ささやかな日常の一瞬を切り取り、永遠の、懐かしくも切ない言語的ヴィジョン(風景)に変えてしまう、『佐藤くん、大好き』で鮮烈なデビューを果たした原里実さんによる連作短編小説!
by 文学金魚
今度は予習をして授業にのぞんだ。わからない単語は、読み方や意味を調べて書き込んでおいたので、わたしの教科書は真っ赤っかだ。
きょうの指名は出席番号順だった。わたしは静かに自分の番を待っていた。
わたしの番号は、久保田くんの次だ。だから久保田くんが読み終えて、先生が次の人の名前を呼んだとき、わたしはつい、はい、と勢いよく返事をしてしまいそうになった。
「津田さん」
先生は実際にはそう言った。津田さんは滑らかな発音で、久保田くんの次の文章を読み終えた。
もうわたしの番がこないのだ、とわかってからも、わたしはしばらくどきどきしていた。
なあ子ちゃんは怒っていた。
「伽耶ちゃんは怒ってないの」
なんで? とわたしがたずねると、なあ子ちゃんは目を丸くした。
「だって」
そして少し口をつぐんだ。
「飛ばされたんだよ」
わたしの胸は少し、ずきんと傷んだ。
「間違えちゃったのかもしれないじゃない」
わたしがいうと、なあ子ちゃんは、
「そんなこと」
と言った。そして頭を抱えた。
「間違えちゃっただけなのかな」
うん、とわたしはうなずいた。
「きっとそうだよ」
なあ子ちゃんはコーヒー牛乳のストローをずるずると吸っている。
焼きそばパンと、コロッケパン、どっちにしようか決められなくて、ずっと考えていた。
「大丈夫?」
二種類のパンをじっと見比べながらだまっているわたしを見て、心配そうに購買のおばちゃんがたずねた。
「大丈夫です」
わたしはうなずいた。
どちらにしようかな、で決めようと思い、心のなかで節をつけながら右と左を交互に指差していると、にゅる、と伸びてきた腕が焼きそばパンをつかんだ。それは最後の一個だった。
その人の会計を終えたあと、おばちゃんはわたしの顔を見た。
「コロッケパンと、牛乳ください」
わたしは言った。やっと決められた、と安心した。
昼休みにもボールを蹴っているサッカー部を見ながら、わたしはコロッケパンをかじっていた。
ぱきん、と小枝の折れる音がして、ふり向くと、宮守くんがいた。
「宮守くん」
わたしは笑った。
「なに食ってるの」
宮守くんがたずねながら、近づいてきた。車椅子に座っている宮守くんは、地面に座っているわたしよりも背が高い。
「コロッケパン。きょうママが寝坊しちゃって、お弁当つくれなくて」
宮守くんは? とたずねると、弁当、と答えながら、ひざの上でお弁当箱の包みを開いた。わたしは立ち上がって、宮守くんのお弁当箱をのぞきこみ、思わず、わあ、と歓声をあげてしまった。
「きれいなお弁当だね」
シュウマイに炊き込みごはん、たまごやき、トマトにブロッコリー。彩りは美しく、食欲がそそられた。
「いいなあ。わたしのママ、料理はあんまり得意じゃないの」
わたしがつぶやくと、食うか? と宮守くんはたまごやきを無造作に箸でつまんで差し出してきた。
だめだよ、とわたしは言った。
「せっかくお母さんがつくってくれたんだから、ぜんぶ宮守くんが食べなくちゃ」
べつに、と宮守くんは言った。
「いつも食ってるし。どうでもいいよ」
そしてたまごやきを丸ごと口に放り込むと、むしゃむしゃと食べた。宮守くんの機嫌がわるくなった気がして、わたしはなにを話そうかと迷ってしまう。
「宮守くん、コロッケパン好き?」
出てきたのはそんな他愛のない問いだった。
「いや」
意外にも、宮守くんは首を横にふった。
「なんで?」
「炭水化物に炭水化物を挟むなんて、気持ち悪いだろ」
わたしは目からうろこがこぼれ落ちる思いだった。そんなふうに考えたことがなかった。
「じゃあもしかして、焼きそばパンも嫌いなの?」
恐る恐るたずねると、宮守くんはうなずいた。
「そうなんだ」
わたしは紙パックの牛乳のストローを吸った。牛乳は冷たくて甘かった。
今度の授業では座席の順に当てられた。例のごとく、予習はしてあった。
わたしは息を潜めて、窓際の席で待っていた。いまか、いまかと思うあまり、廊下側の席がいやに遠く感じられた。
どこまで行ったかな、と目をやると、視界の隅でなにかが動いた気がした。わたしは、よく目を凝らしてみた。
それは、小さな人だった。廊下側から、窓際のわたしの席まで、まっすぐに一生懸命走ってこようとしている。でもあまりにも小さいので、なかなか近づけない。
がんばれ。
わたしはいつの間にか、両手を固く握りしめ、小さな人を見守ってしまう。小さな人は、よく転ぶ。そのたびに、ふたたび立ち上がり、両膝を払ってまた走り出す。
あまりにも小さな人に夢中になっていたので、わたしの目の前の女の子が突然立ち上がったときにはおどろいた。磯貝さんはほかの四人のクラスメイトたちと一緒に前に出て、英作文を板書しはじめた。
それぞれが書き終えて席に着くと、先生は解説を加えながら、黄色いチョークで採点をしていく。
次がわたしの番だ。わたしはどきどきしはじめた。小さな人の姿を探したけれど、もう見つからない。
「それじゃあ、次の問一は」
先生が言った。
「神谷さん」
なあ子ちゃんの名前だった。問二、問三、問四、まで行ったところで、
「先生」
なあ子ちゃんが言った。
「潮崎さんは?」
潮崎さん? と先生は言った。
「あら、やだ、飛ばしちゃってた?」
じゃあひとつずつずれて、問一が潮崎さん、問二が神谷さん、問三が――。
わたしはゆっくりと立ち上がって、黒板に向かっていった。頭のなかがぐるぐる回った。黒板の前で、持ってきたノートに視線を落としてみると、そこにさっきの小人がいた。小人は肩で息をして、両膝の上に両手をついていた。
「伽耶ちゃん、大丈夫?」
いつまでもチョークを持たないわたしの顔を、なあ子ちゃんが隣から心配そうにのぞきこんだ。
「潮崎さん」
先生はぴしゃりと言った。わたしは白いチョークを手にとって、思うままに書いてみた。
気がついたら、ほかのみんなは席に戻っていて、わたしは最後のひとりになっていた。わたしはチョークを置いて、席に戻った。指先に白い、細かい粉がついていた。
「なあ子ちゃんは怒ってるの。それで、怒っていないわたしに、もっと怒るべきだって言うの」
わたしはそんなことよりも、なあ子ちゃんと楽しくお弁当を食べたりおしゃべりしたりしているほうがよかった。
宮守くんはなにも言わずに、部活動の生徒たちを見ていた。わたしもそうしていた。すると時間が何倍にも引き伸ばされて、いつからここにいたのかよくわからない気分になってきた。
「キウイ」
突然に宮守くんが言った。
「見に行くか?」
「いつもいるの?」
びっくりしてわたしはたずねた。さあ、と宮守くんは首をかしげた。
「運がよければ会えるし、悪ければ会えない」
行く、とわたしが言うと、ようし、と宮守くんは言った。
わたしはただ宮守くんについて歩いた。宮守くんは裏口から学校を出ると、二、三度くねくねと道を曲がって、バス停に出た。バス停は、中華料理屋の前だった。
五分も待つと、バスがやって来た。運転席の上にある、行き先を示す文字が、「キウイ」と書いてあるように見えた。まさか、と思って目をこらしたけれど、窓ガラスがきらり、と太陽を反射して光って、よく見えなかった。
宮守くんは、運転手さんに定期券を見せた。運転手さんは、うなずいた。わたしは小銭をじゃりん、じゃりんと入れた。
乗客はわたしたち二人きりいなかった。宮守くんは窓の外をながめている。
「宮守くん」
わたしは話しかけた。
「きょう、学校でいいことあった?」
べつに、と宮守くんは答えた。
「言うと思った」
とわたしは言った。宮守くんはそれを聞いて、少し笑った。
「おまえは?」
うーん、とわたしは考える。
「きょうはね、若林くんの誕生日だったの。それで、花岡さんがケーキをつくって持ってきてね、昼休みに、電気を消して、グラウンドで遊んで帰ってきた若林くんを、みんなで驚かしたの」
ふうん、と宮守くんは言った。楽しかった、とわたしはつぶやいた。
「宮守くんの誕生日はいつ?」
先週、と宮守くんは答えた。
「うそ!」
「本当。水曜日」
わたしは知らずに宮守くんの誕生日をやりすごしてしまったことをとても残念に思った。先週の水曜日、わたしはなにをしていただろうか。ちっとも思い出せない。水曜日、わたしは宮守くんに会ったのだろうか。
プレゼントをあげなければ、と思い至って、わたしはかばんのジッパーを開けてのぞいた。ノートに教科書、ペンケース。お財布、折りたたみ傘、ポーチ。
「あ」
声をあげたわたしを、宮守くんがふり返った。
「これしかないけど、あげる」
それはきょうのお弁当のみかんだった。おなかがいっぱいになってしまったので、あとで食べよう、と思ってかばんにしまっておいたら、その「あと」がこなかった。
宮守くんは呆れたように笑った。
「ありがとう」
「どういたしまして」
二十分ほどバスに揺られると、車窓から海が見えてきた。この景色、前にも見たことがあるような気がする。
「あ」
引っ越しの日に、初めて宮守くんを見かけた場所だった。
宮守くんは手を伸ばして、バスを停めるボタンを押した。ぴんぽん、という、乾いた丸い音が鳴って、
「次、停まります」
と女の人が言った。そういえば、運転手さんはひとこともしゃべっていない。
ぶろろろ、と音をたてて、からっぽになったバスは走り去っていった。あのバス、いったいどこまで行くんだろう。わたしと宮守くんは、浜辺に取り残された。
「キウイ、ここに出るの?」
宮守くんはうなずいた。
あの日も宮守くんはキウイを待っていたんだ、わたしは思って、ひとりで感慨深くなった。
「なに、にやにやしてるの」
宮守くんがたずねた。
「べつに」
とわたしは言った。
「いまの、べつにっていうの宮守くんの真似だよ。気づいた?」
宮守くんはいやそうな顔をして、知らね、とつぶやいた。
「どうしたらいいの?」
「なにを?」
「キウイをおびき寄せるには」
宮守くんは首をかしげた。
「どうもしなくていいんじゃない?」
わたしは宮守くんのとなりに、体育すわりをした。
横を向くと、ひじかけの外にこぼれた宮守くんの手のひらが、すぐ目の前にある。
「宮守くんは、どうしてキウイが好きなの?」
わたしがたずねると、好きなわけじゃない、と宮守くんは言った。
「好きじゃないのに、どうして待ってるの?」
なんでだろうな、と宮守くんは言った。わたしは宮守くんの答えを待っていた。
「なんとなく、安心するからかな」
「それは好きってことじゃあないの?」
「そうなのかな?」
よくわからない、と宮守くんは言った。
「おまえはキウイを見たら、どうする?」
わたしは考えてみた。でも、わからなかった。
「わからない」
わたしは答えた。どうしよう、という恐れの気持ちがあまりにも声に出ていたのか、宮守くんは少し笑って、
「まあ、大丈夫さ」
と言った。そのときに考えればいいさ。
太陽が水平線の十センチほど上まで落ちてきた。あたりは少しずつ暗くなってきた。キウイは現れなかった。
わたしが自分で自分の腕を抱いていると、
「寒いか?」
宮守くんがたずねた。
わたしは首を横にふった。
「帰るか?」
また宮守くんがたずねた。
わたしは首を横にふった。
宮守くんはリュックサックのなかから薄手のカーディガンを取り出して、わたしに放ってきた。
寒くないって言ったのに。
でもわたしはそれに袖を通した。
わたしと宮守くんは、水平線に太陽が吸い込まれていく様子を、じっと見ていた。少しずつ、下のほうから欠けていった太陽が、じわじわと四分の三になり、半分になり、最後はほんのわずかだけ頭をのぞかせたあと、じゅっ、と溶けてなくなった。
その瞬間、あたりは深い闇に包まれた。海は突然、得体の知れない黒い塊になって、わたしたちに迫ってくるように見える。
「宮守くん」
わたしは言った。ざあざあという海の音が、わたしの声をかき消している気がした。
「怖い」
大丈夫、宮守くんは言って、わたしの頭の上に手のひらを載せた。
「怖くないよ」
その瞬間、海の水のなかから、ざばり、となにかが飛び出した。
わたしは反射的に、息を止めた。
そのなにかは少しずつ高度を上げながら、わたしたちの目の前を横切り、岩礁の上に鬱蒼と茂る松林のなかへと消えていった。
「宮守くん」
わたしは宮守くんを見た。宮守くんはうなずいた。
わたしはしばらく、ぼうっとしていた。わたしの頭の上に手のひらを載せたまま、宮守くんもぼうっとしているようだった。
明日も学校だ、とわたしはそのときになって思い至った。でもまだあと少しだけ、このままでいたいような気がした。
(後編 了)
縦書きでもお読みいただけます。左のボタンをクリックしてファイルを表示させてください。
*『原里実連作短編小説』は毎月11日にアップされます。
■ 原里実さんの本 ■
■ 金魚屋の本 ■