男がいて女がいて、二人はふとしたきっかけで知り合った。運命的な出会いではなかった。純愛でもなかった。どこにでもいる中年男女のママゴトのような愛だった。しかし男は女のために横領という罪を犯し、社会から追いつめられてゆく。では女は男からなにを得てなにを失ったのか、なにを奪いなにを与えたのか・・・。詩人、批評家でもあるマルチジャンル作家による、奪い奪われる男と女の愛を巡る物語。
by 文学金魚編集部
窓の外に二条城の庭の色鮮やかな緑が拡がっていた。
男は服を着たまま一人ベッドに横たわっていた。女は隣のベッドにいた。こころもち顔を壁の方に向けているので、寝ているのか起きているのかわからなかった。ダブルではなくツインの部屋になったのはホテル側の都合だが、女と離れているのは今の自分たちの心の状態を表しているようで男は寂しかった。
松阪駅で男と女は言い争った。「ねえ、いっしょに東京に戻ろうとよ」ときつく腕を握り締める女に、「俺は帰らない。お前一人で行け」と男は言い張った。「じゃあどこに行くつもり?」と尋ねた女に「大阪か京都」と答えた。
松阪から近鉄を使えばターミナル駅に出られるはずだった。泣き出しそうな顔で「どうしてわたしを一人にできるの?」と女が責めると「じゃあ途中までいっしょに行ってやるよ」と答えて男は近鉄のある北口に歩き始めた。ちょうど京都行きの特急があったので切符を二枚買った。名古屋に向かうより一時間も遠回りだが、京都で女を新幹線に乗せるつもりだった。
車中で女はほとんど無言だった。男も口を閉ざしたまま、松阪に来た時よりも、もっとひなびてゆく車窓の風景を見つめていた。
京都駅に着き新幹線乗り場のあるJRの方に歩き始めると、女が「いっしょにいる」と短く言った。男は女を連れ駅前のターミナルに向かった。タクシーを使い社用で一度だけ泊まったことのある二条城前のシティーホテルにチェックインした。部屋に入ると「お前、どうするつもりなの?」と男は人ごとのように聞いた。
「だって、健ちゃんといっしょじゃなきゃ・・・」
それだけ言って女は黙った。
松阪のホテル以来、男は自殺を口にしていなかった。女もいっしょに東京に帰ろうとは言わなくなった。ただ一人で東京に戻るとも言わなかった。男と女は自分の心の中をのぞき込み、互いの心を探るように別々のベッドの上でじっとしていた。
「腹減ったな。飯食いに行こうか」
男がそう言うと「うん」と答えて女がすぐに身体を起こした。
外はもう夕暮れだった。男と女は軽く腕を組んで御池通を河原町方向に歩き出した。観光を楽しむ余裕はなかったが、それでも京都は「ああ、やっと来られた」と人に感じさせるような独特の雰囲気を持つ町だと男は思った。ビルが林立していたがすぐ近くに山が見えた。東京と変わらない現代的な建物の間に、古寂びた寺の門をいくらでも見つけることができた。
烏丸御池を過ぎたあたりで男はようやく「涼子は京都に何度も来たことあるの?」と口を開いた。
「ううん、二回くらい。修学旅行と家族旅行で。あ、独身のOLの時にも来たよ」
「旦那の前に付き合ってた男と?」
女は答えなかった。「気になるの?」と言って微笑んだ。少しずつ会話が弾み始めた。
中白川町のあたりで路地に折れ、姉小路通から御幸町通を歩いた。民家と店が混在する細い道に入ると、すぐに身体が京都になじんでゆくような気がした。寺町通のこざっぱりした日本料理屋に入り少し早めの京会席の夕食をとった。
お椀の煮物を口に運びながら「おいしいね。でも京都ってほんと薄味なんだね」と女が言った。「下町あたりの味に慣れちゃったんじゃないのか」と男は答えた。
女のマンションは都心から東南方向の二十三区外れにあった。「そうかも」と女が笑った。
食事を終えると寺町通りをぶらぶら歩きながら、河原町方面に下っていった。京都四条の繁華街は観光客も多いが、ジャージ姿やサンダル履きの地元の人たちでも賑わっていた。気紛れに京極通に抜けようとした男は鍋やポリバケツなどを店頭に積み上げた昔ながらの金物屋をみつけた。
「ちょっと待ってて」
そう言い残して一人で店に入った。男が店から出て来ると「なに買ったの?」と女は手提げのポリ袋の中をのぞき込んだ。中には太めのロープの束があった。女が眉をひそめた。男は首を絞めるジェスチャーをした。女は険しい顔で無言のまま男を見つめた。
「ちょっと飲んでいこうか」
四条河原町の交差点で男は言った。祇園の方に行けばバーやスナックはいくらでもあるが、静かに飲む気分ではなかった。全国チェーンの巨大な居酒屋を見つけ、二階座敷の隅の席に座った。日曜なのでサラリーマンの姿は少なかったが、学生や地元の人たちが大声で話しながら楽しそうに飲んでいた。男は運ばれてきた中ジョッキを一気にあおった。女も珍しくすぐに半分ほどを空にした。
「ねえ健ちゃん、このままどっか行っちゃおうよ」
「どっかってどこ」
新しいビールを口に運びながら男が聞いた。
「わたしたちのこと、誰も知らない場所ってないかな。二人ならパートとかアルバイトしてでもなんとか暮らせるじゃない」
男は頭を巡らせた。今まで出張で行ったことのある様々な町を思い浮かべた。しかし田舎は人の動きが少なく、都会にいた方がまだ目立たずにひっそり暮らせるだろうと思った。
男は証券マン時代に仲の良かった同僚が、今は福岡にいることを思い出した。福岡は東京からは遠いが大都会だ。単身赴任なので頼み込めば二三日なら泊めてくれるだろう。誰にもしらせないでくれと言えば、彼ならきっとそうしてくれると思った。
しかし証券マンは乱暴な仕事もするが無法者ではない。その逆に表の法に触れる事件を極端なまでに嫌う。彼に相談をもちかけたとしても、すぐに別の場所を探さなければならないのは目に見えていた。男はかぶりを振った。
「思いつかないな。お前の方はどうなの?」
「そうね・・・」
女は考え込んだ。
「わたしの田舎って、ほんと十軒くらいしか家なくって、健ちゃんと戻ったらすぐ噂になっちゃいそう。あ、でも山の方に使ってない炭焼き小屋とかあるよ。電気も水道もないけど、時々、町に買い出しに行けば暮らせるかもよ」
女は冗談とも本気ともつかない口調で言った。
「それじゃあ物価の安い海外に行ったほうがよくないか。タイとかフィリピンとかさ。パスポートないけど」
男の舌が軽くなった。
「そんなら大阪とか神戸で貨物船にもぐり込んで、密航すればいいじゃん。コンビニでいっぱい買い物して決行しようよ」
女の顔が赤かった。男は笑いながらジョッキを空にした。
タクシーでホテルに戻ったのは十二時近かった。部屋に入ると自然にお互いの身体に手が伸びた。男と女は縺れながらベッドに倒れ込んだ。荒々しく服を脱がせ合い裸になると、男は女に重なった。男の下で女の身体が大きくしなり口から甘い声がほとばしった。激しく短い情交だった。男は小刻みに息をし続ける女の身体から離れ、狭いベッドの上に並んで横たわった。
「健ちゃん、ほんとに自殺しちゃうつもりなの?」
女が男を見ながら言った。男はちらりと女に視線をやったが答えなかった。肩や脇腹に触れる女の身体がアルコールのせいでいつもより温かかった。
「ねえ、ちゃんと答えてよ」
女は起き上がると裸のまま男の身体の上に馬乗りになった。男の胸に両手を置き上からじっと顔を見つめた。男も見つめ返したが言葉は出なかった。
「自殺なんかやめようよ。お金なくなるまで逃げまくろうよ。捕まるまで逃げよ。ね、そうしよ」
女は囁くようにそう繰り返した。
男は女が安心できる言葉をかけてやりたかった。言うとおりにしてやりたかった。しかし口を衝いて出たのは「無理だよ」というぶっきらぼうな返事だった。自殺しないのが無理なのか、逃亡が不可能なのかは男にもよくわからなかった。ただ女の誘いをはねのける言葉だけが口から出た。
女の目が潤み、涙が大きく膨れて雨粒のように男の胸の上にしたたった。男は激しく動揺した。しかし表情は変えなかった。ただ腕を伸ばし女の頬に手を当てて指で涙を拭った。女が発する嗚咽の震えが腰のあたりから男の身体に伝わった。
「健ちゃん、縛って」
泣き続けていた女が唐突に言った。男は虚を衝かれた。
「縛るって、なにを?」
女は男がさっき買った袋を手にすると、逆さにして中身をベッドの上にあけた。ロープの束を手に取り「これでわたしを縛って」と言った。
「俺は・・・女を縛ったことなんて、ないよ。お前は、縛られたこと、あるの?」
女は答えなかった。無言のままベッドに横たわった。男の脳裏に女が長く同棲していた恋人の姿が浮かんだ。顔はなくおぼろな影だった。男の中で嫉妬の火花が飛んだ。男はロープをつかんだ。
雑誌やビデオで縛られている女を見たことはあるが、どうすればいいのか男にはまったくわからなかった。男は女の両の手首を束ねて縛り、乱暴に身体にロープを巻き付けた。
「もっと強く縛っていいよ。わたしが痛いって言ってもやめなくていいから」
女が言った。男は額に汗をにじませながら女を縛る手に力を込めた。
女は呆れるほど無防備に身体を差し出した。女の信頼に応えてやりたかった。きれいに縛ってやりたかった。しかしできなかった。だが為すがままに縛られている女を見ているうちに男は股間に力が戻ってくるのを感じた。奇妙な感覚だった。単なる性の興奮とは違っていた。男は避妊具に手を伸ばした。「付けなくていい」女が言った。「そのままでして」
男は避妊具を投げ出すと女の中に突き入れた。
「もっと縛って。動けないように、逃げ出せないようにして」
女は譫言のように言い続けた。
乳房が奇妙な形に歪み腕や足にロープが食い込んだ。男はかつてないほど高揚していた。今、本当の意味で女を所有しているのだと思った。
気が付くとメチャクチャに縛っただけのロープはゆるみ、それが男の身体にもまとわりついていた。男と女は一本の長いロープに全身を絡みつかれながら激しく身体を重ねた。男は女の背中に両手を回し骨が折れるほど抱きしめた。女も両手で男にしがみつきながら両脚で男の腰をきつく包み込んだ。
「涼子、愛してる」
男は言った。
「わたしも愛してる」
女が答えた。
男は大きな声を上げながら女の奥底に初めて気を放った。
(第07回 了)
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