ごく普通の女たちが再会したとき、何かが起きる。同窓会のノスタルジーが浮彫りにするあやふやな過去の記憶、すり替えられたイメージ。そして今、この信じがたい現実に女たちは毅然と向き合う…。詩人・批評家でもある小原眞紀子の手になる、ちょっぴりハードボイルドな金魚屋ロマンチック・ミステリ・シリーズ第4弾!
by 小原眞紀子
8(後編)
「瑠璃さんが、あなたのご主人の居所を隠してるんっすか? たぶん、ご主人に頼まれて」
香奈恵は虚を突かれたように仁を見た。
確かにそうだ。亭主の居所の手がかりが欲しくて来たのか、亭主の女とおぼしき瑠璃をとっちめに来たのか。
おそらくはその両方だろう。だとしたら矛盾している。女遊びの尻尾を掴みたいなら、その現場は自分で押さえなくてはなるまい。責めるべき亭主が、姿をくらます前に。
香奈恵は初めて、部屋の中を見回した、亭主の匂いか、尻尾の先でも落ちていないか、というように。
「柿浦さんは、ここにも何度かお電話したと」
そう言いながら、香奈恵はファックス兼用の電話に目を留める。
「ええ、留守をしてまして。二回ぐらいじゃないかしら、着信は残ってました。わたしも忙しくしてましたし、体調も悪くて」
折り返し、電話する気になれる状態ではなかった。それに柿浦も、携帯にさんざんかけた後だからか、諦めたように何のメッセージも残していなかった。
捨て台詞を見つけかねたような間の悪い感じで、瓜崎の妻は立ち上がった。
香奈恵が玄関を出ると、仁はリビングに戻り、冬物の着物と帯、小物を纏めた。それで衣装を決めたつもりらしかった。
「何も訊かないのね」と、つい瑠璃はこぼした。息子に甘えるみたいで、みっともないと思ったが、何だか疲れていた。
仁は心外そうな視線で瑠璃を見た。着物や帯のことで、すでに頭がいっぱいになっているらしい。「和装画報」から仕事の依頼がきたと言っていたから、今はそれ以外に関心がないのだろう。
いや、と口ごもりながら返事をする。
「考えてただけっすよ。お父さんが警察官僚って、捜索願とどういう関係があるんだろうって」
香奈恵が玄関から出るとき、「で、捜索願とかって、出したんっすか?」と仁が訊いた。彼には珍しい挨拶というか、社交辞令に聞こえた。
それに対し、香奈恵は曖昧に首を振った。「父が警察官僚ですから」と呟いた意味は、瑠璃にもしかとはわからなかった。
「あの奥さんのお父さんが警察の身内だと、捜索願って出せないんすかね? それとも、出さなくても捜索してくれるんすかね?」
「探偵を雇って探すんじゃないの? 警察関係者なら、いい探偵事務所を知ってると思うし」
瑠璃はいい加減な思いつきで応えた。
あんなメールがある以上、送り主が瑠璃であれ、瓜崎であれ、警察がまともに取り合うとは思えない。そもそも警察官僚なら、娘婿の不始末を勤め先に触れてまわるぐらいだったら、自腹で何十万でもかけて捜すだろう。
「ほんとに知らないのよ」瑠璃は言った。「こんなメールのことなんか。信じないかもしれないけど、」
いや、と仁は掌を振った。「いいっす、文面なんか見せなくて」
「いいえ。見てちょうだい」
柿浦からあらためて転送してきたそのメールを、仁は黙って読んだ。こんな子供に、自分は何を、と瑠璃はふと情けなくなった。
「なんか曖昧な文章っすね」
そうでしょ、と瑠璃は頷いた。
「わたしはこんなメール、書かないわ。もったいぶって、わけがわからない」
「でも他人が、つまり、その男の人が、何かはっきり目的があって送ったようにも思えないっすけど」
そうだろうか。そう読めるかもしれない。
瑠璃は仁の、第三者的な視線にすがっている自分を感じた。
「瓜崎さんっていうんでしたっけ。その晩、二人でどんな雰囲気だったんすか?」
「どんな、って。久しぶりに会って、昔話をして」
「それだけっすか? 店を出て、タクシー乗り場にまっすぐ向かったんすか?」
何を言いたいの、と瑠璃は仁を見返した。
息子が母親を咎めるような気分なのか。仁は父親のコレクションを通じ、瑠璃の夫とも面識がある。
「いいっす。ほんとのこと、言います。俺、瓜崎さんに会ったこと、あるんで」
最初、瑠璃には意味がわからなかった。
瓜崎に、川村が? 仕事で偶然に? 研究者を撮影してまわる企画でもあったのか。
「ほんのちょっと、通りすがりでしたけど」
「通りすがりって、どこで?」
「目白のフェアグラウンド・ホテル。フロントの前のロビーで」
俯いて視線を落とした横顔は彫刻のようだ。その端正な唇から漏れた、実々さんと、という呟きに瑠璃は耳を疑った。
「あなた。じゃ、実々と?」
そのときは、ちょっと、と仁は観念して認めた。
「でも結局、何もなかったっす。信じないかもしれないけど、たまたま瓜崎さんに会ったんで、実々さんがびびって。その慌てぶりを見たら、なんか白けちゃって」
二週間前のことだった。それに先立つ十日ほど前、雑誌社からの連絡で、新進カメラマン川村仁について電力会社から問い合わせがあったという。パネルか何かの撮影を頼みたいとのことで、電力会社といえば大クライアントだが、その広報部からというのではないらしい。とはいえ、たとえ媒体に出ない仕事でも、駆け出しの彼を指名してくれたとなれば、無視はできない。
連絡の主は、銀座の展示会で一度会った室壁実々だった。
仕事というのは見学者用の写真パネルを新しくするのに、施設を撮影してほしい、という誰でもできそうなもので、ただしギャランティは破格だった。
「その仕事はすぐ二日ばかりで終わっちまって。そしたら別件で、個人的な依頼があるって」
聞かなくてもわかる。自分を撮ってほしい、というのだろう。
銀座のスペースで、瑠璃が写ったパネルを羨ましそうに眺めていた実々の眼差しを思い出した。
「歳とってしまう前、今しかないから、って。身体の線も」
「ヌードで、ってこと?」
仁は事務的に頷いた。「で、フェアグラウンド・ホテルの南向きスイートをとりました。特別に午前十一時チェックインで」
機材をセットし、仁は下のラウンジで昼食を取っていた。
やってきた実々は、指定した美容室でメイクと化粧を終えており、腹が出るのを怖れてトマトジュース半分しか口にしなかった。
瓜崎とばったり会ったのは、そのラウンジを出たところだった、と仁は言う。
「なんだ。仕事?」
スーツ姿の瓜崎は、そう訊ねた。
が、その日は土曜日だった。実々のヘアメークはずいぶんと派手で、服も思い切りセクシーだった。脱いでいる途中も撮ってほしい、という依頼だった。
返事に窮した実々は、あたふたと生返事した。
「う、うり崎くんは、」
男連れの瓜崎は、ちょっと考えてアタッシェケースを持ち上げた。もちろん仕事だ、と示したのだろう。仁をちらりと一瞥すると、ウィンクしかねないような、悪戯っぽい笑みを浮かべて立ち去ったと言う。
「それで撮影は?」
しましたよ、と吐き捨てるように仁は言った。
「仕事ですからね。機材はもう部屋にセットしてあったし」
まず着衣のまま、それから脱ぐところ、下着姿の後、きれいで大人しいヌードを撮り、それ以上のポーズは要求しなかった。ファインダーを通して激しく盛り上がり、撮影終了とともに二人でもつれ合う、といったことはなかったのだと、仁は主張するのだった。
「でも、そのつもりだったんでしょ?」
ええ、まあ、と仁は俯く。でなければ、わざわざホテルのスイートを現場にはするまい。
「だけど彼女、何を慌てたのか、部屋に入って撮影が始まるまで、瓜崎さんのことしゃべってるし。大学で優秀だったの、あなたとのことだの」
「わたしとのこと。どんな?」
「いや。ただ、瓜崎さんがあなたを好きで、あなたはそうじゃなくて、今のご主人と結婚してアメリカに行ったって」
それは今まで聞かされた中で、もっとも事実に近い、まっとうな話だった。実々はそう認識しているのか、それとも瑠璃のカメラマンである仁に噂話を伝えるのは、さすがに遠慮したのか。
「それで俺、萎えちゃって」と仁は呟く。「次の予定があるから、って出てきたっす。思いっきり日常に引き戻されたっていうか、母親の昔話を聞かされたみたいっていうか」
「母親って、何よ。失礼な」と瑠璃は怒るふりをした。
聞き流す振りをしたものの、仁の唇からこぼれた、萎えたという言葉は生々しかった。実々はとりたてて美人ではないが、子を二人産んだ今でもスタイルは保っている。その自信がなければ、ヌード写真を撮れ、などと露骨な誘惑もできなかったろう。
「母親って別に、瑠璃さんのことじゃないっす」
仁はぶつぶつ言い、言い回しが難しい、と首を振った。
「本当はね」
瑠璃はふと力が抜けたように、口に出していた。「こんなこと言ったら、なお変に思われるって黙ってたけど」
仁は大きな黒い瞳をひたりと瑠璃の顔に向けた。うっすら感情のファインダーをかけた、カメラのレンズそのものだ。
「覚えてないの。店を出たところを」
「覚えてない?」
瑠璃は頷いた。「妙なの。洗面所から戻って、ふつっと記憶が途切れていて。気がついたらタクシーに乗せられて、瓜崎くんと別れるばかりになっていて」
「だって店では、何事もなく、って」
「そう。わたしと瓜崎くん、連れだって普通に店を出たって、言っていたわよね。女性客の方が意識を失ったとか、そんなことはなかったみたい」
どうなっているのだろう。瑠璃の頭がどうかしてしまったのか。
「で、その間に、覚えのないメールを送ったことになってるって、わけっすね?」
そうだ。仁の口から出る言葉は、瑠璃自身、わかっていたことではある。が、他人の口から聞くと、何かが少しずつ整理され、落ち着いてゆく気がする。
「どうしてか、タクシーの中からずっと体調が悪くて。最初は、姫子みたいに毒でも盛られたかって」
「姫子?」
「そう。展示会の準備のとき、銀座の路上で会って、その後に亡くなった同級生。警察が調べてるらしいの」
実々や瓜崎と再会するはめになった経緯、教室に来た高梨の言い分を話したが、仁は表情を変えなかった。
「俺、今日、なんで来たかわかります?」
「撮影用の着物を選びに?」
今日にしてくれ、と頼んだのは瑠璃の方だった。瓜崎の妻がやってくる。四人が教室に乗り込んできた騒ぎにも居合わせて、仁が同情して来てくれたと思っていた。たまたま一緒に食事していた男が行方不明になって、という瑠璃の言い分を聞いてくれた、と。
だが、あのとき乗り込んできた実々と、そんないきさつがあったとは。自身のテリトリーを平気で犯す、同級生の女の厚かましさに瑠璃は憤っていた。
「俺、来たのは実々さんのせいじゃないっすよ。そりゃ、あの青山の教室で瑠璃さんのこと責めて、俺には知らん顔で、ずいぶんだなとは思ったっすけど」
「裸まで撮らせたのにね」と、瑠璃は息を吐いた。もっとも実々の視線は、あのときも吸いつけられるように彼に向いていたが。
「ネガもデータも渡しちゃったから、関係ないっすけど」
「ネガも? どうして? 作品じゃないの、一応」
うーん、と仁は低く呻る。
「こっ恥ずかしいっすね、やっぱこっちも、寝ようと思ってたわけだから。で、やりそびれて。だけど惜しいってわけでもないし。正直、もう見たくなかったっす」
それは正直そのものの物言いだった。
「で、なかったことにしよっか、って。でも瓜崎って男、なんか引っかかって」
「瓜崎くんに?」
仁は頷いた。「何となく、っす。萎えちまったってのは、実々さんのおしゃべりのせいってより、あの男の顔、見たからかも」
セクシーな格好の実々に、情事の予定を察した瓜崎が、仁の顔を一瞥して笑みを浮かべた。
自信満々が、年齢でいや増した瓜崎の表情は、若い彼を気萎えさせるに十分だったかもしれない。
「だから今日、彼の奥さんの顔でも見ようと思ったの?」
ま、そうっすね、と川村仁はあっさり言った。「あんな立派そうなナリして、あいつ何してんだ、ってとこっす」
そういった反感を買うタイプだ、と瑠璃は納得した。仁に関しては、年輩者への反発でもあり、まだ健康な匂いがする。しかしあの馬面といい、他の同級生にも瓜崎への悪意を隠し持つ者はずいぶんいるだろう。
「つまりその、立派そうなナリして、ってのが気になって」
瑠璃の納得をよそに、だが仁は続ける。
「最近、そういうの撮りたいと思って。何ていうか、きれいどころを撮ったりすんの、なんか飽きてきたっつーか」
瑠璃は仁の顔を眺めた。若い反感の話が、いつの間にか写真の話にすり替わっている。
「俺、皿とかテーブルとか、女とか撮ったりすんの、結局、親父に敵わないかも、って」
「報道カメラマンにでも、ってこと?」
仁は頷いた。「危ないっすよね。やっぱ戦場とか、行くの」
「危ないも何も、」と瑠璃は言葉を失った。
この坊やは、自分に与えられたアドバンテージを守ることしか考えてない、と思っていた。
「だから、あの瓜崎ってやつがね。あいつが一緒にいた男って、やくざ者だったし」
(第16回 第08章 後編 了)
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