ささやかな日常の一瞬を切り取り、永遠の、懐かしくも切ない言語的ヴィジョン(風景)に変えてしまう、『佐藤くん、大好き』で鮮烈なデビューを果たした原里実さんによる連作短編小説!
by 文学金魚
その人を初めて見たのは、引越しの日だった。
「もうすぐ着くぞ」
パパに言われて、後部座席で目を覚ました。まぶしかった。窓からの光が、横になっているわたしの顔をまっすぐに照らしていた。
からだを起こしたら、すぐそこに海が見えた。
「わあ」
窓を開けると、潮の匂いのする風が、ぶわっと舞い込んできた。
「テ……ようにね」
ママがなにか言っているけれど、びゅおびゅおと風の吹き込む音と、すぐ近くを通り過ぎるバイクのエンジンの音でよく聞こえない。わたしは楽しくなって、おなかの底から笑い声がこみ上げてきた。
砂浜の上に、なにかが見えた。わたしはじいっと、それを見ていた。それはどんどん、視界のなかで大きくなってくる。
男の子だった。車椅子に座った男の子が、海岸線のずっと向こうを見ているのだ。わたしはその子をじっと見ていた。その子はだんだん大きくなって、その背中の真うしろを、わたしは通り過ぎた。それから今度はどんどん小さくなり、道の向こうに見えなくなった。
窓を閉めると、急にしん、と静かになった。
「伽耶」
助手席に座っているママから腕が伸びてきて、風でめちゃくちゃになったわたしの髪の毛を直してくれた。わたしは鼻がむずむずしてきて、くしゃみをひとつした。
二度目に会ったのは、始業式の日だった。わたしはママに連れられて職員室に登校し、先生に引き渡された。担任の先生は、髪の長い女の人で、英語の先生だった。職員室から、わたしは教室へ向かった。わたしのクラスは一年二組だった。
自己紹介というのが、わたしは苦手だ。
席は窓側の、前から二番目だった。そこに落ち着いて、ふと外を見たとき、そこにその人がいたのだ。
「あ」
わたしはおどろいて、思わず立ち上がった。
「どうしましたか」
先生が言った。
「あ、いえ、なにも」
わたしはもう一度席についた。その人が中庭を横切っていくところを、ぼんやりとながめていた。
こんにちは、と声をかけたとき、その人はおどろいたような顔でふり返った。こんなところまで、人がやってくると思っていなかったのだろう。
わたしは昇降口から、静かにその人のあとをついてきた。その人は、裏門のすぐ脇から、校舎とフェンスのあいだの細い道をくねくねと、勝手知ったるふうでここまでやってきた。
陽当たりがよく、小高い場所からグラウンドのようすが見える、天然の隠れ家のような小さなスペースだった。
そこに突然闖入してきたわたしを、その人はするどい目つきでにらんだ。すこし、ひるんでしまいそうになったけれど、思い切ってつづけた。
「わたし、伽耶です」
けれどその人は、ぷい、とわたしから顔をそむけた。
「お名前は、なんですか」
わたしは辛抱強く、待った。しばらくするとその人は、
「なんでおまえに名乗らなきゃならない」
と言った。なんでだろう、とわたしは考えた。
「知りたいから」
とわたしは言った。その人は不審そうな目で、わたしを見た。
「おまえ、なんだ」
その人はわたしにたずねた。さっきも言ったけど、聞こえていなかったのかな、と思って、
「わたし、伽耶です」
わたしはもう一度言った。
「あなたは?」
その人は、呆れたような顔でわたしを見た。
「……ミヤモリ」
小さな声でその人は言った。
「ミヤモリくん?」
どんな字を書くんだろう、とわたしは思った。
「なにを見てるの?」
わたしはたずねた。ミヤモリくんの視界のなかでは、部活中の生徒たちが球を蹴り、投げ、その周りで木々が風に吹かれて揺れていた。
「べつに」
ミヤモリくんは言って、車椅子を両手でこぎながらいなくなってしまった。
わたしのお世話係として、ひとつうしろの席の女の子が任命された。日直や委員会の制度や部活の種類など、ひととおり説明してくれて、
「なにかわからないことがあったら、いつでも訊いていいから」
と言った。
「あの、ひとつ訊いていい?」
「なに?」
「名前、なんていうの?」
ああ、ごめん、と謝ってから、
「なあこ」
と彼女は言った。
「なあこちゃん」
「うん」
「どんな字書くの?」
「奈良の奈に、アジアのアに、子どもの子」
アジアのア? 奈ア子? たぶん、違うのだろうという気がしたけれど、とりあえずわたしはうなずいた。
「それともうひとつ、訊きたいことがあるんだけど」
「なに?」
「この学校にいる、車椅子の男の子のこと」
わたしが言うとなあ子ちゃんはすぐにわかったようで、
「ああ、ミヤモリくん」
と言った。
「ミヤモリくんって、どんな字、書くの?」
「お宮参りの宮に、守る」
なあ子ちゃんは教えてくれた。宮守くん。
「そうなんだ」
わたしは言った。ほかにももっと、宮守くんについて知りたいことがあったけれど、なにを訊いたらよいのかわからなかった。
だまっていると、
「なんで?」
なあ子ちゃんのほうがわたしにたずねた。
「なんでって、なに?」
「なんで、宮守くんのこと訊いたのかなって思って」
「うーん」
わたしは考えた。
「宮守くんのこと、知りたいなって思って」
なあ子ちゃんはそれを訊いて、ちょっと笑った。
「ふうん」
「なんで笑ったの?」
今度はわたしがたずねた。
「潮崎さんっておもしろいね」
わたしは不思議な気分になった。おもしろいなんて言われたのは初めてだ。
「宮守くんは、三年四組。車椅子に乗ってるのは、中学生のときに事故にあったから。宮守くんちは西の、海のほう」
なあ子ちゃんはしゃべり出した。
「あの辺りではキウイが出るって言われてる」
「キウイ?」
「鳥の」
鳥のキウイ。初めて聞いた。
「あたしはこのくらいしか知らないけど」
なあ子ちゃんは言った。このくらい、だなんて、わたしには十分すぎるくらいだった。
「ありがとう」
「どういたしまして」
鳥のキウイについて調べに、放課後図書室へ行った。この学校の図書室は、大きい。はしごに登らないと届かないくらい上のほうまで、本がいっぱいに詰まっている。
こんなにたくさんある本のなかから、どうやってキウイのことを調べればよいのかわからなかったので、わたしはカウンターの人に相談した。
「あの」
わたしが声をかけると、カウンターに座っていた女の子は、読んでいた本から顔をあげた。
「鳥のキウイについて、知りたいんですけれど」
女の子はうなずいて、重たそうな四角いコンピュータに向かって、なにやら打ち込んだ。そして画面をのぞきこみ、納得したようにうなずくと、カウンターの外に出てきた。
女の子はなにも言わなかったけれど、わたしはきっと女の子についていったらいいのだと思って、そうした。女の子は迷路のように入り組んだ本棚のあいだをするするとすり抜けて、目的の場所にたどりつくと、一冊の分厚い図鑑をするりと取り出して、わたしに手渡してくれた。
「ありがとうございます」
女の子は満足そうにうなずいて、もと来た道をするすると帰っていった。あの子なしで、ひとりで帰れるかしら、とわたしはすこし心配になった。
わたしの腕のなかにあるのは、鳥の図鑑だった。目次を開いて、キウイのページを探していると、本棚の棚板と本の隙間から、向こう側にちらりとなにかが覗いた気がした。
なんだろう、と反対側に回ってみると、それはちょうちょだった。白いレースのような、透けた羽をしていた。
ちょうちょは本棚のあいだを頼りなく飛んでいる。ときどき本の背にとまって休憩しながら、ゆらゆらと進みつづける。
ちょうちょのあとについて、いくつめかの角を曲がったとき、ぱっと視界が明るくなった。図書室のまん真ん中に出た。天井の大きな丸窓から明るい光がさしこんで、その下に、ベンチが円を描くように置かれている。そこに宮守くんがいた。
わたしはおどろいて、ちょうちょを探した。もうどこにもいなかった。わたしは宮守くんに気づかれないように、静かにベンチに座って、図鑑を開いた。宮守くんは、なにかの本に夢中になっていた。
キウイのページを見つけたけれど、宮守くんのことが気になって、内容があまり頭に入ってこなかった。キウイのとがったくちばしと、手触りのよさそうな体毛のようすは、まぶたの裏に焼きついた。
わたしは図鑑を見るふりをしながら、宮守くんのようすを伺った。
ちらり、と何度目かに視線をあげたとき、目が合ってしまった。
宮守くんはそのとき初めてわたしに気づいたようで、あからさまに顔をしかめたあと、なにごともなかったかのようにふたたび本に視線を落とした。わたしはしばらく、キウイをながめつづけた。でもやっぱりがまんならなくなって、図鑑を閉じた。そして宮守くんに近づいていった。
「あの」
話しかけると、宮守くんは迷惑そうな顔でわたしを見た。
「なに読んでるの?」
それでも宮守くんは表紙をわたしのほうに向けて、見せてくれた。ミヤモリくんが読んでいたのは、昔の作家の難しそうな文学全集だった。
「どうして、読んでるの?」
べつに、と宮守くんは言った。わたしは、前にも、宮守くんがべつに、と言っていたことを思い出した。
「キウイについて調べに来たの」
わたしは言った。
「宮守くんの家の近くでは、キウイが出るって、ほんとう?」
たずねてみると、宮守くんはうなずいた。
「何回か見たことある。去年の夏も、一回」
宮守くんが、初めて自分で話してくれた。わたしはうれしい気持ちになって、
「そうなんだ」
と言った。でも、キウイのおかげでほんの束の間解かれた気がした宮守くんの眉間のしわは、またすぐにぎゅっと元に戻ってしまった。わたしはどうしたらよいかわからずに、だまっていた。
「おまえ」
宮守くんが言った。
「なんで、おれに構うんだ」
なんで。どうしてそんなことを訊くんだろう、と思った。そんなのは、
「宮守くんのことが、知りたいから」
に、決まっている。
「おれはそんなこと訊いてるんじゃないんだよ」
けれど宮守くんは言った。
「違うの?」
わたしは宮守くんの言っていることがわからなかった。
「おまえ、バカなの?」
バカ。宮守くんはそう言った。
そうかもしれない、とわたしは言った。
「みんなにもときどき、そう言われるから」
わたしがそう言うと、宮守くんはだまってしまった。わたしは図鑑に視線を落とした。そこにはキウイがいた。とがったくちばしと、つぶらな瞳があった。
キウイが帰り道を教えてくれたので、わたしは迷わずに図書室から出ることができた。図鑑はカウンターの女の子に返した。
授業中に、ぽんぽん、と肩を叩かれて、ふり返った。
なあ子ちゃんはなにも言わずに、わたしに小さな紙を手渡した。
「宮守くんと話したの?」
そこにはそう書いてあった。
「話した」
わたしはHBの鉛筆でそれだけ書いて返した。
「よかったね。なに話したの?」
なあ子ちゃんはそう返してきた。なにを話したのだったか。わたしは数日前の会話を思い返してみた。
「キウイの話とか」
とわたしは書いた。満足に会話と呼べそうな会話は、そのくらいしか思い出せなかった。
見たこともないような、ちょうちょがいたことをぼんやり覚えている。でもいま思い返してみると、あのレースみたいなちょうちょは果たして本物だったのかどうか。
「潮崎さん」
ちょうちょのことを考えていると、急に名前を呼ばれた。わたしはびっくりして顔をあげた。わたしの名前を呼んだのは、先生だった。
「次の文章、読んで」
髪の長い先生が、眼鏡の向こうから鋭い目でわたしを見ていた。
「ええっと」
わたしは慌てて教科書に視線を落とした。
「立って」
先生は言う。わたしは勢いよく立ち上がった。
鼓動が早くなり、頭にからだじゅうの血が集まってきているような気分になる。教科書の上のアルファベットが、ばらばらになって、好き勝手に踊っているようだった。隣の席の男の子が、わたしが読むべき文章の位置を指差して教えてくれた。
「アイ――」
「もういいです」
先生は次の子を指した。次の子は、すらすらと読んでみせた。
「よろしいです」
と先生は言った。わたしは静かに着席した。
しばらくすると、もう一度肩を叩かれた。なあ子ちゃんから渡されたメモには、
「ごめん」
と書いてあった。
「いいよ」
と書いて、わたしは返した。
宮守くんはいつかと同じように、校庭をぼんやりとながめていた。野球部の生徒たちが、掛け声をあげながら走っている。
わたしは右手の、かばんを持つ手にぐっと力を込めて、でもやっぱり宮守くんに声をかけることはできずに、きびすを返してとぼとぼと歩きはじめた。
なんのためにここに来たのだろう、とわたしは思った。
「おい」
うしろから声が聞こえた。わたしはこわくなって、少し早足で歩いた。
「おい」
もう一度声がした。おそるおそる振り向いてみると、宮守くんがこちらに向かって車椅子をこいでくるところだった。わたしは立ち止まった。宮守くんはするすると、わたしのすぐ近くまでやって来た。
宮守くんは正面からわたしのことをにらむきりで、なにも言わない。勝手にここに来たことを怒っているのかもしれない、と考えていると、
「帰るの」
宮守くんはたずねた。宮守くんが、わたしに、質問をしている。
わたしは慎重にうなずいた。
そうか、と宮守くんは小さな声で言った。
「このあいだは、悪かったよ」
宮守くんが、わたしに謝った。わたしはおどろいて、声が出なかった。
「なんか言えよ」
宮守くんはぶすっとした顔で言った。
「えっ、なにが?」
わたしがたずねると、
「なにがって、なにが?」
宮守くんは怒ったように言った。
「どうしていま、わたしに謝ったの?」
宮守くんは口をつぐんだ。みるみる顔が赤くなった。
「悪かったなって思ったから」
「なにを?」
「このあいだ、バカだって言ったこと」
ああ、とわたしは言った。
たしかに宮守くんはこのあいだわたしにそう言った。わたしは悲しかったけれど、いままでそのことで謝られたりしたことがなかったので、ぴんとこなかったのだ。
「ありがとう」
わたしは言った。
「なにが?」
今度は宮守くんがそうたずねた。
「ごめんねって言ってくれて」
ああ、と宮守くんは言った。わたしはなんだかおかしくて、ちょっと笑った。
(前編 了)
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