女優、そして劇団主宰でもある大畑ゆかり。劇団四季の研究生からスタートした彼女の青春は、とても濃密で尚且つスピーディー。浅利慶太、越路吹雪、夏目雅子らとの交流が人生に輪郭と彩りを与えていく。
やがて舞台からテレビへと活躍の場を移す彼女の七転び、否、八起きを辻原登奨励小説賞受賞作家・寅間心閑が Write Up。今を喘ぐ若者は勿論、昭和→ 平成→ 令和 を生き抜く「元」若者にも捧げる青春譚。
by 文学金魚編集部
日本が誇る「シャンソンの女王」越路吹雪は、自分の両親、そして兄をガンで亡くしていることから、毎年のガン検診を欠かさなかった。ただ亡くなる前年、おチビちゃんと一緒の舞台に立った『ドラマチックリサイタル 愛の讃歌 エディット・ピアフの生涯』があった昭和五十四年はとても忙しく、受けるはずの検診を先延ばしにしていたという。そしてガンに対して万全の注意を払いつつも、大好きだった煙草と酒をやめることはなかった。おチビちゃんも、大町の山荘で煙草を喫いながら麻雀に興じる彼女の姿をよく覚えている。
彼女の死因は胃ガン、それも末期だったというが、その事実が彼女に告げられることはなかった。ただ公私ともにパートナーだった内藤法美さんは、本人はもしかしたら気付いていたのではないかと後年語っている。その点に関しては、作詞家であり彼女のマネージャー、そして何より生涯の親友であった岩谷時子さんも同じ考えで、その根拠についても「彼女の勘の良さ」と二人の見解は一致している。
遂に昭和五十五年が来た。
五十六歳になった彼女は『越路吹雪‘80スペシャルリサイタル』を行う。この舞台は劇団四季提携公演(第一部を共演)であり、同時に生涯最後のリサイタルとなってしまう。もちろん、そんなことは誰ひとり知る由もない……はずだ。ただ、リサイタルの後に越路吹雪が下した決断は、もしかしたら「彼女の勘の良さ」がどこかで働いていたのではないかと勘繰ってしまうほど、想定外のものだった。
次は劇団四季ではなく、劇団民藝の舞台に立つ――。
そんな彼女の決断に最も心を痛めたのが、浅利先生であることは予想に難くない。そしておチビちゃんは、その決定的な瞬間を目撃してしまうことになる。
『越路吹雪‘80スペシャルリサイタル』の稽古の為、大町の山荘に滞在している時のことだ。越路さんと浅利先生が並んで立っていた。あれはお稽古の後だったと思う。おチビちゃんは何気なく二人の背中を見た。違和感がある。いつも交わされているような、舞台をより良いものにする為の会話と違うことはすぐに理解できた。思わず足が止まる。距離があるので何を話しているかまでは聞き取れない。ただ、越路さんが話していて、浅利先生が聞き役に徹していることは分かった。盗み聞きみたいでいけないとは思いながら、その場をなかなか動けなかった。
「うん、うん」
「ああ、まあ……、そうか」
「うーん、ああ、うん……」
何度か聞こえた浅利先生の相槌には力がないし、越路さんもきっと意識して声を潜めているのだろう、ただざわざわとした空気が伝わってくるだけだ。おチビちゃんはいつしか顔を背け、二人の姿を視界に入れないようにしていた。
それから数分。気付けば先生が一人で背中を向けて立っていた。声をかけられる雰囲気では到底ない。いや、それ以前に越路さんはどこに行ったんだろう? そう考えているうち、浅利先生が振り返りこっちへ向かって歩いてきた。動揺をひた隠しながら、自然な感じで軽く頭を下げる。笑顔はわざとらしくなりそうなので作らなかった。でも先生は無反応だ。ただすれ違いざま、おチビちゃんに言うとでもなく呟いた。
「今度ので最後になっちゃうな……」
劇団民藝は昭和二十二年、俳優・宇野重吉らによって設立された。今や寺尾聰の父、と言った方が分かりやすいかもしれない彼は、当時六十六歳。数年前から演出したいと考えている芝居があった。
ロシアの劇作家、アレクセイ・アルブーゾフによる「ターリン行きの船」……サナトリウム院長と保養に来た独身の女、還暦を過ぎた男女の淡いラブストーリー、そして二人芝居だ。この前年には、尾上松緑と杉村春子、つまり「歌舞伎と新劇の顔合わせ」という話題性抜群のキャストで公演を行っている。
ただ、なかなか女性役にうってつけの女優が浮かばなかった為、企画自体が延期となっていた。そんな折、ふと思いついたのが越路吹雪――。
もうひとつ伝えられている話がある。リサイタルもミュージカルも出来る越路吹雪に本格的な芝居を、と内藤さんと岩谷さんが浅利先生にリクエストした、というもの。結果、この話はうまく進まず、民藝の重鎮である宇野重吉が引き受けたという。
話の真相はどうあれ、おチビちゃんは確かに浅利先生の「今度ので最後になっちゃうな……」という呟きを聞き、寂しそうな表情を見た。そしてその言葉どおり、三月四日から二十八日まで、日生劇場で行なわれた『越路吹雪‘80スペシャルリサイタル』が、越路さんと浅利先生の最後の仕事になってしまう。
四月に入るとすぐ、民藝での稽古が始まった。芝居の相手は民藝の看板俳優・米倉斉加年。越路さんにとっては二人芝居も、南青山にある民藝の稽古場も初めての経験となる。
この時、マネージャーである岩谷さんは、意識して稽古には立ち会わないようにしていたという。もちろん指導する立場の宇野さんや、される立場の越路さんへの配慮だった。慣れない環境の中、稽古の時間は一日六時間以上。台本は赤鉛筆の書き込みで埋め尽くされていく。岩谷さんに対し「泣きたくなることもあるよ。いてほしいこともある」と漏らしたというエピソードからも、いかにハードな稽古だったかが窺い知れる。もしかすると宇野さんは、劇団四季で培ってきた彼女のスタイルを、白紙に戻したかったのかもしれない。
例えば「母音法」という劇団四季が取り入れている発声方法がある。母音(=ア・イ・ウ・エ・オ)で成り立つ日本語を、美しく響かせる為のものだ。「おはようございます」は「オアオーオアイアウ」となり、「はじめまして」は「アイエアイエ」、「いらっしゃいませ」は「イアッアイアエ」となる。それに腹筋と背筋を使った「呼吸法」、文章の区切れを意識した「フレージング法」が加わった三つを「四季メソッド」と呼ぶ。もちろんおチビちゃんたちは研究生の頃からしっかりと学んでいるし、越路さんは早い時期からそれに忠実だった。
昭和四十一年から続いてきた「越路吹雪リサイタル」は、十四年間に渡ってチケットが取りづらい人気の舞台であり、興行的にも成功を収め続けてきた。それを支えてきたのが、浅利先生率いる劇団四季とのチームワークであることは間違いない。それに較べ、越路さんが踏み出した新しい道はあまりにも孤独だったのではないだろうか。
約二ヶ月弱の稽古を経て行われた本番は、タイトルを『古風なコメディ』として行なわれた。当初は五月二十七日から六月二十二日の予定だったが、都内で大好評を博した為に追加公演が決まり、六月二十六日までとなる。スタッフのクレジットには内藤さんと岩谷さんの名前が記されてはいたが、その環境の違いは想像するまでもない。
もちろん宇野さんの厳しさは、舞台の成功に向けられた純粋なものだ。彼自身、稽古中に越路さんがよく泣いていたことを打ち明けているし、彼女の人柄がとても可愛いと周囲の人間に繰り返し話していたという。
実際に『古風なコメディ』を観たおチビちゃんが感じたのは、「やっぱり越路さんって、凄い女優さんなんだなあ」ということ。それまでは「有名な歌手の人」という印象が一番強かったが、目の前で繰り広げられている芝居にはそれを覆すほどの力があった。確かに今まで四季の舞台で見てきた越路さんとは明らかに違っている。それは間違いなかった。でも「四季メソッド」云々という話ともまた違う。そこには四季も民藝も母音法も何もなく、いつもどおりの自然な越路さんがいたのだ。母音をはっきりさせることが、必ずしも台詞をはっきり伝えることとイコールではない――。そんな想いも実はあった。もしかしたらそれは、自分が母音法の習得にあまり苦労をしなかったかもしれないけれど……。
浅利先生もまた、ひっそりと『古風なコメディ』を西武劇場(現PARCO劇場)で観ていた。自身以外の演出による越路さんについては、「実に複雑な心境だった」と書き残している。楽屋を訪ねても何も言えなかった、という記述もあり、その心中は察するに余りある。
だからこそおチビちゃんは、『古風なコメディ』についての素直な感想を浅利先生に伝えることが出来なかった。実際は越路さんの方が九歳も年上だけれど、まるで娘が嫁いでしまった父親のような感じだったからだ。ただそれでも、訊かれたからには答えなければならない。
「ああ、どうだった?」
「はい?」
「ほら、コーちゃんの、観に行ったんだろ?」
「え、ああ、はい、行きました」
「うん。で、どうだった?」
すごく良かったんですよ、とはさすがに言えない。娘を嫁がせたばかりの父親は、相当デリケートなはずだ。うーん、と考えていると先生が不安そうな顔でこちらを見つめている。これは早く答えないとマズイな……。
「あの、具合、あまり良くないみたいで……」
「え? 具合?」
そうなんですよ、と答えながら密かに安堵した。これで先生に嘘をつかずに済んだ。舞台を観に行った日、おチビちゃんは越路さんの楽屋を訪ねていたのだ。
先客は木の実ナナさん。ふたりは七年前、越路さんが主演を務めた劇団四季の舞台『アプローズ』で共演をしていて、それ以来とても親しい仲だという。おチビちゃんはあまり待つこともなく、木の実さんと入れ替わりで楽屋に入った。越路さんは、鏡の前で座っている。
「あら、よく来てくれたわねえ」
まるでお嫁になんて行っていないような、今までと変わらない優しい笑顔で迎えてくれた。花束代わりの可愛らしい鉢植えを渡し、越路さんの隣に座らせてもらう。二人並んで鏡を見ている状態になった。
「いかがですか?」
おチビちゃんとしては何の気なしの言葉だった。何に対して、ということもない。友達同士なら「よお」と軽く手を挙げる感じ。でも越路さんの返答は少し違った。
「ちょっとね、胃が面白くないのよ……」
そう言われると、鏡の中の越路さんは元気がない感じにも見える。でも、さすがに「具合悪いんですか?」とその話に乗ることはできない。ええ、と軽く受けてから「どうですか? 舞台は?」と話を進めることにした。
多分「楽しいわよ」とか「大変よ」とか、何か答えてくれたとは思う。でもそれがどんな言葉だったかは思い出せない。それほど「胃が面白くないのよ」という言葉は印象に強く残っていた。もちろん、悪い意味で。
実はこの頃、越路さんの身体はずいぶん悪い状態だった。東京公演が始まった六月五日以降、二時間三十五分の芝居が終わって楽屋へ帰ってくると、決まってぐったりとしていた。神経質な彼女はリサイタルの初日に必ず胃が痛くなったが、今回のものはそれとは違うという自覚があったらしく、「胃がボコボコする」と周囲に漏らすこともあった。
実はこの時、二年前に胃ガンが見つかり、胃の半分を摘出していた宇野さんは、自分の具合が悪い時と似ているところが多いので、とても心配して彼女に漢方の薬を勧めていたという。
何とか追加公演まで乗り切った越路さんは、六月二十六日の千秋楽の翌日に目黒の東京共済病院へ行き、レントゲン検査を受けた。その一週間後、夫である内藤さんは主治医の先生から「相当進んだ胃ガン」であることを告げられている。そして数日後の七月八日、彼女は胃の五分の四を切除する大きな手術を受けた。この時点で正式な病名を知っているのは、親族である内藤さんと越路さんの弟の二人だけ。岩谷さんには知らされていなかった。
八月の初めには一度退院をしているが、九月の末には再び病状が悪化してしまい、秘密裏に入院をしている。退院をした後は、大町の山荘へ行って静養。ただ腹部にガスが溜まってしまった為、急遽帰京して十月三十日に三度目となる手術を行った。そして、その一週間後の十一月七日の午後三時二分に永眠。
その日の夕方、彼女の亡骸が帰って来た渋谷区のマンションの前には、報道関係者が大勢待ち構えていた。テレビのニュース速報でも訃報が伝えられた為、ファンの人たちも詰めかけており、現場は騒然とした雰囲気に包まれていた。享年五十六歳。あまりにも早すぎる死だった。
突然の訃報に驚いたおチビちゃんが、改めて越路さんの死と向き合うことが出来たのは、十二月十一日に青山葬儀所にて行われた告別式の時だった。
大勢の参列客を見ても何となく現実味がないのは、突然だったからという理由だけではない。実はこの時、おチビちゃんの周りでは悲しい報せが続いていたのだ。
(第14回 了)
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