世の中には男と女がいて、愛のあるセックスと愛のないセックスを繰り返していて、セックスは秘め事で、でも俺とあんたはそんな日常に飽き飽きしながら毎日をやり過ごしているんだから、本当にあばかれるべきなのは恥ずかしいセックスではなくて俺、それともあんたの秘密、それとも俺とあんたの何も隠すことのない関係の残酷なのか・・・。辻原登奨励小説賞受賞作家寅間心閑の連載小説第四弾!。
by 寅間心閑
三十二、修学旅行
「一緒にお仕事されているから分かってもらえると思うんですけど、姫ってすごく純粋じゃないですか。ふとした瞬間の表情、っていうか目? 子どもみたいに綺麗で、もう憧れるのもおこがましいくらいで……」
俺は適当に返事をしながら、イチョウ色の爪を盗み見ている。純粋で綺麗な目だから姫は危なっかしい、その時の気持ちに素直になりすぎてしまう。そんな話を聞きつつ、ガムシロたっぷりのアイスコーヒーをストローで吸い上げた。
確かにトウコさんの言うとおり、安藤さんは危なっかしいかもしれない。バイト先の男二人と経験済み――勝率十割、腕利きのガンマン、いや、プロの殺し屋だ。撃たれた側としての言い分なら俺にもある。純粋かどうかは知らないし興味もないが、彼女はとてもいやらしい。
「もし、途切れることなくずっと連絡を取っていたら、何か私に出来たこともあったんでしょうけど……。まあ、今更仕方ないですよね」
寂しげな微笑みに対して曖昧に頷いてみせたが、本当は納得なんかしていない。タラレバ話は虚しい。誰が邪魔しようと、結局俺と安藤さんは道玄坂のホテルでああなったんだ。微かな苛立ちに任せてアイスコーヒーを飲み干す。ストローではなく、コップを持ち上げ口に直接流し込んだ。
無言で席を立ったのはコーヒーをお代わりする為、というよりもう一度店に電話をしたかったから。早く安藤さんと連絡を取らなきゃ、とどこか俺は焦っている。突然現れたイチョウ色の爪のトウコさんは、彼女を変えてしまうかもしれない。ヒトの中身なんてすぐ変わる。外見はなかなか難しい。変わりたいなら、死ぬ気になって痩せたり、大枚叩いて整形しなければいけない。根性や金や時間がある程度必要だ。
ふと背後を人が通り過ぎる。あの頭の薄い中年サラリーマンが店を出ようとしていた。あんたも変わりたいなら植毛かカツラを買わなくちゃな。そう思った瞬間、振り返った彼と目が合った。危うく会釈しそうになる。俺はきっと、彼の世界にいてもいなくてもいいはずだ。
またアイスコーヒーとガムシロを持って席に戻ろうとすると、トウコさんの笑い声が聞こえてきた。「ええ、本当よ。本当にそうなんだってば。ちょっと信じてよお」。立ち止まりそっと様子を窺う。独り言だとしたら、あの人いよいよヤバいかも。そんな予想は有難いことにハズレ。俺の座っていた場所には安藤さんがいた。服を着た彼女を見るのは、今日これが初めてだ。トウコさんと目が合った。急いで驚いた表情を作った俺に彼女は笑いかける。
「驚かせちゃったらごめんなさい。実はさっき、こっそり姫に連絡してたんです」
先輩、と安藤さんは隣に座っている俺のことを呼んだ。何度聞いても慣れない。「先輩、こちらアユカワトウコさん。学生の時に超お世話になった先輩なんです。ねえー本当にー、懐かしいー。懐かしすぎるー」とか、「もう違いますよ先輩、私がレジを任されるようになったのは、店長が一週間くらい休みを取ったからです」とか、「でもね、トウコさん、こう見えて先輩って、超ドタキャン多いんですよ」とか。
店を訪ねてきた先輩と一緒にいる、ということからきっと安藤さんは予想している。自分が店長としているところを、俺に見られたかも――。腹をくくっているのか、元々たいしたことではないのか、それとも本当に鈍いのか、安藤さんに動揺した様子は見受けられない。
テーブルを挟んで俺たちは三角形を描いている。正三角形か二等辺三角形。先輩、と呼ばれる度に変な感じが積み重なっていく。コスプレ的な意味ではなく、分かった上でそう呼んでみせる共犯者の振る舞いに見えるから内側が騒ぐ。そして、もしかしたらトウコさんには何も言っていないかもと思い直す。本当は今、俺に見られたことを悔やんでいるのかも、と都合のいい想像をしてみる。真横にいる人の顔は見づらい。ああ、あの夜みたいにペタリと肌をくっつけちまいたい。足と足なら目の前のトウコさんにもバレないような気がする。
「さっき駅の前に学生さんのグループいたけど、あれ、修学旅行かなあ?」
「ええ? ここら辺にわざわざ見るようなもの、何もないですよねえ、先輩?」
そうだよね、という俺の答えを待たずに「だって最近の修学旅行って、お笑いのライブとか観に行っちゃうらしいんですよ」と話は進んだ。
「最近って、姫、同世代じゃない」
「へへ、それはそうですけど」
久々に会ったはずなのに近況報告もなく、こんな他愛のない話をしているのは変な感じだ。まあ、だからこそ俺が混ざっていても平気なのかもしれない。
「トウコさんも修学旅行、私と同じ京都ですよね?」
「何よお、年寄り扱いして。五年違おうと十年違おうと、うちの修学旅行は京都って決まってるの」
「そうだ、思い出した。トウコさん、お土産買ってきてくれましたよね」
「え、あれはさ、みんなで後輩たちにって買ったんじゃなかったっけ?」
「そうだったの? ヒドイ、てっきり私の為だけにと思って喜んだのに」
ふざけ合ってケラケラ笑っている裏には、細かな駆け引きがあるのだろうか。さっきもバックヤードで店長を受け入れながら、トウコさんの名前を叫んでいた。それともコレはコレ、アレはアレ、と整頓されているのだろうか。
「お待たせしました」
ジュージューと美味しそうな音、そしてお馴染みの匂いをさせながらハンバーグが運ばれてきた。あー最高、と大袈裟に喜ぶ安藤さんを見ながら、結局彼女が働いていないことに気付く。バイトに行って、店も開けずに店長と一発やって、そのまま外に出てきて熱々のハンバーグを頬張る短大生。やっぱりこの人はプロの殺し屋かもしれない。そう思いながら時間を確認した。まだシフトには余裕があるが、そろそろ出よう。いくら俺だって、久々の再会にずっと居座るほど野暮じゃない。
「あのさ、修学旅行の話ね、京都はコースとかも全部同じなのかな?」
「え、姫の時って班別で行動しなかった?」
「うーん、忘れた」
「一昨年の話なのに?」
「うん、覚えてない。ただ、コースは私が考えたような気もするから、やっぱり班別だったのかも」
「どんなコース?」
「東本願寺と西本願寺に行って、水族館に寄ってからトウジ、で、最後は京都タワー。ねえ、いいでしょ?」
トウジ、という単語が引っかかる。たしかこの間、冴子が行ったお寺だ。あいつも高校の修学旅行以来だと言っていた。そんなに有名なところなのか。安藤さんに話そうかなと思ったがやめた。トウコさんがいるから、ではない。自白剤の効能を信じている訳ではないが、俺はぐちょぐちょの時以外、安藤さんに色々な話をしないだろう。
「じゃあ、そろそろ行って来ようかな」
そう言って立ち上がった俺に、安藤さんは「はーい」と微笑んだ。ほんの少しだけいつもとは違う感じ。先輩、と呼ぶカワイイ後輩の「役」を乗せている気がする。悪い気はしない。少なくとも今、俺は彼女の世界に必要――、いや、いてもいいはずだ。この時間だとまだ遅番のシフトには早いことだけでなく、俺が店内に入るのは今日二度目だということも知っているはずの安藤さんは、「店長にもよろしく言っておいて下さいねえ」と言って左手をひらひらと振り続けた。
そのひらひらを思い出しながら、三軒茶屋の駅の近くを目的もなく歩いている。今から店に行っても構わないが、きっとひとりで働いているはずの店長に、早く来た理由をあれこれ想像されるのも気分が悪い。
確かにトウコさんが言っていたとおり、駅の近くを歩く五、六人の男女混合高校生グループを何度か見かけた。パッと見、修学旅行かどうかは分からない。そういえば、うちの高校の修学旅行は私服だった。高二の夏で場所は長崎。福岡にも泊まったような気がするが覚えていない。覚えているのは女のことだけだ。
男子校だったから、というか、不真面目なヤツが多かったので、隙を見つけては女に声をかけているグループが結構あった。ただのナンパだ。地元の女かと思って声をかけたら、同じく修学旅行で来ていた東京の女、という話もあった。俺は昼間に課題を持って街を歩くような時間に声をかけた。俺は、といっても一人ではない。ハットリというお調子者が誘ってくれた。
平和の銅像がある公園の近くだったと思う。ハンバーガーおごるから街を案内して、とか適当なことを言ったはずだ。二人組の女だった。顔も名前も忘れてしまったが、歯科衛生士の専門学校に通っていたことは覚えている。年上のオネエサンだ。
適当な店へ入って話をした後、俺たちは夕飯を食べに宿泊先のホテルへ一度戻り、夜の自由時間の時に待ち合わせをしてカラオケボックスに行った。もちろん時間はあまりない。どんな流れだったかは忘れたが、四人一緒の部屋ではなく、二人で一部屋という形にした。時間は多分一時間くらい。サワーを何杯か飲んで勢いをつけたが、結局手をつないで歌うくらいがギリギリ。冗談めかして「口でしてよ」と頼んだがダメだった。当然断られたことはハットリにも言わなかった。
たしか次の日もまた四人で会ったような気がするが、それは別の女だったかもしれない。とにかく修学旅行の思い出は女のことしかない。
アイスコーヒーを飲み過ぎたせいでトイレが近い。二回もコンビニでトイレを借りた。二軒目の店員さんはとても可愛くて、トイレをお借りしたいんですけど、と言うのが恥ずかしかった。そして修学旅行のことを思い出したせいで、心細さや不安と似た、でもそれとはどこか違う感情が生まれてしまった。こういう感情は厄介だ。名前がないからすぐに忘れてしまう。「懐かしいなあ」より「年取ったなあ」を強く感じ、でもそれは「あの頃は良かったなあ」と一切無関係。もしかしたら、トウコさんといる時に「自分の世界で生きていないなあ」と感じたことが良くなかったのかもしれない。安太ならこういう時、名前のない感情の正式名称を教えてくれるのになあ。
ふと思う。今、安太の世界に俺は必要だろうか――。暗い気持ちになったのは、嫌な答えを想像したからだ。
「いらっしゃいませ」
店長は入口に背を向けてマネキンに服を着せていた。さっきは真っ裸で俺に尻を向けていたんだよな、と思いながら「おはようございます」と声をかける。
「あ、おはようございます」
安藤さんは? と訊いてやろうかと思ったがやめておいた。直近で彼女に挿し込んでいたのは店長の方だ。そんなこと、言うだけ虚しくなる。
「もう少ししたら上がりますんで、ヨロシクです」
少し前のやつれた様子とは別人の明るさだ。言葉が弾んでいる。この調子だと歌い出すかもしれない。タイムカードを押してから、そっとバックヤードを覗く。小さな音でラジオのニュースが流れていた。
「あ、そうだ」
「はい」突然声をかけないでほしい。「何でしょう?」
「そのタイムカードなんですけど」
「これ……?」
「そろそろ変えようと思ってて。今、そういうのも管理できるアプリがあるみたいなんで」
「ああ」
「なんで、決まったらまた知らせますね」
声だけじゃない。顔もさっぱりしてやがる。次はいつ、自白剤を飲めるんだろうと考えている自分が情けない。出来るだけ早い方がいい。なんなら今夜でもいいぞ。中華街でもどこでも連れて行ってやる。テキパキと店内を動き回る店長。それを見る俺の顔はさぞ物欲しげだろう。気付かれないよう、一度軽く頬を叩いた。
入ってきた女性の一人客に、明るく「いらっしゃいませ」と声をかける店長を見ているとよく分かる。まだ彼はぐちょぐちょの余韻の中だ。ぐちょぐちょしている時は、間違いなく自分の世界にいるんだと確信できる。彼も数時間前、そのバックヤードで確信していただろう。外の世界で戦争が開始しても、暴動の真っ最中でも、俺から覗かれていても揺るがない。肌で感じることが全て、とシンプルになれる。
そんなことばかり考えていると、内側から不健康になりそうなので軽く頭を振って気持ちを切り替えた。今入ってきたばかりの女性が、早々にTシャツを二枚選んで「お願いします」とカウンターの前に立つ。
「はい、かしこまりました」
たまにこういう人がいる。予め決めていたのかと思う程、買い物が早いお客様。薬局だってもう少しは悩むだろう、と思いながら商品を袋に入れ、お釣りを渡す。
「当店、衣類の買取りも行なっておりますので、宜しくお願い致します」
はーい、と言いながら店を出て行く後ろ姿に、店長も「ありがとうございましたー」と声を張る。よく見れば、床にはモップをかけた跡。何ヶ月振りだろう。おいおいそんなに嬉しかったのかよ、とからかいたい気持ちをぐっと抑えた。
「じゃあ、そろそろ私は……」
俺の返事も聞かずに店長はバックヤードへ引っ込んだ。まさかこれから安藤さんと会うんじゃないんだろうなあ、と邪推している自分が哀しい。安心しろ、彼女は今、トウコさんと一緒にいるんじゃないか……。
ただ、そのトウコさんも安藤さんを欲しているから話はややこしい。修学旅行で女をナンパしていたあの時期は、もっと世界が単純だった気がする。いや、自分が物を知らないので、そう見えていただけかもしれない。結局、俺がどうあろうと世界は変わらないんだから。
店の電話が鳴る。
「はい、もしもし、『フォー・シーズン』です」
「あ、今店長さん、いますか?」女性の声だ。
「はい。おりますが、失礼ですけど……」
「……あ、大丈夫です、はい、失礼します」
電話は切れた。ストレートに考えれば、店長の奥さんだろう。安藤さんは「すごく胸が大きい」と言っていた。本当に店にいるのかどうかを確かめたのだろうか。それとも、まったく別の意図があったのか。
「あ、お疲れ様です。あと、宜しくお願いしますね」
どうやら電話の音はバックヤードに届いていなかったらしい。一瞬迷ったが「了解です」と頭を下げた。あれが奥さんだったとしても、名乗らなかったなら伝える必要はない。
「じゃあ、さっきのタイムカードの件もヨロシクです」
はい、と頭を下げた後、「あの、店長、すいません」と口が動いてしまった。理由は良く分からない。今の電話のことを伝えるつもりはなかった。さっきからモヤモヤしていたものが、飛び出してしまっただけだ。
「はい」
「あ、あの、修学旅行ってどこ行きました?」
え、と目を見開きはしたが、機嫌のいい男は細かいことなど気にしない。京都でしたね、と答えた後、「お先でーす」と片手を挙げて店を出て行った。
(第32回 了)
縦書きでもお読みいただけます。左のボタンをクリックしてファイルを表示させてください。
* 『助平ども』は毎月07日に更新されます。
■ 金魚屋の本 ■