男がいて女がいて、二人はふとしたきっかけで知り合った。運命的な出会いではなかった。純愛でもなかった。どこにでもいる中年男女のママゴトのような愛だった。しかし男は女のために横領という罪を犯し、社会から追いつめられてゆく。では女は男からなにを得てなにを失ったのか、なにを奪いなにを与えたのか・・・。詩人、批評家でもあるマルチジャンル作家による、奪い奪われる男と女の愛を巡る物語。
by 文学金魚編集部
数時間だが男は深い眠りに落ちた。目を覚ますと女は枕をクッションにし、ベッドの背にもたれかかって少しだけ開いたカーテンの隙間から外を見ていた。
「起きたの? じゃあコーヒーいれるね」
女は立ち上がりガウンを羽織った。男も起きると重い身体を窓際のソファに沈めた。カーテンを全開にして外を見た。短時間だが熟睡できたので、頭がスッキリしていた。
雲一つない青空が広がっていた。遠くの方にキラキラと光る伊勢湾が見えた。男の故郷の荒れた灰色の海とは違い、おだやかに凪いでいてどこまでも青かった。昨日は山側の松阪城趾にしか行かなかったが、海にも足を伸ばしておけばよかったと男は思った。
女が電気ポットでお湯を沸かし、コーヒーを用意している間に、男はドアの下に差し込まれたサービスの新聞を取りに行った。三大全国紙の一つだった。このところの習慣で真っ先に株式欄で市況をチェックしたが、すぐにもう必要ないと思い、一面の記事を読んだ。政治面から経済面を眺めていた男の手が止まった。「○○会社東京芝支店の社員 横領発覚後に行方不明」という記事が目に飛び込んできた。男の全身から大量の汗が噴き出した。
・・・同社社員で渉外・財務担当の田嶋健介が先週木曜日から行方不明・・・同社では不祥事が相次いでいるが・・・当該社員の身柄の安全確保を目的として異例の記者発表に・・・広報によると横領額は四千万円近くで・・・同社員を業務上横領で起訴するかどうかは現在検討中・・・社長・瀬川豊氏は緊急会見で・・・心から陳謝するとともに失われた当社のコンプライアンスを取り戻すべく・・・いっそうのコーポレートガバナンスの徹底に・・・。
必死に文字を追っているのだが、視線が揺れて定まらなかった。小さな記事だが男の写真もしっかりと印刷されていた。背広姿の、入社したての三十代の頃の写真だった。男は新聞を凝視したまま口で荒く息を吐いた。
「どうかしたの?」
額から汗をしたたらせ、新聞の一点を見つめたまま動かない男に女が尋ねた。男は新聞を折りたたむと黙って差し出した。女は立ったまま新聞を読んだ。読み終えるとパッと顔を上げ、「どうしよう!」と叫んだ。
新聞が床に落ちガサッと音を立てた。男はビクンと身体を震わせた。ソファから跳ね起き、キャリーバックの中から携帯を取り出した。品川を発つ前に切っておいた電源を入れた。一刻も早く会社に連絡しなければならないと思った。
携帯のディスプレイが光を取り戻すのと同時に恐ろしい勢いで不在着信のメッセージが画面をスクロールした。メールの着信音がひっきりなしに鳴った。悪魔かなにかが携帯に棲みついて男を脅しているようだった。いきなり携帯の着信音が鳴った。心臓が止まりそうだった。男は通話ボタンを押した。
「もしもし田嶋君か? 田島君! もしもし? 今どこにいるんだ? 田嶋君、田嶋君!・・・」
返事をしようとしたが声が出なかった。震える指でメチャクチャにボタンを押した。しかし受話器から響く大声は止まらなかった「田島君! 田島君!」。男は立ち上がり膝を突き出して携帯を真っ二つにへし折った。
「健ちゃん!」
女が男に飛びついてきた。。男は壊れた携帯を放り出すとベッドに倒れ込んだ。
「どうするの? どうするの? こんなんで、ちゃんと東京に帰れるの?」
女が泣いていた。男は女の首に手を回し抱き寄せた。息をするのが苦しかった。
新聞や会社からの電話で、ここまで動揺するとは自分でも思っていなかった。男は目をきつく閉じた。瞼の裏を、言葉にもイメージにもならない様々な色が、グルグルと渦を巻いて流れた。
「少し、このままにしておいてくれないか」
男は言葉を絞り出した。部屋の中に女のすすり泣きの声が響いた。
「あれは、誰だったんだろう」
男はふと思った。
携帯の着信表示は見なかったが、会社か、もしかすると警察の人間かもしれなかった。今となっては確かめようがない。
「誰かがずっと、俺の電話に電話やメールしていたのか」
そう思うと執拗さに鳥肌が立った。大きな社会が自分を追い詰め始めたことを、首に刃物を押しつけられて、初めてまざまざと実感したようなものだった。
「俺は決して逃げたんじゃない。考える時間が欲しかっただけで、今日、東京に戻るつもりだったんだ」
そう思ったが、そんな言い訳は社会正義を振りかざす人たちの前では、世迷い言に過ぎないことくらい男もわかっていた。
実際男は電話の声にすら答えられなかった。恐ろしかった。まるで男が世界の悪の根源であるかのように、必死に追ってくる人たちが怖かった。今さら自分から会社に連絡するふんぎりはつかないだろう。俺は横領犯で逃亡者になったと男は思った。
「でもなぜ女房じゃなかったんだろう」
男の思考は粘着質にさっきの電話にへばりついた。新聞で報道された以上、家にも、義兄にも会社から連絡が行っているはずだ。彼らは怒り嘆き悲しんでいるだろう。自分を恨んでいるだろう。いや、違う、違う・・・。
妻の姿が脳裏に浮かんだ。ただ男をののしるためだけに食卓に座り、帰りをじっと待っていると思った。一度も電話を手に取ることなく、会社か警察から男の身柄が確保されたという連絡が来るのを待っているだろう。
妻が顔を赤らめ、眉間深く皺を刻んで男を罵倒する言葉をとめどもなく発した。
「あんたなんか、死んでしまえ!」
そう口が動いた。肌を切り裂くような、鋭く甲高い声なんだろうなと男は思った。かつて愛し合い、子供までもうけた女の優しさは微塵もなかった。それは当然のことで、気が済むまで男を問い詰め罵倒するのは彼女の権利だった。
男は耐えなければならなかった。言い訳は許されなかった。
「すまない。迷惑をかけた」
そう言ってうなだれる自分の姿が浮かんだ。雨あられと降りそそぐ妻の言葉が、男の全身に突き刺さった。それは男の過去・現在・未来の全人格・全生活を否定した。ひとかけらの人間性も持っていない屑だと指弾し続けた。今思いついた言葉だとは思えなかった。ずっと前から用意してあった言葉だった。どこからも、ほんの少しでも男をかばってくれる人は現れなかった。痛かった。傷口から血が流れ出し激しく痛んだ。だがそれは、男の心の奥底にまでは達しなかった。
言い訳はできないはずなのに「しかし」という言葉が男の喉元までにじみ出た。「しかし、しかし・・・」。
男は必死に言葉を飲み込んだ。「しかし」。それ以上は他人に、社会に発すべき言葉ではなかった。
「俺はなんのために、ここまで来たんだろうか」
男は考え続けた。
社会的制裁は恐ろしかった。ただ俺は愛する女のために金を使ったんだ。それが罪であるにせよ、男の中に後悔はほとんどなかった。むしろ女を失ってしまうことの方が痛手だった。社会の制裁は二人を引き裂くだろう。罪を犯した事実は二人にずっとついて回るだろう。男はかたわらの女の身体を抱きしめた。
「死にたい。このまま死んでしまいたい」
女が大きな目で男を見た。
「ダメだよ、そんなこと言っちゃ」
震える声で囁いた。新聞報道には四千万とあったが、男が使い込んだのは確かに二千万円だった。会社が表沙汰にしたくない杜撰な経費の額を差し引けば、千八百万ほどまで減る可能性もあった。その程度の金で自死を選ぶなど馬鹿げていると男は思った。しかし死を口にした途端、男の中でむくむくと湧き上がるものがあった。男はベッドの上に身体を起こした。
「お前は一人で東京に帰ってくれ。辛い目にあうだろうけど、お前が逮捕されたりすることはないから」
「無理だよ。わたし一人じゃ耐えられないよ。夫やあなたの会社の人に、どう説明すればいいの? 健ちゃんがいっしょじゃなきゃ、絶対耐えられないよ」
女が叫んだ。
「だいじょうぶだ。なんなら今すぐにでも、お前は使い込みに一切関係ないっていう内容のメモを書いてやる。それを会社や警察の人に見せればいい」
「そんな・・・。健ちゃんはどうするの?」
「俺は・・・一人で死ぬ」
男は自分の言葉に力を込めた。女はワッと泣き崩れた。男は意外なほど冷静になっている自分を感じた。全神経を集中させて肩を震わせ泣き続ける女を観察した。じっと女を見た。
「健ちゃん、とりあえずここ、出ようよ」
しばらくして女が言った。
「携帯って、調べれば居場所わかるんでしょ? このままじっとしてて、警察につかまって、健ちゃんと話せなくなるの、イヤ」
「ああ、そうだな」
そう答えて男は立ち上がった。手早く着替えをすませ、少ない荷物をキャリーバックに詰め込むと部屋を出た。
女が言ったとおり、調べようと思えば松阪にいることはすぐにわかるはずだった。品川で金を下ろしたこともそうだ。昨日、わざとかつての職場近くを歩き回ったことがいまさらのように悔やまれた。急に人の視線が気になり始めた。
男はチェックアウトの際に、フロントの人間の様子を注意深く観察した。しかし特に表情を変えることなく「またのお越しをお待ちしております」と言っただけだった。
外に出ると昨日とはうってかわった、六月の眩しい太陽の光りが男と女を容赦なくあぶり出した。男は駅までの短い道のりを歩きながら、とりあえず女を東京行きの新幹線に乗せてから、自分は遠くに行き一人で野垂れ死にするんだと夢のように考えた。女は力なく男の腕をつかんだままうなだれて歩いた。
(第06回 了)
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