女優、そして劇団主宰でもある大畑ゆかり。劇団四季の研究生からスタートした彼女の青春は、とても濃密で尚且つスピーディー。浅利慶太、越路吹雪、夏目雅子らとの交流が人生に輪郭と彩りを与えていく。
やがて舞台からテレビへと活躍の場を移す彼女の七転び、否、八起きを辻原登奨励小説賞受賞作家・寅間心閑が Write Up。今を喘ぐ若者は勿論、昭和→ 平成→ 令和 を生き抜く「元」若者にも捧げる青春譚。
by 文学金魚編集部
「ゆかりさん、ゆかりさん! ちょっと来てもらえませんか? あれ、ゆかりさーん!」
「えっと、すいませーん、大畑さんは今どちらでしょうかー?」
「代表、さっきの部分、一発目の暗転明けのところ、もう一度確認したいんですが……あれ? 代表? 代表ー!」
一切返事をしないのは別に意地悪してるわけじゃない。物事には順番ってモノがある。呼ばれるがまま動いてたらキリがない。本当、開演前ってどうしてこんなに慌ただしいんだろう。あんなにきっちり準備したはずなのに……。
「あれ、代表いませんか? さっき舞台にいるからって言われたんですけど」
「まだメイクしてるんじゃないかな。見てきてみたら?」
残念、メイクは終わってる。見に行くだけムダです。その他諸々準備は終わって、あとは幕が開くのを待つだけ……のはずだったけど、やっぱりアレだけは見ておきたい。
脚本、ではない。台詞は大丈夫。覚えるのとは違って、私の中に入ってるから忘れようがない。見たいのは一枚の絵。今回の舞台をテーマにしたあの震えるほど美しい絵を、開演のベルが鳴る前にもう一度見ておきたい。
でも、それが見当たらない。昨日の通し稽古の後、みんなに見せて、その後……、あった!
もう誰だ、こんな棚の上に置きっ放しにしたのは……。まったくもう、と腕を伸ばしたけど届かない。背伸びをしてもダメ。百五〇センチはこういう時に不便だ。でも大丈夫。人類には知恵がある。この椅子に乗っかれば私は百八〇センチ。楽々と手が届くはず。ほら、こんな風に……あっ!
「おーい、まだ楽屋の椅子、片付けてないのか? 脚がグラグラで危ないから捨てとけって言っただろ!」
※
もう死んじゃおう――。
跨線橋から線路を見下ろし、おチビちゃんは決心した。次の電車が来たら、ここから飛び降りよう。そしたら死ねる。
場所は東京・調布の仙川駅。まだ駅ビルもなければ上りのホームもない、昭和四十年代の冬の昼下がり。高校三年の少女は身体も未来も投げ出そうとしていた。
身長百五〇センチのおチビちゃんは、同じ体勢のままずっと動かない。長く伸びる線路をぼんやりと目で追っている。ドキドキとワクワクが混じり合っていた昨日の夜が、今はとても遠い。
でも、次の電車が来たら、もっと遠くへひとっ飛びするんだ。早かったな、十八年間。
そんなことを考えても別に怖くないのは、心を滅茶苦茶に踏みにじられたから。痛くて痛くて麻痺してしまって、何も感じない。多分こういうのを「絶望」っていうんだわ。
幼稚園のクリスマス会でワンちゃんの役をもらってから、ずっと演じることが好きだった。ずっと女優になりたかった。ずっと演劇部で頑張ってきた。小学校の五、六年に中学校の三年間、今の高校にはなかったから自分で一から立ち上げた。それだけじゃない。去年はあの憧れの俳優座の女優さんに、マンツーマンで指導してもらった。
そんな人生を、希望を、さっき立派な先生に全部否定されてしまった。
「あなたはもし受かったとしても、一生お婆さんか子供の役しかできないよ」
そう言われた後のことは全然覚えてない。どうやってここに来たかも、付き添ってくれたバレエの先生とどこで別れたかも分からない。
何にでもなれるのが女優の醍醐味、そして一番の魅力だとするなら、あの一言は「女優失格」と宣告されたも同然。人は絶望すると記憶がなくなることを、おチビちゃんは初めて知った。
ふと聞こえた足音に振り向いてみる。同じ年くらいの女の子二人が通り過ぎて行った。二人ともコートにマフラー姿。寒そうに肩をすくめて歩いている。あの学校の生徒さんかもしれない。見るでもなく後ろ姿を見送る。さっきまでいたあの学校、どうしても入りたかったあの学校。俳優座はあの学校の卒業生しか取らないらしい。
だからそこで教えている先生に会わせてもらえる今日が、とてもとても楽しみだった。なのに、あんなひどいことを言われるなんて。
それにしても寒い。これから飛び降りるのに、寒さを気にするなんて変だけど、でも、この場所、本当に寒い。
次の電車、まだなのかな……。
そう思ったのを合図に、おチビちゃんの頭が徐々に動き出す。まずは演技で培ってきた想像力がゆっくり回り始めた。ぱっと浮かんだのは、線路に飛び降りる自分の姿。どこからぶつかるんだろう。頭から? それとも鼻から?
鼻から落ちたら痛いだろうな、痛いのはイヤだな。
死にたいのは嘘じゃないけど、痛いのは絶対イヤ。
死ぬなら痛くない方法にしなくちゃ。
そうっと静かに一歩、おチビちゃんは後ずさりをした。そしてそのまま向きを変え、跨線橋を後にする。ゆっくりとした動きだけれど、来た時のようにぼんやりしてはいない。身体を動かしているのは間違いなく自分自身だ。
これから何処へ行くべきかは分からない。分かっているのは、痛い死に方はイヤということだけ。まずは電車に乗ろう。上り下りなんてどちらでも構わない。とにかく一刻も早く、この場所から離れてしまいたい。
仙川駅のホームも京王線の車内も空いていた。席に腰を下ろした瞬間、おチビちゃんは気付く。あの橋の上でずっと待っていたのは、この電車だったんだわ――。
飛び込むはずだった線路の上を、衝突するはずだった電車が走り出す。振動が身体を揺らした瞬間、おチビちゃんの目から涙が溢れ出した。今日、身体を駆け巡った色々な感情が頬を伝っていく。
「私、女優になりたいのに!」
そんな叫びを堪えようとすればするほど、身体の内側から呻き声が漏れ出てくる。背中を丸め、周りに聞こえないように頑張ったが、あまり効果はない。次の駅に着いても、そのまた次の駅に着いても、おチビちゃんは席の端っこで泣き続けていた。
それから数週間が過ぎたある日、おチビちゃんはレッスンの見学に来ていた。何の? なんていう質問は野暮。もちろん劇団のレッスンだ。
たしかに、あの日は泣き続けていた。でも涙は涸れなかった。夢も同じ。女優になる、という長年かけて磨き続けた夢を、あれしきのことで涸れさせるもんか。
今日、レッスンを見学しに来たのは多摩川のそば、劇団の名前は「無名塾」。その頃すでに主宰の仲代達矢さんは有名だったけれど、まだ「無名塾」は数ヶ月前にスタートしたばかりで文字どおりの無名。おチビちゃんも別に入りたいという気持ちはなかった。
あんな一件があったけど、やっぱり入りたいのは俳優座。こうして見学するのも、その目標を叶えるためのお勉強の一環……のはずだった。でも運命は分からない。この日、おチビちゃんの価値観はグラングランと思いっきり揺さぶられることになる。
まずはレッスンの場所。てっきり練習場や体育館のようなところを予想していたが、そこは仲代さんの自宅だった。びっくりしつつ、いかにも「お邪魔します」という感じで上がらせてもらう。
ぐるりと輪になって座っている生徒さんの数は十人前後。みんなおチビちゃんより年上のオトナだ。指導をするのは仲代さんの奥様で、無名塾の創立者である宮崎恭子さん。以前、ロシアの戯曲『森は生きている』で、その姿を観たことがある。その彼女の指導が本当に凄かった。
先に生徒が自分の課題――例えばあるシーンの抜粋――を披露し、それに対して宮崎さんがレッスンをつけるという個別指導制。これを人数分繰り返す。参加者全員で決まった課題を完成させる、という今まで受けてきたセミナーとはまったくスタイルが違った。
もちろん違うのは形式だけではない。生徒一人一人に対する宮崎さんの指導やアドバイス、そしてダメ出しは「気持ち」に関することが最も多かった。一番大事なのは、その台詞から伝わってくる気持ちは何なのか、ということ。それまでそんな話をしてくれる人はいなかった。
――大切なのは容姿やテクニックではなく気持ち。
それは、ともすれば「技術ありき」と思いがちな、まだ若いおチビちゃんへのダメ出しだったのかもしれない。とにかく数時間、宮崎さんの言葉に心が震えっぱなしだった。
充実したレッスンも終わって時間は夕方。一斉に生徒さんたちが家の外に出る。一番最後まで玄関に残っていたのは、誰あろうおチビちゃんだった。
別に何か質問をしようと残っていたわけではない。理由は足元にあった。今日履いて来たのは編み上げブーツ。まさか脱ぐとは思っていなかった。しかも長いタイプだから、履くまでやけに時間がかかる。下駄箱の脇に腰を下ろし、慌てながら紐を掛けていると後ろから声をかけられた。
「あら」
「あ、すみません。すぐに出ます!」
「ううん、慌てないでいいのよ」
「?」
「あなた、綺麗な髪の毛してるわねえ」
ありがとうございます、と言いながら立ち上がって振り返る。そこにいたのは宮崎さんだった。驚いて思わず言葉に詰まる。そんなおチビちゃんに彼女は優しく話しかけてくれた。
「あなた、高校生だったわね。どこに入りたいの?」
俳優座です、と正直に答える。ふーん、と言ったきり宮崎さんは真剣な顔でおチビちゃんの全身を観察し始めた。どうしていいか分からず、そのまま立ち尽くす。頭によぎるのは、あの仙川での辛かった記憶。気付けばそのことも喋っていた。ああ、余計なことを言っちゃったかもしれない……。
「うーん」
宮崎さんが首を傾げた。自然と身体に力が入る。
「やめなさい」
えっ、と思わず声が出る。膝から崩れ落ちそうだ。
「うん、多分俳優座じゃないわ。あなたにはね、四季がいいと思う。劇団四季」
人生を変えるきっかけは、大抵こんな風に突然目の前に現れる。もちろん、まだこの時、おチビちゃんは何も気付いていない。ただ宮崎さんの言葉が「女優をやめなさい」という意味ではなかったと分かってホッとしているだけだ。
宮崎さんから直接勧められたことで、劇団四季の存在はおチビちゃんの中で日に日に大きくなっていた。調べたら来月、四季の演劇研究所の入所試験がある。それにあの日の帰りがけ、宮崎さんに素敵な言葉もかけてもらった。
「私は背が小さかったから、いい役にもつけたのよ」
そう言われて初めて気が付いた。宮崎さんは自分よりも小さかったのだ。舞台ではあんなに大きく見えたのに、と驚いていると更にこんな言葉まで――。
「あなた、四季に入ったらいい役がもらえる気がするわ」
嬉しかっただけではない。身長なんか関係ないんだ、と勇気が湧いてきたし、劇団四季への興味も出てきた。
俳優座と民藝はよく観に行くけれど、四季はついこの間観ただけ。市村正親さんの大ファンの友達に連れられ、授業をさぼって観に行った『エクウス』。でも、あれは本当に良かった。苦手なミュージカルではなかったし、何より最初から最後まで飽きない芝居なんて初めてだった。
そういえば芝居好きの両親は、劇団四季の公式ファンクラブ「四季の会」に入っている。案外、縁があるのかもしれない。思いがけず芽生えた「研究所の入所試験を受けてみよう」という気持ちが、大きく育つのに時間は要らなかった。
運良く試験前に公演があるから、それは絶対観に行こう。あと、やっぱり四季だからジロドゥやアヌイなんかの戯曲は勉強しなくっちゃ。そう勢い込んで準備を始めたが、やはり時間が足りない。四季の試験日は、仙川のあの学校の試験よりも早かった。普通だったら焦るかもしれないが、さすがおチビちゃんは大物だ。だったら、ちょうどいい練習になりそうだわ。そう前向きに考えてマイペースを貫いた。
そんなこんなであっという間に本番当日。試験会場は四季の稽古場がある参宮橋。ここまでやったから大丈夫、という達成感なんてない。しかも会場には四季の女優さんが勢揃い。何だかみんな背が高く見えて、おチビちゃんはちょっぴり心細い。
受験番号は六十四番。女性ばかりだけど、みんなの年齢はバラバラ。一番年上っぽい人は三、四十代に見える。もちろん一番若いのは高校三年生の自分。これは間違いない。
一階の待機室で待っていると、四季の女優さんが五人ずつ呼びに来る。呼ばれたら二階に移動して試験開始。さあ、受験番号六十四番、おチビちゃんもいよいよ呼ばれた。
試験科目は「台詞」と「面接」の二つ。まずは「台詞」から。
読むのは当日に初めて渡されるジロドゥ作『オンディーヌ』の脚本。勉強しておいてよかった、と喜ぶ余裕なんてまるでなかったが、読んでいる間は気持ちがよく緊張もしなかった。終わるとすぐさま「面接」開始。こちらはどうもピンと来なかった。事務的というか通り一遍というか、あっさりし過ぎていたのだ。だからおチビちゃんに手応えはなかった。
でも結果発表には行かなければいけない。数日後、母親と二人で試験を受けた参宮橋まで出向いた。時間は正午過ぎ。ちょっと遅すぎたのか、他にそれらしき人影はない。おそるおそる掲示板に近付き探すこと数秒、六十四番が……見つかった。
やった、と喜んだのも束の間。これで終わりではない。まだ二次試験がある。それをクリアして、ようやく心の底から喜べるのだ。事務所で手続きを終えたおチビちゃんは、早速家に帰って準備を始めた。何せ二次試験は「リズム感」「歌」「台詞」「面接」と、一次よりも試験科目が多い。ここまで来たからには絶対受かる! そんな欲が頭をもたげ始めていた。
(第01回 了)
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