エズラ・パウンド、T・S・エリオット、アーネスト・ヘミングウェイ、スコット・フィッツジェラルドらと並ぶロスト・ジェネレーションを代表する作家、e.e.カミングス。優しくて人嫌いで、前衛作家で古典作家でもあったカミングスの処女作の星隆弘による新訳!。
by 星隆弘
第五章 大部屋の面々
乞食のエミール。F・オッパー先生の諷刺漫画と聞いて読者はピンとくるのかな。こないようだと、この男の人物像を味わいきれないかも。乞食のエミールは思索の人だった。脚に置いていかれまいと、ズボンの尻っぺたがせわしなく跳ねたりよれたりするところに味がある。乞食のエミールよ、食事の後で、何度きみのうしろについて階段を上ったか知れやしない、あの貧相な階段をきみのズボンの規則正しいだぶつきを追って一段また一段もう一段とゆっくり上ったんだ。エミールは持参したスカーフをぶかぶかの腰回りに巻きつけることで、そうでもしなければ独り立ちして行方をくらましかねないズボンと例の大切なあれとを繋ぎ止めていた――つまり下っ腹ね。髭は剃らない。髪も切らない。ベルギー人の御多分に洩れず昼も夜もなく歯茎に噛みタバコを仕込んでいる、外へ出て町で仕入れてくるんだ、ナントカカントカっていう仕事(たしか清掃補助)のおかげで時々娑婆を漫遊してるんだよ(しっかり見張り付きだけど)考えなしではそんな抜け道見つけられないよな。小さな瞳のすぐ泳ぐところに奴のF・オッパーぶりの真髄が垣間見える。議論に首を突っ込んだ日には――そのときの議題が人権であれ、じゃがいもの相場であれ、戦争論であれ――乞食のエミールは自説にも相手にも食らいついて離れない。あいつは、おかしな話だけど、何をさておき糞真面目なんだ。身内に仇なしてでも押し通さんばかりの糞真面目。とことん突き詰めて口論した相手をついにけちょんけちょんに言い負かして白旗を掲げさせると、エミールは鼻高々にふらりと引き揚げていく。五メートルほど行ったかと思いきやまたもや襲いかかってくる――電光石火の早業で回れ右、実際あまりに速すぎて誰もあいつが振り向くところをその目で見たことがないんだ――獲物は乞食のエミールの飽くなき御鞭撻にまた一からのたうち苦しむ、――降参し、自認し、赦しを乞う――するとエミールは鼻高々にふらりと引き揚げ……踵を返してべそかきそうな敵のもとへ駆け戻り、息吹き返した舌鋒たるや疾風迅雷、立ちはだかるものみな(理性も含む)根こそぎなぎ倒す勢いだ。そこさえ目を瞑れば、ベルギー人にしてはめずらしく良い奴だし、ふらふらとやることだけやって満足そうに噛みタバコをちゅうちゅう味わっているような男だ。べつに危険極まりない人物というわけでもないじゃないか、と人は言うだろうね……さて、ではなぜフランス政府は錠かけて彼を閉じ込めておく必要があったのでしょうか? 彼の致命的に達者な口が災いしたのさ、間違いなくね、そいつがあの男の身柄を生き地獄へと引き渡したんだ。憲兵たちは妙なときだけ地獄耳なんだ、連中はじゃがいも相場のほぼ確実な運命をひっかき回すような噂話は一言だって許さない――なぜなら治安を乱して政府にたてつくものなら何にでも激昂するのが彼らの職務であり特権でもあるからで、政府には農務(とかなんとか)省も含まれる以上、そしてそのナントカ省の管轄は、当然、じゃがいもにも及んでいるわけだから、つまり誰一人として好き勝手に(いかに些細で遠回しなものであれ)じゃがいもひとつ小馬鹿にはできないってわけだ。俺が思うに乞食のエミールはじゃがいもをふたつもけなしやがったんだろうぜ。
ところで、オレンジ帽の男の謎がまだ残っていたっけ。オレンジ帽の男は、他のあらゆる点に劣らず、見ての通り愉快なやつなんだ。ズールーがやってくるまでは(この人の話はだいぶ先だ)彼はなんだかひっそりとひとりぼっちだった。でも、ズールーが遊び相手になってくれた。いつも中庭の木立の周りでズールーと追っかけっこをしていたよ、躱しては、隠れてのぞきこんで、上着にタッチして鬼を交代して、時々笑いあったりもして。ズールーがやってくるまで彼がひとりぼっちだったのは皆オレンジ帽をかぶったこの小男への接し方がわからなかったからだ。なにか嫌われるようなことをしたわけじゃない、それどころか、彼の行儀の良さは非の打ち所がなかった。ただ喋れなかっただけなんだ。はきはき喋れなかったと言うほうが精確かな。こういう事情じゃオレンジ帽の小男が人見知りするのも無理はないな。いつだったか、訊いてみたことがあるよ、なんで捕まったのかってね、すると彼は想像しうる限りの恥じらいに堪えないという口ぶりでグーと返したきりだった。ほんと愉快なやつ。無意識に皆、そりゃそうだろうけど、いつか自分の気が狂うんじゃないかと恐れていた――もうとっくに気が狂っている連中を除いた皆ね、そういう連中はもう怖いもの知らずで万事快適そうにやっていたよ。そういうわけだから尚も正気を保っているほうの連中はおめでたい受難仲間のことを無視してつっぱねたり面と向かって侮辱しがちだった――とはいえ、風呂屋のジョンみたいに、気狂いであっても同邦の手強い旦那方にがっちり守られているような場合は別だけど。あの小男もことあるごとに無視され侮辱されていた。彼はどんな嫌味もまるで相手にせず、その大きく青い無表情な瞳が不安の色を湛える間ひっそりとひとりぼっちでいるばかりで、喧嘩があれば片付くまで近寄らなかった。時折そんな喧嘩を面白がっている自分にはっとすると、彼はとりわけ背の低い林檎の木の根元に座り込んで非実在であることについて徹底的に瞑想して気が済むまで自分自身を懲らしめていた。どうしたらフランス政府が彼をラ・フェルテに置く必要があると結論できたのか俺は今だにわからない、仮にも――ああ、なるほどね……彼は実は頭脳明晰なこそ泥で内閣閣僚の親玉の箪笥から最高責任者預りの極秘文書を盗み取ったってわけか、ポワンカレ大統領が、昨夜、負け犬根性丸出しの南京虫を相手に反則的な肉弾戦を行なっていたことが発覚しましたなんて士気沮喪ものの由々しき情報漏洩罪だもんな……ということはあのオレンジ帽の小男の見ての通りの白痴ぶりはじつはすべて巧みに演じた偽装で……ならばきっと彼は、俺と知り合いになった時でさえ、例の虫酸の走る負け犬機関紙社をもってしてもすべからく出版を自重するほどに屈辱的な質の悪い証言を集めていたんだ、廉潔で篤信なる看守に関する証言とか……そうだよ、思い出した、天気が良くないんじゃないかって彼にフランス語で訊いてみたとき(というのは、いつも通り、雨の中でも、俺は彼とふたりきりで散歩を敢行したんだ)彼はまっすぐに俺の目を見つめ返して、ウーとつぶやき、恥ずかしそうに微笑んだ。あの記憶が彼が大策士であるという仮説の裏付けだ、だってWOOが意味するのは世界に冠たるヴィルヘルム王の頭文字、であると同時に打倒イエール大を意味するオーストリア語でもある。そうだ、そういうことか、フランス政府が正しかった、いつでもそうだ。誰かがあの小男はオーストリア人だと教えてくれたことがある、寡黙屋だってオーストリア人だ、それってつまり――内緒だぜ――二人ともオーストリア人なんだよ。だから二人して逮捕されたんだ、ほらあの誰かさんが(トルコ人だが)当然のように逮捕されたのと同じさ、それにもう一人の誰かさん、こっちはポーランド人で、彼も否応なしにそれが自然の成り行きというように(しかも戦争中だし)逮捕されたんだ。そして俺、俺というアメリカ人、アメリカ人も逮捕されたんじゃないのか? そう確かにアメリカ人は逮捕された、アメリカ人の親友も、な。
(第30回 了)
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