僕の住む街に、隠れ家のようなブックカフェがある。そこで僕は何かを取り戻してゆく。導かれるように求める何かに近づいてゆく・・・。ルーマニア人能楽研究者で翻訳者でもある、ラモーナ・ツァラヌさんによる、本格的日本語小説処女作!
by 文学金魚
好きで選んだ職なのに、僕は空しさとと苛立ちを抱えていた。仕事が忙しく、何を成し遂げても達成感を得られなくなっていた。
会社を出て地下鉄に乗り、自分のマンションまで歩いていく。まっすぐには帰りたくなかったから、しばらくぶらぶら歩くことにした。普段見る余裕もない街の灯りに目を馳せながら頭を空っぽにしていた。
さびれた商店街で、にぎやかなのは小さな食事処や居酒屋だけだ。中は明るく、笑い声や会話が聞こえてくる。人が集まるところはどこも温かく、楽しく見えてしまう。
友達や仲間と一緒にあんな風に楽しく飲んだのは、どのくらい前だったっけ?
最近ずっと、仕事を言いわけに飲みに行く誘いも断っていた。忙しいのは本当だけど、仕事に没頭することで、なにかから目をそらしていた。
ベッドに横たわって眠りに落ちるまでの、疲れで頭の中がごちゃごちゃになっている時間、そういった時間がいくつも積み重なって、やっと気づいたんだ。
自分はどこにもいない。
仕事している時も、人付き合いの中でも、ちょっと前までの自分とは違う自分が動いたり、話したりしていた。
いつごろからすり替わったかも分からない。ただ昔の思い出の中にいる自分と今の自分が別人みたいだった。自分は自分だと言い聞かせても説得力はゼロで、僕はやはり何か大切なものを失っていた。
その大切なものは何だったのか、記憶をたどれば分かるはずなのに、分からない。もしかしたら、それを追い求める力も失くしていたのかもしれない。目の前にあるのに見えないという、昔話に出てくる悪い魔法をかけられた人のようだった。
商店街を通り過ぎて歩いてゆく。引っ越してきたばかりでなじみのない町だが、住宅街はどこも同じだ。街と公園に挟まれた丘を登ってゆくと、途中に小道があった。突き当たりに家があり、そこだけは明るい。ドアをはさんだ二つの窓から柔らかい光が前の道を照らしていた。住居ではなく何かのお店らしかった。
近づいてみると、すぐに光の元がわかった。右と左の窓際にステンドグラスのランプが飾ってあって、外に向けて温かい光を放っていた。ランプの向こうを覗くと本が並んだ棚が見えた。玄関に置いてある立て看板に蛍光チョークで「時空堂」とあり、その下に小さく「ブックカフェ」、それに簡単なメニューが書いてあった。素敵なたたずまいのお店だった。僕は入ってみることにした。
ドアベルが明るい音を響かせたので、すぐにお店の人が出てくると思ったが、中はしんとしていた。お客の気配もない。玄関に立って店内を見回すと、天井の高い両側の壁は全て本棚に覆われていた。店の真ん中に背の低い本棚が二つ並んでいて、奥に続く通路を作っていた。棚も床も艶々のブラウン色に磨き上げられシックだ。玄関の左側に大きなカウンターがあり、左右の本棚に沿って、それぞれアームチェアと椅子二脚の丸テーブルが並んでいた。どうやら五人しかお客の入れないお店のようだ。店内はぜんぶ間接照明で、とても落ち着ける雰囲気だ。
『地底旅行』!
懐かしい本のタイトルが目に入って、思わず手を伸ばした。中学生の頃、ジュール・ヴェルヌの小説に夢中だった。『海底二万里』、『少年船長の冒険』、『気球に乗って五週間』。でも一番のお気に入りは『地底旅行』だった。チラリと見ると、ヴェルヌの全部のタイトルが揃っていた。
開いた本は昔の版だった。子どもの頃に見たのと同じイラストだ。この黒と白のスケッチが、どれだけ僕の想像をかきたて、遠い国や空想の中にしかない国のことを夢見させてくれたことか! 急いでページをめくってイラストレーターの名前を探した。そうか、エドゥアール・リウー、リウーさん。ちゃんと名前を覚えておこう。子どもの頃は、この絵がどれほど美しいのか、どれだけ貴重なのか分かっていなかった。だから画家の名前も覚えようともしなかった。でも今は違う。
「あら、いらっしゃい」
店の奥から声がした。
「あ、お邪魔してます。勝手に入っちゃいました」
しゃがんで本棚の下の方を見ていたので、立ち上がって挨拶した。奥からおばあさんが歩いてきた。急いでいるようだが、お年のせいか動きはゆっくりだった。白いシャツに深緑色の長いスカート、そして細い肩に、ブラウン色の編み物のショールを羽織っていた。髪の毛が真っ白で、きれいにアップされていた。おしゃれなおばあさんで、顔に深い皺が刻まれていたけど、若い頃は美しい人だったのだろうと思った。
「すみませんね。お客さんはもう来ないだろうと思って、となりの部屋で居眠りをしてしまって。年ですね」
カウンターの下からお盆とグラス、それに水の入ったピッチャーを取り出しながらおばあさんが言った。遅い時間といっても九時過ぎだった。
「素敵なお店ですね」
「気に入っていただけましたか。それはよかった」
深みがあり、耳に心地いい声だ。
「おばあさんがオーナーさんですか?」
「クララと呼んでください」
きっぱりとした声で店主が言った。あ、しまった、おばあさんなんて言ってしまった。カウンターに両手をついて背筋を伸ばしたクララさんを見ると、青い目だった。僕はまたハッとした。ちょっと焦りながら「失礼しました! クララさん、僕は加賀谷と言います」と自己紹介した。
「好きな本を見つけたら、腰かけてゆっくりお読みください。お飲み物は何にしますか?」
「じゃあ紅茶を」
「何かお食べになります? サンドイッチかおにぎりなら、すぐに作れますけど」
「それじゃ、サンドイッチもお願いします」
夕食をまだ食べていなかったのだ。
「ちょっとお待ちくださいね」と言うとクララさんはお店の奥に向かった。
まずどんな本があるのか見なくっちゃ。僕は本棚に沿って歩いた。本は分かりやすくカテゴリー別に並べてあった。左側の壁の手前に心理学と哲学、真ん中あたりに歴史の本、奥の方には美術史や美学の本があり、画集や写真集などの大型本は下の棚に並べてあった。背の高い本棚なので、上の方に何があるのかはわからなかった。ただとても古そうな本だった。
「ああ、そうそう」
「わっ」
廊下の奥からいきなりクララさんが顔を出したのでびっくりした。「あら、驚かせてごめんなさい」クララさんは笑いながら、「上の棚の本は、そこのカタログにまとめてあるから、見たい本があれば言ってください。取ってあげますからね」と言った。まるで僕の心を見透かしているようだった。
クララさんが目で示した黄色いカタログを手に取ると、色々な国の文字が並んでいた。アラビア文字やキリル文字は読めなかったが、英語やフランス語、ドイツ語はなんとかわかる単語があった。中世のヨーロッパの伝説や、錬金術の本などもあるようだった。
ここは最近街で増えてる普通のブックカフェとはぜんぜん違うな、と思ってカタログを閉じた。クララさんの本に囲まれていると、彼女の心の中にいるようだった。僕はお店の奥を見た。奥の右側にドアがあり、その先がキッチンらしかった。食器を動かしたり、まな板で何かを刻む音がかすかに聞こえた。左側に螺旋階段があって上階に続いていた。その手前に梯子が置かれていた。上の棚の本を取るためのものだろう。
右側の壁を眺めてゆくと、小説の棚だった。英語やフランス語やドイツ語の小説もあった。奥までずっと小説が並んでいた。「あれ、詩は?」と思ってもう一度店内の本棚を見回した。
店の真ん中の本棚は二列あって、一方には冒険小説や昔話や童話が並んでいた。それをさっき見たのだった。もう一方の棚を覗いてみると、やはり詩の本がたくさんあった。現代から古典までの、世界中の詩の本が並んでいた。
生きていると、意味をなさないような、理不尽な状況にしばしば出会う。詩だって同じようなものだ。読んでもよくわからないことが多い。だけど詩には混乱から抜け出すための、かすかな光の道筋のようなものがある。大学時代にはそんな光を求めてずいぶん詩を読んだ。でも詩を読まなくなったのはいつ頃からだろう?
棚の本をザッと見てから、一冊を手に取って読書ランプがついたアームチェアに座った。選んだのはラテンアメリカの作家の詩集で、十年以上前に読んだことがあった。内容はよく覚えていないが、深く心動かされた詩行があったはずだ。あの時の感情をよみがえらせることができたら、どんなに素敵だろう。
お茶とサンドイッチを持って、クララさんが近づいてきた。となりの小さなテーブルの上に食器を置いてお茶を注いでくれた。
「ごゆっくり」と言うとカウンターのほうに向かった。
「あの、このお店は何時までやっていますか?」
「午後十一時までです」
まだ十時前だった。あと一時間はゆっくり本が読める。一時間あれば、僕は昔の僕を、ちょっとだけ取り戻せる気がした。
(上編 了)
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*『時空堂』(全3回)は毎月20日にアップされます。
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