ごく普通の女たちが再会したとき、何かが起きる。同窓会のノスタルジーが浮彫りにするあやふやな過去の記憶、すり替えられたイメージ。そして今、この信じがたい現実に女たちは毅然と向き合う…。詩人・批評家でもある小原眞紀子の手になる、ちょっぴりハードボイルドな金魚屋ロマンチック・ミステリ・シリーズ第4弾!
by 小原眞紀子
10(後編)
「ひょっとした弾みにさ、そっくりなんだ。フォークを口に入れて、瞼を上げたときとか、物理の問題を考えてるときの唇の加減とか」
だが学科も違い、大学院にも残らなかったボン子が、なぜ瓜崎の微細な表情をそんなに知ってるのか。
瑠璃は、わざわざそれを問い質そうともしなかった。
「ま、DNA鑑定を頼むしかないんじゃないの」
似ているとか、似ていないとか言い合っても仕方がない。理工学部の出身者同士、科学的に決着すればよい。もっとも今日までそうならなかったのは、父親を明らかにするまいという姫子の意向だと聞いている。何らかの取引きが成立していたなら、今さらそんなことが言い出せるのか。
「だからさ。それは姫子があの会社で、ちゃんと働けたらって前提があってじゃない? 死んじゃったんだからさ」
南園大学院修了者の中でも、垂涎の的であるシンクタンクへの就職。その推薦を取り付けたことと、息子の父親を隠していることの間に、何らかの駆け引きやら事情やらがある。
それは単なる噂を越え、確からしい推測と考えられているらしい。
「子供の権利って、一番重視されるんだってよ。姫子が自分の思惑で、史朗くんにとって不利な取引をしたからって、史朗くん自身がそれに縛られる理由はないんだって。そしたら思い立ったときに認知請求できるんじゃないの」
ボン子の言葉には勉強した跡もあり、筋も通っている。そもそも姫子自身がその企業に入りたいがため、息子の権利を踏みにじった、という解釈だって可能ではある。
「姫子のために、そんなことは思いたくないよ」
ボンは呟いた。やはり、姫子とは仲がよかったのか。
「でも今、生きている史朗くんのためだったら、そういうことを楯にとってもいいんじゃないかな。父親に保護される権利はあるよ。しかも、あんなに立派に出世した人だし」
そうだけど、と言いながら、瑠璃はリビングの壁掛け時計を見た。もう一時間も話している。
「でも瓜崎くんは、今」
「連絡がつかない状態よね」と、ボン子は不満げに言う。「だから、よけいに腹立つって。逃げたのよ、きっと」
「姫子の親族からでも、何か言ってやったの?」
「全然。だけど察知したんじゃない、姫子が死んで、まずい状況かもって。頭いいからね」
頭よくなくても、そういう危険には誰もが敏感なものだ。
「でも、そうかなあ」と、瑠璃は首を傾げた。
「なんか別のことで、夫婦仲がぎくしゃくしてる、とかじゃないかな。あの奥さんの顔つきは」
瑠璃に対する厳しい視線からしても、夫の現在の女関係に胸が潰れている、と見えた。
「じゃ、とにかくボン子は、わたしは関係ないって思ってくれるわけね。瓜崎くんが、なんでわたしを巻き込むような消え方をしたのか知らないけど」
捜査の攪乱とかだよ、とボン子は言った。
「今現在も女がいろいろいて、昔の後始末なんか、できる状態じゃございませんってパフォーマンス。史朗くんに愛想づかしされたいんだよ、きっと」
電話を切ると、瑠璃は仕事の資料をテーブルに拡げて、準備を始めた。が、その手はしばしば止まった。
姫子の死に不審なところはなく、捜査などされていない。
ボン子が言うのが本当なら、拍子抜けするような話だ。安堵はするが、本来、瑠璃が安堵しなくてはならない理由はない。ただ高梨や瓜崎に、言いがかりをつけられる口実がなくなっただけだ。
それにしても、皆が口々に言っていること、そういった噂があることをボン子一人が知らないということがあるだろうか。多数決なら、圧倒的な差でボン子の負けだ。だが警察の事情聴取を受けたとされる本人はボン子で、実際、それは事実だった。
ボン子以外に警察と接触があったのは、姫子に付き添って救急車に乗った柿浦だけだったし、事実確認をされたに過ぎなかった。少なくとも警察が姫子の死をどう考えているかについて、柿浦自身が見聞きしたことはなかったはずだ。
姫子が亡くなった後、日をあらためて警察が事情聴取に訪ねてきた、というのは瑠璃の知るかぎり、ボン子しかいないはずだ。噂では、ボン子が姫子の息子と関係し、彼女と反目していたから、ということになっている。
ボン子がそれを否定するなら、警察は何を訊きに来たのか。
ボン子の言う通り、簡単な事情聴取だけだったなら、わざわざ警察がやってきたのは、これもボン子の主張通り、姫子の親友だったからに過ぎないのか。
やはり、わからなかった。誰が本当のことを言っているのか。ボン子の声を聞いているかぎり、とても嘘には思えなかったが。
ともあれ、ボン子が姫子の息子といまだに付き合いがあるならば、未成年者との性行為で挙げられかねなかった、というのだけは根も葉もなく、悪意にみちた噂に違いあるまい。
テーブルに拡げた仕事の資料から、瑠璃はホチキスで留められた数枚のコピーを取り上げ、ようやく読みはじめる。
『ザ・パーティ!』と題された電子版のムック本が企画されていて、五人のコーディネーターがそれぞれ自由にアレンジする。
瑠璃が担当するのは「庭でパーティ!」というページで、実用にはあまり向かず、さしたる反響は望めない。が、最もヴィジュアルになり得るから、仕上がり次第ではフロントページに持ってこられるだろう。カメラマンの腕の見せどころだ。
撮影・川村仁。資料の右上に、ゴシックでそう印刷されている。
四日後には、この打ち合わせで顔を合わせなくてはならない。
どんな態度で接すればいいのか。多少、不機嫌を伝えるか、それともまるで知らん顔をするべきか。
今までなら、間違いなく後者を選んでいた。相手が若かろうと、仕事上の関係によけいなものを持ち込めば、ろくなことにならない。
だが、そんな単純な割り切りでは済まなくなっていた。もとはといえば実々が仁に色目を使い、彼がそれを瑠璃に告げたところからだ。結果として、瑠璃もプライベートな悩みを打ち明けるはめになった。若い仁なりに同情してくれたと思えばこそ、言うなりに上高地にまで出かけたのだ。それが。
瑠璃は、自分の感情を巻き戻すことに決めた。仁の話は聞かなかったことにしよう。自分が話したことは、どうせもう忘れているようなものだろう。
仁と栞の間に何があったにせよ、自分とは関わりない。栞の夫からねじ込まれるのも御免だった。栞は夫に、瑠璃と上高地に出かけ、遅くなったら一泊してくる、ぐらいに言ってあるに違いない。女二人の旅にカメラマンが同行したが、それぞれ勝手に松本へ向かった。怪我をした瑠璃が先に帰っても、責任などあるはずない。
「庭でパーティ!」に相応しいものは、言うまでもなくサンドイッチだ。が、端正なイングリッシュ風お茶会にするつもりはない。撮影予定現場は横浜の青葉区にある「こどもランド」の植物園で、ただ芝生が拡がっているだけではなかった。鬱蒼とした木々を撮し込むことができるし、そうしてもらいたい。テーブルは一見、雑然と。子供たちが駆け寄ってくるような帽子形ドーナツ、糖蜜のタルト、兎になぞらえたチキンのミルクつぼ煮と、不思議の国のアリスだ。
四日後までに足の痛みを治して、疲れを癒し、顔にはパック。立て直したコンディションで、いつもの自分の仕事をする。
アイディアのメモを走り書きするにつれ、いつもと変わらぬ仕事の段取りに立ち返っていると感じられた。さっきのボン子からの電話も、平常心を取り戻すのに役立っていた。
平常心。そんな言葉が浮かぶのは、三月のあの日に姫子が倒れて以来、それが気づかぬうちに失われていたかのようだ。そんな筋合いなど、瑠璃にはまったくないというのに。
電話が鳴った。携帯でなく、リビングの固定電話だった。
瑠璃は我に返った。よく電話がかかる日だ。めずらしく家に落ち着き、休養している日だと、なぜわかるのだろう。
テーブルから離れ、受話器を取った。
「芝のシーサイド・ビアでございますが。香津瑠璃様は、ご在宅でしょうか」
「わたくしですが」
芝。ビア。シーサイド。嫌なものが胸の奥で蠢く。
「たいへん遅くなりまして、申し訳ございません。お忘れ物を保管しておりますので」
「忘れ物?」
芝のビアホールだ。瓜崎といっしょに行った店に相違なかった。
「忘れ物なんかしてないわ。それより、どうして家の電話番号を?」
「先日、瓜崎様の奥様が見えまして。何だか、瓜崎様をお捜しになっているご様子で」
ええ、と瑠璃は、承知しているというように応える。
「後から、店の者が保管していたお忘れ物のことを思い出しまして。瓜崎様はよくお見えになるので、また次回にお渡しすればよいと考えていたようでございます。で、お宅にお届けいたしましたが、ご本人のものでないので、お連れ様のでは、と」
「何なんです? それは」
さあ、と相手は口ごもった。「眼鏡ケースのようなものでございます。茶色のプラスチック製で」
そんなものなら、返しそびれていたのも無理はない。
「眼鏡は使ってないけど。わたしたちのテーブルに?」
はい、と支配人らしい男は答えた。
「あの、このお電話番号は、瓜崎様の奥様からお聞きしたものです。個人情報保護の問題もございますし、大変申し訳ありませんでしたが、店の予約の際などにもお電話番号は頂戴しておりまして」
「構いませんよ、そういうことなら」と、瑠璃はなだめるように言った。「こちらも、お尋ねしたいことがあるんだけど。瓜崎くんは、そちらの常連ね」
ただの同級生らしく、瓜崎くん、と意識して呼ぶ。
「はい。ご贔屓にしていただいて」
「最後に来たのが、わたしと一緒のときでしょ。そのとき彼に普段と変わった様子はなかった?」
わたしは、あのとき二十年ぶりに会ったのよ、と付け加えた。
「そうですね、いえ、別に」と、支配人は呟く。「特に変わったご様子は。この、お忘れ物をなさったほかは」
「支払いはカードだったかしら? わたし、奥様に訊かれたけど、よく思い出せなくて」
「はい、さようで」
「レジで? わたしも一緒だった?」
「通常、テーブルでご清算ということはありませんので。レジで、ご一緒だったかと」
そう、とだけ瑠璃は言った。
「そうしましたら、あの、この眼鏡ケースは?」
「とにかく、わたしのではないから。瓜崎くんが戻ったら、訊いてみて」
「はい、はい。では、こちらで処理させていただきます」と早口で捲し立て、馬鹿丁寧な挨拶を繰り返して電話は切れた。
常連客の瓜崎に関わることとはいえ、眼鏡ケースぐらいで大騒ぎして、と瑠璃はなかば呆れた。
もっとも、女連れでやってきた後に、行方がわからなくなったと、女房に押しかけられては、ナーバスになるのも道理かもしれない。
とすれば、普段と変わらない様子だった、と言うのも本当だろう。挨拶をし、受け答えをした記憶ぐらいはあるということか。少なくとも、連れの瑠璃が倒れ、瓜崎が抱き上げて店から連れ出した、といった騒ぎはなかったのだ。
瑠璃が洗面所から戻り、席について。
それから。
もう考えるまい、と瑠璃は決めた。考えたところで、思い出せないのだから、苛立って不安になるだけだった。思い出せないこと、それ自体は悪事でもなければ、人格を疑われることでもないはずだ。別に、自分の都合で忘れているわけではないのだから。
瑠璃は仕事に戻り、帽子形ドーナツと糖蜜タルト、チキンのミルク壺煮のレイアウトを固めた。
平常心。冷凍のピザで昼食を済ませ、さらに盛りつけの絵コンテを色鉛筆で描いてゆく。窓からは陽射しが注ぎ、ゆったりした午後の時間だった。
シーサイド・ビアの支配人が何を慌てていたのか、わかったのは日が暮れてからだった。
キャベツを刻み、簡単な夕飯の準備をしていると、電話が鳴った。またリビングの固定電話だ。
「湾岸警察署ですが」
警察署。仕事の充足感で痺れたような頭の芯に、その言葉は遠く響いた。
警察署? 今頃、何を。
姫子が、彼女が倒れたときの会場のビデオが警察に渡っていると、高梨が。だが、何のことはないはずだと、たった今さっきボン子が。
「香津さんでいらっしゃいますか」
「そうですが」
「本日未明、瓜崎さんの水死体が発見されまして。今、お宅のマンションの下に来ております。お話を伺いたいので、これからお邪魔してもよろしいでしょうか」
(第20回 第10章 後編 了)
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*『本格的な女たち』は毎月03日にアップされます。
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