女優、そして劇団主宰でもある大畑ゆかり。劇団四季の研究生からスタートした彼女の青春は、とても濃密で尚且つスピーディー。浅利慶太、越路吹雪、夏目雅子らとの交流が人生に輪郭と彩りを与えていく。
やがて舞台からテレビへと活躍の場を移す彼女の七転び、否、八起きを辻原登奨励小説賞受賞作家・寅間心閑が Write Up。今を喘ぐ若者は勿論、昭和→ 平成→ 令和 を生き抜く「元」若者にも捧げる青春譚。
by 文学金魚編集部
二次試験当日、一番インパクトがあったのは劇団四季の創立メンバー、そしてシンボル的存在である浅利慶太先生の存在だった。肩にジャケットをかけ、サングラス姿。他の試験官とは異なり、グッとふんぞり返っているので正面から見えるのは足の裏だけ。その前で試験を受けなければいけない。
まずは「リズム感」。ここで一つ、予想外の出来事が起こる。待機室にいたライバルたちはレオタード姿。確かに「身体のラインが分かる服装」と指示されていたけれど、まさかそこまでとは思わなかった。ベルボトムのジーンズとTシャツ、なんて普段着は自分だけ。おチビちゃんの心はテストを受ける前から折れかかっていた。
課題自体は単純明快。床に貼った約十メートルのテープの上を、初めて聴く音楽に合わせて歩くだけ。テストを受けるのは一人ずつ。レオタードのライバルはいない。そして自分にあるのは、たった一年間のバレエの経験。きっと下手な小細工は通用しない。腹を括ったおチビちゃんは、ジーンズの裾を捲り上げ、思いつくがまま身体を動かしながらテープの上を歩き切った。
次は「歌」。自分で指定した曲をピアノの演奏で歌う。これは明らかに大失敗だった。選んだ曲は、北原白秋作詞・山田耕筰作曲の日本歌曲「かやの木山の」。ちょっと難し過ぎたかもしれない。音がズレたかも、と思った時には遅かった。緊張のあまり、どんどんキーが上がり続ける。我ながらサルの鳴き声みたいだった。結局修正できないまま終了。あまりのショックで次の「台詞」の試験はよく覚えていない。気付いたらもう「面接」だった。
ようやく浅利先生が上体を起こし、ゆっくりとサングラスを外す。その力強い視線に射抜かれそうになって、初めておチビちゃんは気付いた。こんな風に見られていたら、とても試験なんて受けれない。ふんぞり返って足の裏しか見せなかったのは、変に緊張させないためだったんだわ――。
特に難しいことを訊かれたわけではない。もし落ちたらどうするのか、という問い掛けには「また受け直します」と答えた。他の質問もシンプルだった。ずっと続けていく気はあるのか? ここから通えるのか? 御両親は大丈夫なのか?
確かに浅利先生の目力は凄かったけれど、どの質問も受かった人に訊くようなことだったので、密かに合格を確信していた。そして数日後、家に届いた通知によって、その確信は正しかったと証明される。遂におチビちゃんは、劇団四季附属演劇研究所に合格したのだ!
ただし、それで一件落着とはいかなかった。まだ仙川の学校の試験が残っている。こちらも二次試験まであるが、一番の違いは普通の大学受験であるということ。そのせいか、おチビちゃんは試験会場の雰囲気にまず馴染めなかった。私の居場所はここじゃない。そんな風に思ってしまった。
その場で作文を書かされ、一人一人読んだ後に面接、という流れだったが最後まで気は乗らなかった。もちろん結果は不合格。でも、これっぽっちも落ち込まなかった。それどころか「これで心おきなく四季に入れる!」と心の底から嬉しかった。
劇団四季附属演劇研究所・十四期研究生の入所式が行われたのは四月一日。場所は試験を受けた参宮橋の稽古場だった。ざっと見たところ、おチビちゃんの同期は三十四、五名。みんな床の上で体育座りをしている。試験の時に一緒だった人もいた。もちろん目の前には浅利先生もいる。
「君たちがこれから四季でやっていくにあたって、どういう理由で合格したのか、という評価を一人ずつやっていきましょう」
そんなことをするんだ、と一番後ろの方で感心していたおチビちゃんだったが、突然浅利先生に声をかけられる。
「そこの君、一番前まで来なさい」
はい、と弾かれたように立ち上がり場所を移動すると、ほどなく一人一人についての浅利先生の評価が始まった。水を打ったような静けさの中、みんな真剣に聞き入っている。
あいうえお順ならすぐに自分の番なのに、どうやら四季ではABC順。これだと呼ばれるのは後半だ。ただ、こういう雰囲気の中だと時間が経つのは早い。意外に早くおチビちゃんの番になった。軽く姿勢を整えて、浅利先生の言葉に耳を傾ける。
「声。響きあり」
これは嬉しかった。ちょっと得意だ。慌てて笑顔を仕舞い込む。
「歌。ニワトリを絞め殺したようだ」
予想どおりの評価だったが、ニワトリを絞め殺すだなんて……上手いことを言うなあと感心してしまった。でも誰ひとり笑っていない。
「プロポーション。良し」
あの「リズム感」のテストが良かったのかな、と考える。もちろん嬉しい。
「リズム感。シャープ、勘がいい」
結構褒められてる、と思った瞬間、浅利先生の言葉が続いた。
「あと……、ずば抜けてチビ」
思わず顔を上げたのは、どういう意味か分からなかったからだ。やっぱり小さいのはダメなのかな……。少し不安になったおチビちゃんに、浅利先生はこう言ってくれた。
「うちの主演女優はね、みんな小さいんだよ」
パッと頭に浮かんだのは、数ヶ月前、仙川の跨線橋から見下ろした線路と、あの日宮崎さんから言われた「背が小さかったから、いい役にもつけたのよ」という言葉。死んだりしなくてよかった、とおチビちゃんは噛み締めていた。喜びだけではない。簡単に死のうとした自分の浅はかさや、これからは二度とあんなことはしないという決意も、奥歯でぐっと噛み締めた。
今日から劇団四季の研究生としての人生が始まる。どんな毎日なのかは分からないけど、思いっきりぶつかってみよう。
浅利先生の傍で体育座りをしたまま、おチビちゃんはそう決意した。
昭和五十年代。高度経済成長はオイルショックによって終わりを迎え、後々「安定成長期」と称される時代へと移り変わっていた。
紅白歌合戦の視聴率が毎年七十パーセントを越え、ロッキード事件が世間を騒がし、今ではシラを切る時の定番となった「記憶にございません」という言葉が流行していた頃、晴れて劇団四季の研究生となったおチビちゃんは――押し潰されていた。
別に心象を表すたとえ話ではない。実際、毎朝大変な目に遭っていたのだ。
参宮橋で稽古が始まるのは朝八時半。となると、神奈川の自宅を六時には出なければならない。つまりは五時起き。しかも駅まではバスで三十分。いや、まずそのバス停まで十分歩く。たまに隣の家のおじさんを娘さんが車で送る時、文字どおり便乗させてもらえるけれど、車内に漂うポマードの臭いが苦手だったりして……。
駅に着いたら着いたで、まずホームが溢れんばかりの人、人、人で大混雑。当然そこから乗り込む横須賀線も超満員。そう、おチビちゃんは本当に毎朝、押し潰されていた。
肩に掛けたバッグは二つ。稽古着、タオル、筆記用具等々。これが結構重い。しかも人波にもまれて動きが取られ、挙句に足が地面を離れると、百五十センチの身体はゆらゆら漂うだけになる。まるでクラゲだ。
けれど日が経つにつれ、少しずつだけど慣れてくる。どうすれば楽なのか段々とコツが分かってくる。結果、おチビちゃんは車内で荷物から手を離すことにした。これで心配するのは我が身だけ。終点の東京駅に着けば、バッグは二つとも下に落ちている。拾ってくれる人も盗む人もいない。朝はみんな忙しい。さあ、それを拾い上げて今度は中央線で新宿へ。その後もう一度小田急線に乗り換えれば二駅でやっと参宮橋。稽古が始まる前なのに結構ヘトヘトだ。
肝心の稽古はおチビちゃんたちだけでなく、先輩の二年生、三年生、時には憧れの劇団員も一緒に受ける。まずは「開口レッスン」から。あいうえお・かきくけこ・さしすせそ、の発声や呼吸法をたっぷり三十分間。これは浅利先生が教えてくれた。
その後は正午までダンスのレッスン。ジャズとクラシックの二種類。学生時代、ずっと演劇部で運動と縁のなかったおチビちゃんにはこれが辛い。柔軟体操として相撲の股割りのように足を開くのだが、身体が固くてなかなか開かない。レッスンが終わってランチタイムになっても、とにかく痛くて痛くて。近所で買ったコロッケや菓子パンを食べながら、「明日もやらなきゃいけないのかあ」と少し憂鬱になっていた。
続く午後のレッスンはバラエティに富んでいる。日本舞踊や歌、座学もあれば、何と言うべきか、少々残念なことに「肉体訓練」というプログラムもあった。読んで字の如く身体を動かす。代々木公園に行って後ろ向きでマラソンをしたり、目隠しをして二人三脚をしたり……。
想像していたのと違うなあ、とおチビちゃんは思っていた。体育なんて高校を出たらやらなくなるんじゃないの? 私はもっと舞台に立つための色んなことを学びたいのに!
もちろん演技の授業もある。アメリカ・ビート文学の第一人者で翻訳家の諏訪優先生の話を聞いたり、フランスの名優・ルイ・ジューヴェの肉声をオープン・リールで聞いたり、とっても内容は面白い。けれど、あまりにも時間が少なかった。なんと週に一度きり。授業が終わる度、おチビちゃんは一週間後がとても待ち遠しかった。
夕方にレッスンは終わるけれど、その後もやることはある。例えば「研究生レッスン」。これは他人に何かを教える練習のこと。自分の趣味や得意なスポーツを教える人が多い。ちなみにおチビちゃんは整体と気功を取り上げた。
また夕方六時半から始まる四季の公演を見学しに、日比谷の日生劇場まで行く日もある。もちろん勉強の為の大切な時間だが、研究生たちにとっては別の意味でも重要だった。理由は明快。それが「劇団内バイト」だったから。その名も「TBS」、正式名称「東京ブラボーサービス」。公演中、客席の後ろに回って拍手や歓声を入れる――平たく言えばサクラだ。仕事なので当然給料が支払われる。原則アルバイトは禁止なので嬉しい。
ただ嬉しいけれど、どうしても帰る時間は遅くなってしまう。一日が二十四時間なんて短すぎる、三十時間くらいでちょうどいいのに。毎日そんな風に思っていた。確かに電車も朝の様には混んでいない。でもおチビちゃんだって二十歳前の女の子。遅い時間は何かと心配だ。そして悪い予感は当たる。ある晩、とうとう事件が起きてしまった。
その日も帰りは遅く、電車に乗ったのは夜の九時前。横須賀線はまあまあ空いていた。でも座れるほどではない。だからおチビちゃんはドアの近くに立って、手摺りにつかまり外の風景を眺めていた。軽く目を閉じただけで眠りそうになり、ガクンと膝の力が抜けて目が覚める。そんなことを何回か繰り返すうちに次が降りる駅になった。
この時間ならまだバスがある。これから帰って、お風呂に入って……と考えながらぼんやりと外を見ていた。真っ暗闇だから窓には自分の顔。なんだか疲れてるなあ、と溜息をついた時だった。すっ、と背後に人が立つ。窓で確認すると同年代の男の子だ。駅に着くまではまだ少しあるなあ、と思いながら横目で周囲を見る。彼も同じ手摺りにつかまっていた。座席は空いていないけど、こんな近い距離に来るのは少し不自然かもしれない――。そんな気がして、もう一度窓越しに確認する。まだ子どもっぽい顔。実はかなり年下なのかなあ。そう予想した瞬間、彼の手が手摺りをスルリと伝って落ちてきた。そしてそのままおチビちゃんの手をすっぽり包む。
「……」
思わず出そうになった声を呑み込んだのは怖かったから。そして窓に映る男の顔はさっきと何も変わらない。手を振りほどかなかったのも怖かったから。そんなことをして、もし相手の態度が豹変したらどうしよう。実はこの人も疲れてるのかしら、と想像したのも怖かったから。まさか自分がそんなことに巻き込まれるなんて信じたくもない。だから何かの間違いだと思いたかった。
おチビちゃんは俯いたまま考える。今、私と彼は恋人同士のように見えているだろう。電車の中でも手を触れていたいほど仲のいい二人に……。
ようやく駅に着いた。勢いをつけて手を振り払いホームに降りる。走りはしなかったが普段より大股で歩き、そのまま振り向かずに改札を出た。バスの時間まではあと数分。ここまで来れば大丈夫だろうと、勇気を出して振り返ってみる。男は……いた!
ゆっくりとこっちに歩いてくる。やっぱり手を触ったのはわざとだったんだ――。そう確信した途端、抑えていた恐怖が一気に広がった。全身の筋肉が強張るような感じ。慌てて近くの公衆電話から家に連絡をする。
「もしもし私。わ、た、し! ねえ、ちょっと!」
「あらあら慌てて。何、どうしたの?」
「あのね、今駅に着いたんだけど、電車の中から変な男の人がつけてくるみたいなの!」
そこからは早かった。バスなら三十分かかるところを約半分の時間で車が来た。運転していたのはお父様――ではなく、お父様の元教え子。家で何度か見かけたことがある。ギリシャ彫刻みたいに彫りが深くて鼻が高い、ヒゲを生やした建築家。こっそり「ダビデさん」とあだ名を付けていた。今夜もちょうど遊びに来ていたという。本当に助かった!
「ありがとうございます」
そう言って車に乗り込んだ瞬間、ようやく全身の力が抜けた。こわごわ振り返ってみたけれど、もうあの男の姿はない。ただ深くて濃い闇が広がっているだけだった。
その一件以降、帰りの車内で周囲に気を付けるようにはなったけど、肝心の帰る時間はちっとも早くならない。実はおチビちゃん、こっそり禁止されているバイトを始めていた。たしかに怖い思いはしたけれど、お金があって困ることはない。
勤務先は喫茶店、場所は新宿・歌舞伎町、時給は三百八十円。店で一番高いコーヒーは三百六十円。ちなみに官製ハガキが二十円、銭湯が百二十円、映画館の入場料が千三百円だった。もちろん親にも内緒だ。でもなかなかうまくいかない。やる気は十分あるけれど、稽古の後なのでとにかく疲れている。結局何ヶ月もしないうちに自分から辞めてしまった。
だったらその分早く帰るのか、というとそうではない。実は同期の研究生が二人、高田馬場の居酒屋でバイトをしていて、そこがみんなの溜まり場になっていた。マスターも夢に向かって頑張る若者を応援したいからと、本当によくしてくれた。もちろん未成年なのでお酒を呑んだりはしないけど、同期には大学を卒業してから入ってきたような年上の人が多い。一番年下は言うまでもなく、高校を出てすぐに入ってきたおチビちゃん。自然と御馳走してもらう機会も増えるし、楽しい雰囲気は好きなのでついつい長居してしまう。夢を語ったり、愚痴をこぼしたり、大きな声で笑ったり……。結局、帰る時間はずっと遅いままだった。
特に仲が良かったのはスミエちゃん。都内の実家から通っている同期生。最初は彼女の方から話しかけてくれた。背が高いのでおチビちゃんとは凸凹コンビ。不思議と気が合い、仲良くなるのに時間はかからなかった。神奈川の家に遊びに来てくれたこともあるし、もちろん逆もある。まあ、この場合は「泊めてもらった」と言うべきかもしれない。何しろ夜遊びし過ぎて終電を忘れた夜のことだから――。
サバサバしていてボーイッシュなスミエちゃんはいわゆる女性からモテるタイプで、実際に彼女のことを好きな同期の女の子は何人かいたし、おチビちゃんはその子たちからヤキモチを焼かれていた。こういうのって、ちょっと青春ぽいんじゃないかなあ。彼女と向かい合って話している時、そんなことをふと思う。
たまにあるオフの日も喫茶店のハシゴに食べ歩きとこれまた忙しい。誰にも内緒だけど、実はおチビちゃん、入所前に比べて体重が五キロも増えてしまった。多分、今が人生の中で一番食べている。この件に関しては「青春ぽい」で済ませてはおけず、「それだけ身体を動かしているのよね」と、都合良く考えるようにしていた。
(第02回 了)
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