない」と書いた。
それ以上の言葉は出てきそうになかった。
男はペンを置くと、ビジネスバックの隠しから女の借用書を取り出し便箋といっしょにホテルの封筒に入れた。封も宛名書きもしないでそれを無造作にデスクの上に置いた。気がつくと小一時間ほど経っていた。その間、女はじっと待っていた。
男がデスクから立ち上がると、「終わったの? じゃあたっぷりくっつこうよ」と言って女がソファから腰を浮かした。
女の甘い喘ぎを聞きながら、男はこれで今日何回目の交わりだろうと思った。こんなにしたのは初めてだった。死を間近に控えているから力が湧くのだろうか。それだけではないと思った。
女は男を惹き付けてやまなかった。自分の中の欠落した部分が女によって満たされてゆくようだった。
「ねえ健ちゃん、ロミオとジュリエットって、死ぬ前にわたしたちみたいなことしたのかなぁ」
女が世迷い言のように呟いた。
「うん。そりゃそうさ。男と女が愛し合うのに、ほかにどんな方法がある」
男は女を抱く腕に力を込めた。女の声がたかまった。男は女の中で果てた。
「いよいよだね」
女はベッドに身体を起こし、テーブルの上を見やった。束ねられたロープもあった。
「健ちゃんが買ったロープ、使わないで済んだね」
「うん」と答えて男もテーブルを見た。男の中で閃くものがあった。男は女に向き直った。
「涼子、俺たち、普通に生きてれば、俺の方が先に死ぬよな」
「うん、そうかもしれない。健ちゃん、わたしより年上だし、女の人の方が長生きだから。残念ね、わたしに老後の面倒みてもらえなくって」
「じゃあ今それやってくれよ。俺の最後、みとってくれ」
男はそう言うと起き上がった。
ベッドの下をのぞき込むと、四本のフレームで支えられていた。男はロープを手に取り考えを巡らせた。ガムテープを細かく切るためにハサミを買っていた。それを使えば簡単な仕掛けを作れそうだった。男は女の不安な視線を感じながら、手首にロープを巻いて、いろいろな方法できつく縛ってみた。
「涼子、俺が先に死ぬってのはダメか? 大の字に寝て、ロープで両手両脚をベッドの足に固定して、首にロープ掛けて引っ張ってもらえれば簡単に死ねそうだと思うんだが」
「なに言うの。イヤだよ!」
険しい顔で女が叫んだ。
「頼むよ」
男は一人で働き始めた。まずドアをガムテープでしっかりと封印し、バスルームの換気口を塞いだ。後はエアコンの吹き出し口だが、椅子に乗れば女でも簡単に密閉できるので、半分ほど閉じずに残しておいた。
男はバスルームに戻るとお湯といっしょに大量の市販品をバスタブに流し込んだ。残りのボトルは蓋をあけてまわりに並べた。女を呼び「これを混ぜればガス出るはずだから」と説明した。女は不安な表情を浮かべたままだった。
「いっしょに死ぬんだよね?」
「いや、俺が先に死にたい」
「イヤよ! どうしていっしょじゃダメなの!」
「だって・・・ほんとなら俺の方が先に死ぬのが自然だろ? 俺の方が先に死にたいんだ。それに、後は簡単だよ。あれを混ぜればいいんだから」
「イヤよ!」
男と女は言い争った。無茶な要求だとわかっていた。しかし男は熱に浮かれたように「先に死にたい、お願いだ」と繰り返した。
「ちょっと試してみよう」
男はロープで輪を作り首にかけた。「引っ張ってみて」と女に言ったが「イヤだ」と応じなかった。しかたなく自分でロープを引いてみたが、前からだと頸椎に当たりうまくいかない。男はまたベッドの下をのぞき込んだ。ベッドの足に二本のロープを回し、左右から強く引っ張れば簡単に首が絞まりそうだった。男はその方法を女に説明した。
「イヤだ、絶対イヤだ」
女が泣いていた。
「少し時間差があるだけだよ。お願いだから」
男は頼み続けた。「俺はお前の男だろ? だから全部お前のものになって、お前に見守られて死にたいんだ」と執拗に言いつのった。女の方が根負けした。もう深夜だった。
「じゃあ健ちゃん、先に死んじゃったら、わたしは睡眠薬飲んでからあれ混ぜればいいの?」
「うん。そんなに苦しくないみたいだよ。それで簡単に死ねる」
そう言って男は手順を詳細に繰り返した。
男は女に四肢をロープで固定させ、ベッドの上に大の字に寝た。女が男の上に乗り口移しでウイスキーを飲ませてくれた。
「健ちゃん、無理なことばっか言う」
囁きながら女が泣いた。
女にベッドに固定してもらう前に、たっぷり睡眠薬と酒を飲んだがまだ意識はあった。皮膚に触れる女の肌が心地よかった。
「わがまま言ってごめんな。でも寝たらちゃんとやってくれよ」
もうろうとし始めた意識で男は言った。
男は激しく咳き込んだ。甘酸っぱい胃液がこみ上げむせかえりながら吐いた。
「健ちゃん、健ちゃんッ!」
女が悲鳴を上げた。
「ああ、だいじょうぶだ」
男はことさらに穏やかな声を出した。苦しさで大きくベッドの上で身体を跳ねさせたのに、両手両足のロープが外れなかったのを確認する余裕はあった。
「イヤだ、こんなのイヤだ」
女が泣きじゃくった。
「悪いね。ちょっとロープが喉仏に当たってむせかえっちゃったんだ。お願いだ、も一回やろう。今度はうまくいくよ」
男は「もうイヤ。どうしてなの、どうしてよ」と泣き続ける女をなだめ続けた。
苦しさで目が覚めた。
首が絞まり酸欠で顔が充血してゆくのがわかった。今度はうまくいきそうだった。
男は女にさとられないように薄く目を開いた。顔をそむけ、泣きじゃくりながら左右の腕に力をこめてロープを引いていた。腕の間で形のいい乳房が揺れていた。素直できれいで優しい女だと思った。
男は目を閉じた。
思考が濁り始めた。
「健介さんって、苦労して働いて大学出たなんて偉いわ」
付き合い初めの頃の妻が満面の笑みで言った。
「赤ちゃん、できたみたい」
玄関に立って笑っていた。
「結婚式に出られなくてごめんね。亜美ちゃんにもなにもしてあげらなくて」
姉が病床に末期の身体を横たえて泣いていた。
「パパの顔だよ」
娘がクレヨンを塗りたくった画用紙を拡げて膝の上に乗ってきた。あどけなく本当に嬉しそうな顔だった。
すまない、亜美、許してくれ、すまない、男は幻の娘に繰り返した。
「君は、死ななくていいんだ」
女に呟こうとしたが声にならなかった。
男は自分が死んだら、女は書き残した遺書を読むだろうかと思った。読んでほしかった。読めばきっと女は自殺を思い留まってくれると思った。
女の愛に疑いはなかった。女は男といっしょの死を望んだ。しかしそれはすべて自分のための愛だったと思った。どこにも居場所のない自分が必死にすがりついたのが女の愛だった。だからこの女との愛が壊れることはあってはならなかった。自分が死ねば愛は壊れないと思った。
「君は、だいじょうぶだ。俺よりもっと強い男が、もっと強い愛を持った男がきっと君を愛してくれる・・・」
苦しいが楽だった。
もうこれ以上なにも失うことはないし、誰かを傷つけることもない。
愛した女の手で死ねる自分は幸せだと思った。
男はもう一度薄く目を開いて女を見た。
きれいな女だった。
そう思いたかった。
男の意識が遠のいた。
(第09回 最終回 了)
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