鶴山裕司講演
鶴山裕司:1961年富山県富山市生まれ。明治大学文学部卒業。詩人、小説家、評論家。
鶴山裕司氏の評論集『日本近代文学の言語像Ⅱ 夏目漱石論-現代文学の創出』刊行を記念して、二〇一八年五月二十四日に立教大学で行われた講演『池袋モンパルナスの画家たちの苦しみと喜びをともに』を掲載します。『漱石論』は十二月一日刊行です。
文学金魚編集部
主催:立教大学
日時:二〇一八年五月二十四日 午後六時三十分~八時
於:立教大学一号館一二〇三教室
Ⅲ 画家と戦争責任
今日はけっこう図版スライドを用意してきたんですが、あんまりお見せしてないですね。これからちょっと突っ込んで画家の戦争責任についてお話したいと思いますが、まず代表的な戦争画、いわゆる翼賛絵画を見てみましょう。
これは川端龍子の『香爐峰』という作品です。龍子旧居で今は大田区龍子記念館になっている美術館に行けば見られます。ばかでっかい絵です。縦二四二・五センチ、横七二六・五センチもある。昭和十四年(一九三九年)作で、龍子は日華事変に従軍画家として同行してこの絵を描きました。こういった戦争画が戦中に日本各地を巡回して、戦意高揚に利用されたのです。しかしこの作品、単純に〝戦意高揚を目的として書かれた絵〟だと言えるんでしょうか。
龍子は明治十八年(一八八五年)生まれですから、『香爐峰』を描いた昭和十四年に満五十四歳でした。どうもこの従軍の際に初めて飛行機(戦闘機)に乗せてもらったらしい。この絵が奇妙なのは、飛行機が半透明になって背景の風景が透けて見えることです。前衛の意図はないですね。初めて大空を飛んだ、しかも広大な中国大陸を眼下に見ながら空を駆け回った画家の興奮がストレートに表現されています。もちろんそこに満州を植民地化しようとしている日本人の優越感があると言えないことはない。しかしその感覚はあまりにもアッケラカンとしています。絵の大きさも含め、にわか戦闘機乗りになった画家の興奮の方が強い。
龍子の読みは「タツコ」ではなく「リュウシ」、つまり龍の子で、雅名の通り骨太な画家でした。最初洋画家を志したのですが、アメリカ留学の際に日本人が洋画を描くことに限界を感じて日本画に転向しました。しかし日本画に転向してわずか二年で院展に初入選しているのがいかにも龍子らしい。龍子は生涯にわたって洋画に比肩し得る日本画の表現を追い求めました。その表れが大作主義(龍子は自身は「会場芸術」と呼んだ)と時事的絵画です。龍子は従来の日本画は「床の間芸術」じゃないかと嫌ったのです。また社会で話題になった出来事をいち早く絵で表現しました。『金閣炎上』などの作品もあります。
戦争絵画も『香爐峰』だけではありません。自宅の庭に焼夷弾が落ちて、育てていた野菜が吹き飛ぶ様子を『爆弾散華』という作品に描いています。画家の解題を読まなければ単に美しい日本画に見えます。散華は戦死を美化した言葉でもありますから、これもそういう文脈で解釈できないことはない。しかし『平家物語』などに通じる滅びの美を表現していると言った方が近いのではないでしょうか。
絵を見る限り、戦争は龍子にとって「画題」の一つだったと思います。つまり政府や軍部の言う通りに戦意高揚の〝道具〟として描いたのではなく、龍子の内面を通して戦争が表現されている。もちろん杓子定規に言えば龍子は戦争協力画を描いた画家の一人であり、自らの戦争責任についてさしたる釈明もせず戦後の日本画壇に君臨したわけですから、それを批判することはできます。
しかし龍子に「先生は戦争協力者じゃないですか」と詰め寄れば、「祖国が戦っている時には祖国に貢献し、敗戦で平和と決まれば平和国家のために働くのが当たり前だ」と一喝されそうです。今はSNSが一般化して、匿名で他者の言動を痛烈に批判する風潮が問題になっています。しかし相手が目の前に座っている時の批判は勇気と覚悟を必要とします。もし実際に龍子と面座して戦争責任について聞かなければならないとすると、ちょっとゾッとしますね。僕は物故作家であれ批判はその人が目の前にいるつもりで書かねばならない、面と向かって直接本人に言えない批判は書いてはならないと吉岡実に教わりました。龍子は息子を太平洋戦争で戦死させています。様々な意見があっていいですが龍子は一貫している。
ただ画家は龍子のように親分肌で向こうっ気の強い人ばかりではありません。戦争協力画家として戦後最も厳しく批判されたのは洋画家の藤田嗣治でした。池袋モンパルナスの画家たちが憧れた本場パリのモンパルナスにアトリエを構え、綺羅星のような画家たちと密に交流した唯一の日本人画家です。
藤田さん、高い絵の才能をお持ちでしたがボンボンです。大正二年(一九一三年)二十七歳の時に私費でパリに留学しています。熊谷守一は藤田について「たいへんな寂しがり屋で、自分と仲の良い人にはすぐ身内のような感情を持つ人でした」と言っています。「私とはちょっと暮らし向きが違うという感じでした」とも話しています。
お父さんが森鷗外の後に陸軍軍医総監になった人で、お兄さんの奥さんが陸軍大将の娘という縁もあったのでしょう、敵国人としてパリにいられなくなって帰国した藤田は従軍画家に駆り出されます。軍部がパリで画名の高かった藤田を利用したわけです。藤田さんも最初は呑気に構えていて、軍部が欲しがるような絵をなんも考えずに描いていました。でも激戦地の南方に派遣されるようになると絵が変わってくる。
藤田さんの戦争画の代表作『アッツ島玉砕』です。これも異様に大きな絵です。縦百九十三・五センチ、横二百五十九・五センチです。戦時中は画材をも含む厳しい物資統制が行われていましたから、この絵の大きさからも藤田がいかに優遇されていたのかがわかります。寺田政明さんは子供の頃に足を大怪我して戦争に取られませんでしたが、やはり従軍画家の経験があります。しかし当時はあまり有名でなかったのでろくな画材を与えられなかった(笑)。そのため寺田さんの戦争画はほとんど残っていません。彼にとっては幸いだったかもしれません。
『アッツ島玉砕』も戦意高揚画として日本各地を巡回したわけですが、この絵を見て戦意が盛り上がったとは到底考えにくい。徴兵年齢の青年たちは「ああこうやって無残に死ぬんだな」という思いしか抱けなかったのではないか。藤田さんには『サイパン島同胞臣節全うす』という大作もありますが、いずれももの凄く暗い画面です。そこに表現されているのは明らかに〝厭戦〟です。戦争はイヤだなという感情が表現されている。
国立西洋美術館は戦争絵画の一大コレクションを持っていますがその一部しか公開されていません。もちろん戦意高揚の〝道具〟として描かれ、今見ても嫌な感じのする絵も多いのです。しかし戦争が画題になっているからといって戦争翼賛画だと十把一絡げにするのは乱暴です。藤田の優れた戦争画は戦争末期の悲惨を的確に描いています。
池袋モンパルナスを代表する画家の一人、松本竣介は、画家としては珍しく論理的な思考ができ筆の立つ人でした。幼い頃に両耳の聴覚を失って会話でコミュニケーションを取るのが難しかったので、文章による思考方法が身についたのでしょう。竣介は「戦争画を描く画家は、ミリタリストだと言ふ程日本人の常識は低劣ではあるまい。(中略)戦争画は非芸術的だと言ふことは勿論あり得ないのだから、体験もあり、資料も豊かであろう貴方達(藤田嗣治や鶴田五朗を指す)は、続けて戦争画を描かれたらいいではないか。アメリカ人も日本人も共に感激させる位芸術的に成功した戦争画をつくることだ」(『芸術家の良心』昭和二十年[一九四五年])と書きました。
戦争画を描いたから軍国主義者(ミリタリスト)だと批判するのは短絡的であるというのが竣介の主張です。戦争の勝ち負けという要素を取り除けば、戦争画でも優れた絵画はあります。人であれ動植物静物であれ、画家は基本的に同時代の現実を描くのが仕事です。セザンヌは「林檎一個でパリを驚かせよう」と言ったと伝えられますが、画題ではなく、画題がどう絵画として表現されているのかが絵の真価です。
藤田さんは口下手なところがあり、あまりの批判に堪えかねて昭和二十五年(一九五〇年)に再び渡仏してフランス国籍を取得し、フランス人として亡くなりました。二重国籍でいることもできたのですが日本国籍を抹消しています。藤田はしばしば「私が日本を捨てたのではない。日本に捨てられたのだ」と口にしたので剣呑な人の印象があります。しかし藤田さんが好んで描いたのは女性と猫と子供たちです。剣呑な性格の人はこんな絵は描かない。では実際に戦争に取られた画家の絵はどうなのでしょうか。
池袋モンパルナスを代表する画家、靉光が出征前に描き残した三枚の自画像です。靉光のことを考えるとちょっと悲しくなってしまいますね。明治四十年(一九〇七年)広島生まれですが、七歳の時に養子に出ました。高等小学校卒業後に図案職人になりましたが、画家の夢捨てがたく、上京して太平洋洋画会で絵を学びました。その後は独学です。
彼はモンパルナスの画家たちの中で、最も僕らに近い感性を持っていたかもしれません。今でも若者がよくやるように髪をオキシフルで脱色して金髪にしたり、ふざけて女装した写真も残っています。しかし絵に対しては真面目な努力家でした。決して天才肌ではなく試行錯誤を繰り返しています。自己の絵に厳しく、出征前に意に染まない作品を焼き捨て、これはと思う作品を実母の暮らす広島に送った。しかし原爆投下でそれらはすべて失われてしまった。戦争末期の昭和十九年(一九四四年)に招集され、戦争終結の翌年、昭和二十一年(四六年)一月に上海の病院でアメーバー赤痢で死去しました。戦争を生き延びたのに祖国に帰れなかった。
靉光が招集されたのは三十七歳の時です。池袋モンパルナスの画家たちはノンポリで、強制的に軍事教練を受けさせられていましたが、皆適当にやり過ごしていた。同じことが起こったら僕らだってそうしますね。戦局が急激に悪化する戦争末期まで、まさか兵隊に取られるとは思っていなかったのです。誰が考えたって、三十七歳にもなった絵描きをにわか兵隊に仕立てても役に立つはずがない。しかし終戦間際にはこうした異様な事態が当たり前のように行われていました。
自画像を見ると靉光は左利き、ギッチョンです。岸田劉生も左利きだったと思います。靉光自画像は『眼のある風景』と並んで代表作になっていますが、最初からそうだったわけではない。自画像は基本的に売り絵ではありません。絵の練習や新たな表現を模索している時に描く。ましてや靉光は当時有名画家ではなかった。どこの誰ともしれない画家の自画像など買う人はいません。この絵は出征前にモンパルナス系のグループ展に出品されましたが、買った人がいるとすれば靉光の知友か、もしくはよほど絵に目の利く人でしょうね。岸田劉生代表作『麗子像』連作も最初は娘のお誕生日の記念に描かれた。「麗子○○歳の記念に」と文字が入った他人様の娘の肖像画、よほど有名作家作じゃないと買いませんよね(笑)。画題によって絵が駄作や傑作になるわけではないことがよくわかります。
靉光の自画像は大学生くらいから知っていて、僕は漠然とこの絵は反戦絵画だろうと思っていました。パッと見るとそういった雰囲気が濃厚なのです。ところが寺田農さんに「あれは反戦ですよね」とお話したところ、「絶対違う。絵描きはそんな政治的考えなど持っていない」と強く諭されました。寺田さんは絵画の愛好家で画家という人種はもちろん、お父さんの政明さんを通じてモンパルナスの画家たちのことも肌身で知っておられる。実際調べてみると、確かに靉光自画像は確信的な反戦絵画ではありません。
靉光は出征前に謹厳な書体で教育勅語を筆写しました。出征直前には桃田吉五郎に「五月二十一日から兵隊が一人出来上がるのです(中略)絵筆が銃に替るのですから一寸まごつきましょうが頑張ります(中略)周囲の人等は応召、徴用と各方面に動いててる 現在小生一人取残された様な一寸変な気持ちでおりましたが此れでどうにか戦時下の男になれそうです 広島の母も軍人、軍人、と言ってましたから自分の召集で飛上って喜んでいる事と思います」(昭和十九年[一九四四年]五月四日)と書き送っています。
ほかの手紙やハガキを読んでも靉光が反戦の気持ちを漏らした文章はありません。むしろ国難に際して自分もなにか寄与したいという気持ちの方が強かった。今から振り返れば「なんと愚かな」と思われるでしょうが、現実問題として当時の人々には選択肢がなかった。徴兵や徴用を拒否すれば家族はもちろん親戚友人らにも多大な迷惑が及びました。靉光は粛々と時局的使命に従ったのです。また兵隊として靉光が中国人を傷つけた可能性はゼロではない。すべての兵隊は加害者であり被害者なのです。戦争が勝ち負けによってヒーロー、あるいは加害者と被害者を作り出すのも事実です。
ナチス時代のドイツに原爆は投下されませんでしたが、連合軍によって日本の十一倍もの量の爆弾を使った無差別爆撃が行われました。戦争とはいえ尋常じゃないですね。子供たちもたくさん亡くなった。しかしドイツ人は空爆の悲惨を口にしませんでした。ナチスがユダヤ人を虐殺した悪の国家であり、日本と違い国家主席(ヒトラー)が死亡するまで降伏せず、その結果無政府状態になって長らく東西陣営に分断されてしまった敗戦国だからです。最近になってようやくその実態が明らかになりつつあります。
では靉光自画像の一種独特の迫力はどこから来ているのでしょうか。厭戦と言ってもいいのですが、ちょっと違うように思います。一番近いのは小熊秀雄的な〝心の城〟でしょうね。〝なにが起ころうとも俺は俺〟ということです。わたしたちが靉光自画像に眼を奪われるのは、それらが靉光遺作になったというだけでなく、この絵に〝人間の矜恃〟が表現されているからです。なんびとも、国家権力といえども靉光の人間としての矜恃を奪うことはできない。その意味で最も池袋モンパルナス的な傑作の一つです。
小熊秀雄から始めてずっと芸術と戦争の関わりを軸に話していますが、それが池袋モンパルナス理解にそんなに必要なのかとお思いになる方もいらっしゃるでしょうね。是非とも必要なのです。絵画の世界ではほんの少し前までアヴァンギャルド芸術が花盛りでした。戦中の抑圧から解放された西側諸国では、戦後に様々な新たな芸術が生み出されました。日本でも寺山修司や唐十郎のアングラ演劇、土方巽の暗黒舞踏、自由詩の世界の現代詩などが生まれました。絵画の世界では瀧口修造を中心とする実験工房や吉原良治の具体美術協会などが代表的です。
一九六〇年代から七〇年代の日本のアヴァンギャルド芸術は向日的でした。高度経済成長に足並みを合わせるように、芸術にはまだまだ未知の表現領域がある、人間の想像力(創造力)は無限なんだという楽天的な雰囲気に包まれていました。しかし九〇年代以降の高度情報化社会の到来によって風向きが変わってきます。世界はさらに狭くなり、無限に解放された情報の大洪水によって現代的な知はもちろん、過去の知もまた同時代や過去リソースの意外な組み合わせや再生・リニューアルであることが露わになったのです。
芸術家の特権的知性や感受性といった十九世紀的神話はすでに過去のものです。特権的芸術家神話は素早い情報入手などの〝知の囲い込み〟によって生じていた面もあります。そのため情報が平等に解放され始めた現代では新しさとは何か、前衛とはなんなのかが根本的に問われ始めています。そしてこの問いかけは特に、圧倒的に〝後進〟であった日本の洋画の世界では深刻です。
日本の洋画は明治維新から始まった新しい表現であり、ヨーロッパやアメリカ絵画の背中を追いかけていました。瀧口修造や吉原良治らの時代までは間違いなくそうでしたね。彼らは優れた芸術家でありそれはそれで別の機会に論じることもあるでしょうが、欧米アートを信奉していたのは確かです。はっきり言えば欧米の方が進んでいるという根深いコンプレックスを抱いていました。しかし一九九〇年代から二〇〇〇年代にかけて、日本と欧米諸国の文化水準は間違いなく横並びになりました。欧米アートの方が先進的ということはなく、相互に影響を与え合っています。つまりあれほど新しく見えた六〇年代七〇年代日本のアヴァギャルドアートの、どの部分が欧米アートの模倣で、どの部分が本質的に日本美術に寄与するものだったのかが問われ始めています。新しさの評価が次の次元に移った。
もちろん日本の洋画界は、昔から模倣とオリジナリティを巡る省察を繰り返しています。高橋由一はワーグマンの弟子で梅原龍三郎はルノワールの弟子でした。しかし師の教えを超えて日本的な洋画を作り上げたから彼らの作品は日本絵画史に残っているのです。誰もがそうできたわけではありません。例えば佐伯祐三は優れた画家でしたが日本では思うような絵を描けなかった。パリでしか絵が描けないということは、佐伯が日本的な洋画の姿をつかんでいなかったことを示しています。そのため佐伯の評価は梅原らよりも低い。
ただ現在起こっている変化は過去とは大きく違います。日本の洋画に模倣とオリジナリティを探るといっても、もはや欧米アートを指標にできないのです。各時代に限定して欧米アートからの影響を論じることはできますが、現代ではよりストレートに〝日本の洋画はどういうものなのか〟が問われ始めています。この問いに対する答えが欧米アートに比肩できる日本の洋画のオリジナリティということになります。
日本社会は近代以降、巨大な歪みを抱え続けてきました。明治維新以降に政治、経済、法律、軍事、医療、文化、生活全般で起こった急激な欧化が一番の原因です。その嵐の中でわたしたちの優れた先人たちは、圧倒的に正しいとされる欧米文化と日本文化をギリギリのところで折衷させてきたのです。しかし歪みは澱のように沈殿してゆきました。欧米に対する激しいコンプレックスがじょじょに過激な国粋主義を呼び起こし、ついにはあの狂気のような太平洋戦争につながっていったとも言えるほどです。
芸術のジャンルでこの歪みに最も厳しく直面させられたのが洋画の世界です。先進指標としての欧米文化を禁じられても日本画や文学は代替が利きました。天皇陛下バンザイ的な修辞を取り除けば、戦中くらい日本の古典文化の研究・理解が進んだ時期はないのです。しかし洋画は視覚表現です。欧米先進絵画表現を禁じられれば、それはそのまま絵画の〝現代性〟を失うことになりかねなかった。つまり戦中の洋画家たちは、わたしたちが現在直面しているアポリアを先取りするように経験していたと言えます。
池袋モンパルナスの画家たちは、わたしたちが一番思い出したくないあの狂気のような太平洋戦争にモロに巻き込まれました。杓子定規に言えば戦中にはっきり戦争反対の立場を取った者はいない。多かれ少なかれ戦争協力者(翼賛者)でした。それが昭和初期までの洋画家たちや戦後のあっけらかんとしたアヴァンギャルド作家たちに比べ、池袋モンパルナスに暗い影を落としているのは確かです。
また当局の圧力であっさりシュルレアリスムなどの表現を手放したことは、画家としての矜恃を捨てたことにはならないにせよ、シュルレアリスムなど付け焼き刃に過ぎなかったという印象を与えます。実際日本のシュルレアリスムは戦後の瀧口修造を頂点とするのであり、福沢一郎らの初期実践者やモンパルナスの画家たちは、単にシュルレアリスティックな表現を真似ただけと見なされています。『眼のある風景』はシュルレアリスムの代表的絵画の一つですが、靉光がシュルレアリストだったと言われることはないのです。しかし一方で池袋モンパルナスの画家たちは、欧米先進絵画を絶対的指標としない日本的洋画を模索することを迫られていた。
僕は池袋モンパルナスの画家たちと同じく完全無欠のノンポリです。しかし最近の韓国や中国とのギクシャクした関係を見ていると、戦後七十年も経っているのに、いや七十年も経ったからかな、あの太平洋戦争を極点とする日本近代社会の歪みが再び問われ、最終決算を迫られているのをひしひしと感じます。ただ今現在の利害に基づく過去の清算は政治家たちの仕事です。
漱石は「元来国と国とは辞令はいくら八釜しくつても、徳義心はそんなにありやしません。詐欺をやる、誤魔化しをやる、ペテンに掛ける、滅茶苦茶なもの」だと言いました。芸術家がそんな議論に巻き込まれてはいけない。芸術家の役割は過去を的確に理解して未来の芸術ヴィジョンを探ることにあります。愚かしく悲劇的ですが不可避でもあった日本近代の歪みを思想として総括できれば、日本人はいち早く二十一世紀文化のヴィジョンを掴めます。
美術論としてはまだ整備されていませんが、池袋モンパルナスの画家たちの評価はじょじょに高まっています。僕は富山県出身で、去年(二〇一七年)の夏に帰省した時にたまたま新規オープンした富山県美術館のオープニング展を見ました。記念すべきオープニング展に日本各地の美術館から借りた熊谷守一、長谷川利行、靉光らの作品が並んでいるのに驚きました。僕が美術に興味を持ち始めた一九八〇年代ならラインナップは大きく違っていたと思います。荒川修作、加納光於、高松次郎、山口長男、齋藤義重らの戦後アヴァンギャルド芸術家たちの作品の方が目立って見えたはずなのです。
池袋モンパルナスの画家たちの評価の高まりは、彼らが日本近代社会の歪みの犠牲者であり、かつ結果として日本的洋画を見出したゆえだと思います。それはとりあえず〝具象抽象絵画〟として総括できます。またこの具象抽象絵画評価の高まりは、ニューヨークを中心とする世界のアートシーンにおけるジャコメッティ、ベーコン、バルテュスらの評価の高まりと正確に呼応しています。
徒手空拳で楽天的に未知の表現領域を追い求める前衛の時代は終わりました。もしくは一息ついた。今は膨大な情報によって世界が均質化してゆく中で、なにがある国家・民族・宗教・文化共同体の譲れない基盤なのかを問う時期です。池袋モンパルナスの画家たちの仕事は絵画動向としてだけでなく、日本社会の〝近代の超克〟問題としても捉え得るのです。
Ⅳ 近代の超克
皆さんの中にも『近代の超克』という言葉を聞いたことがある方がいらっしゃると思います。戦中の昭和十七年(一九四二年)に、日本を代表する思想家、批評家、作家たちを集めて行われたシンポジウムです。司会は河上徹太郎で小林秀雄、中村光夫、亀井勝一郎、林房雄、三好達治らそうそうたるメンバーが参加しています。本にまとめられ、戦後になって竹内好が厳しく批判したことでも知られます。現代では廣松渉さんや柄谷行人さんらもこの議論に触れておられますね。
シンポジウムの目的は明治維新以降の欧米文化の総括と超克でした。超克して国粋主義をより確固たるものにしようという意図があった。ただ有名な議論なのですが、それがまとめられた本を読んでもピリッとしない。欧米文化が総括・超克されているとは到底思えない(笑)。それは仕方のないことだと思います。シンポジウム参加者は明治維新以降の歪みが頂点に達した戦中に議論を行った。客観的に総括できるわけがないのです。
しかし小林秀雄らの参加者に能力がなかったわけではありません。歴史上に長く名前が残る創作者たちは、まず間違いなくわたしたちより優秀だったと考えていいです。そういう前提でものを考えないと本質を取り違えます。彼らですら欧米文化の総括と超克は手に余る課題だった。それを客観視するには時間が必要だったとも言える。数世代経たないと相対的かつ客観的に論じることのできない問題はたくさんあります。
今日のお話の頭の方で、モダニズムは〝現代からの遅れの意識〟だと言いました。「我々は文化先進国の現代から遅れている」という意識が日本やアメリカなどでモダニズム運動を起こしたわけです。このモダニズム運動を手がかりとして、『近代の超克』議論をもっとわかりやすく構造的に捉えてみましょう。
詩人・小説家で批評家の小原眞紀子さんが『文学とセクシュアリティ』(金魚屋プレス日本版刊)という本の中で、宮崎駿監督の『千と千尋の神隠し』を例にしてモダンとプレ・モダンについて論じています。モダニズムの文脈で言うとモダンは現代性、プレ・モダンは後進性ということになります。しかしこの両者の関係、一筋縄ではいきません。
『千と千尋』では千尋という女の子が異界に迷い込みます。異界では千尋という名前を奪われ千と呼ばれ、巨大な銭湯の女中として働かされることになる。この巨大銭湯には様々な奇妙な生き物が生息しています。最も異様なのはカオナシと呼ばれる妖怪ですね。カオナシは資本主義的欲望の権化です。相手が欲しがるカネや貴金属、食べ物などを目の前に並べてみせ、手を出すとそいつを食って太ってゆく。人々の欲を肥やしにして巨大化するんです。
だけど千は「わたしのほしいものはお前には与えられない」とカオナシを拒絶します。カオナシは怒り狂って暴れまくります。しかしどうしても千の求めるものがわからない。理解できない。千の望みは物質的欲望にはなく、豚に変えられたお父さんとお母さんを人間に戻すことにあるのですから。カオナシは諦めて元の身体に縮み、千といっしょに電車に乗ってゼニーバというお婆さんの家に向かいます。
この電車のシーン、美しいですね。映画は〝絵〟だと思いますが、アニメで映画的な絵の美しさをまざまざと見せつけられたのは『千と千尋』の水の上を走る電車のシーンが初めてでした。それはともかく銭湯の主はユバーバと呼ばれるお婆さんで、その姉がゼニーバという名のお婆さんです。ユバーバが君臨する銭湯は巨大で混沌の坩堝です。これに対してゼニーバが住むお家は小さくて綺麗に整理整頓されています。このゼニーバの家でカオナシはおとなしく暮らすことになります。
で、小原さんはゼニーバの綺麗で小さな家がモダン、ユバーバの巨大で混沌の坩堝の銭湯がプレ・モダンだと論じている。これは卓見ですね。宮崎監督は、はっきり意識してそうしたわけではないと思いますが、間違いなくそうなっている。つまりモダン=現代性は秩序だと言うことができます。プレ・モダンは=後進性で混沌ということになる。しかしどちらが魅力的なのでしょうか。論じるまでもないですね。ゼニーバの家は僕らのそれと変わらない。映画を見た人は誰もがあの銭湯に行ってみたいと思うはずです。見方を変えればプレ・モダン=後進性が、モダン=現代性より遅れていて魅力がないとは言えないのです。
また心理学で言えば、これはうんと単純な分け方ですが、モダンは意識、プレ・モダンは無意識領域ということになります。わたしたちは秩序だった社会で日常を送っていますが、意識下には無限の、混沌としたイメージや欲望が渦巻いています。それがモダン=意識領域にまで上がってきて、様々な発明や新たな芸術を生んでいると言えます。図にするとこんなふうになります。
この構造モデルを『近代の超克』議論に当てはめると、当時のthinkerたちがなにを模索していたのかがはっきりします。欧米モダンを先進性とすれば、日本はずっとプレ・モダンの後進性の道を歩んできました。しかしプレ・モダンは無限の可能性と強い魅力を備えています。両者の評価は逆転可能であり、それが国粋主義となり、近代=モダンの超克という議論につながっていった。だけど当時の思考者たちにはどうしても超えられない敷居があった。プレ・モダン、つまり国粋主義を絶対とせざるを得なかったんですね。しかしモダンとプレ・モダンは本質的に相関的です。
ヨーロッパが優れていたのは社会・文化の領域でしっかりとモダン=秩序を確立しながら、絶え間なくプレ・モダン=混沌を、彼らの秩序の中に体系立てて吸収してきたことにあります。異端のギリシャ世界の知を取り入れイスラームやアフリカからも学んでいます。それは現代のポスト・モダニズムまで続いている。ポスト・モダニズムは実質的なキリスト教的世界観の解体=神の解体(脱構築)ですが、ヨーロッパから見ればそれは東洋的プレ・モダンを射程に捉えたことを意味します。中心がなく無限に網の目のような関係性が広がるインターネット世界(高度情報化社会モデル)は東洋文化を受容咀嚼したポスト・モダニズム思想と正確に対応しています。
では欧米との対比ではなく、日本文化だけに焦点を当ててモダンとプレ・モダンの関係を考えてみましょう。プレ・モダンは秩序をはみ出す無意識的混沌ですが、それは日本ではいくらでも見出せます。近代になって柳田国男や折口信夫によって民族学が確立されました。民族学は豊穣な日本的プレ・モダン世界を根っこの方にまで探る試みでした。しかしモダンは? これが圧倒的に脆弱なのです。先ほどの図を元に日本文化だけのモダンとプレ・モダンを考えると図のようになります。
図の点線にした部分が日本的モダンに当たります。これはもう秩序原理と言ってしまった方がスッキリしますね。どの世界でも世界を統御する秩序原理が存在します。キリスト教文化圏ではここに神がでんと腰を据え、神の実在と非在を巡る論理哲学から直観的神秘主義思想までありとあらゆる思考方法が試されました。いったん思考方法が確立されると神学を離れ独立した論理体系として様々に活用できます。それが厳密な用語定義と論理から構成される〝世界的普遍者の言語・思考方法〟であり、現在世界中で国家・民族・言語・宗教の違いを超えて使われています。しかし日本文化にはキリスト教の神のような絶対的秩序原理は存在しません。
日本だけを見ると国粋主義思想は十分にモダン、つまり秩序原理として措定(仮定)されました。政府から国民に至るまで国粋主義を秩序原理として信奉した時期があった。しかしそれはあくまで欧米との対立を前提にプレ・モダンの優位性を喧伝しただけのことで、国粋主義を秩序原理に据えることはできません。日本ドメスティックなモダン=秩序原理なのです。
日本政府はモダン・秩序=天皇制を占領した他国に強いたわけですが、うまくゆくはずがありませんよね。国民のほとんどがこの秩序体制を疑わなかったことは、それだけ日本近代社会の歪みが根深かったことを示しています。しかし国粋主義が秩序原理に昇華されるためには、日本文化本来の様態であるプレ・モダン世界を上位審級から統御する普遍的思想が必要です。
『近代の超克』に関わった思想家たちの苦悩がわかりますね。プレ・モダンは欧米文化、つまり近代超克のための反措定にはなり得る。しかしプレ・モダンを統御する普遍的秩序原理を明らかにするのは簡単ではないのです。ヨーロッパ的論理を使って厳密な日本文化論を確立しなければならなくなります。戦中に様々な日本論が書かれましたがいずれも核心に届いていません。現在でも「それって侘び寂びだよ」と誤魔化すくらいで誰もそんなことできていませんね(笑)。
日本では図の点線の部分、つまりモダン=秩序原理に様々な思想が入れ替わり立ち替わり現れました。古代のアニミズム的神道から密教的仏教、禅系仏教、儒教、欧化主義、国粋主義、それに戦後の自由主義思想と続いています。しかしどれも決定的な秩序原理ではありません。日本には反発を含めて誰もがこれが指標と考える原理がないにも関わらず、社会は平和と秩序を保っています。むしろ欧米哲学を含む様々な思想がランダムに流入し、影響を与え合い相殺し合うことで一つの秩序を作り上げていると言えるほどです。
この原理はなく、しかも秩序を保っている日本社会の特徴を徹底して考えたのが夏目漱石です。東洋文化と西洋文化の質的違いと同一性を徹底検討したことで漱石の「則天去私」思想は生まれた。これについては僕の『夏目漱石論』(金魚屋プレス日本版刊)を読んでいただくとして(笑)、本題の洋画に戻りましょう。
洋画ではモダンのところに常に欧米絵画動向がありました。もちろん洋画家たちは日本的プレ・モダンからも多くを吸収しています。岸田劉生は退廃的浮世絵のデロリとした雰囲気を麗子像に取り入れたと書いています。しかし指標となっていたのは常に欧米絵画です。欧米絵画に追いつけ追い越せが国家的方針でもありました。洋画だから当たり前と言えば当たり前ですね。日本の洋画家たちにとって欧米絵画は自らの立ち位置を測るための不可欠の指標だったのです。
この明治維新以来当たり前だった欧米絵画指標(信奉)が禁じられ、はっきり失われてゆくのが昭和十六年(一九四一年)頃からです。この年の四月、瀧口修造と福沢一郎が治安維持法違反嫌疑で取り調べを受けます。シュルレアリスムを牽引してきた詩人と画家が同時に拘引されたことはその表現が禁じられたのと同じでした。
シュルレアリスムは第一次世界大戦後のダダから生まれました。ダダイズムが既成のアートを破壊尽くしてやろうという虚無的運動だったのに対し、シュルレアリスムは向日的で建設的です。現実は悲惨だがその上位審級に理想とすべき超現実(シュルレアル)がある。このシュルレアルを芸術で表現して社会を変えてゆこうという社会変革運動だったのです。超現実は現実世界が目指すべき理想だということです。そのため創始者のアンドレ・ブルトンやルイ・アラゴンは初期ソビエト共産党に接近してもいます。
日本の特高上層部はインテリでしたから、本場フランスシュルレアリスムの社会革命的性格を知っていました。社会主義と同様に国家にとって危険思想になり得ると考えたのです。ところが瀧口修造を始めとする日本のシュルレアリストにはフランスシュルレアリスムが本来的に持っていて、運動の中核思想でもあった社会変革意識がすっぽり欠落していた。シュルレアリスムは、ある意味日本のプレ・モダン的混沌に形を与えてくれる魔法の道具として受け入れられたんですね。池袋モンパルナスの画家たちにも社会変革意識はありません。
モンパルナスの画家吉井忠は瀧口、福沢の拘留を知った日の日記に「展覧会を見れば当局の人々も我々を理解するだらうし又我々がどんなに我国美術文化の建設に骨を折ってるかも解ってくれるだろう」と書きながら、一方で「オレも誤解を受けそうな本を処分する」と書いています。厳しい思想統制が始まったのです。
終戦までのほんの四、五年ですが、洋画の世界ではそれまで絶対的規範であり指標であった欧米絵画の表現が禁じられます。太平洋戦争は日本近代社会のどうしようもない鬱屈が暴発したような悪夢でしたが、敗戦と同時に悪い夢から醒めたように、日本社会は再び欧米文化を受容し始めます。今度は自由な表現を保障され、また情報量の飛躍的増大に伴う根本的理解でした。シュルレアリスムなどの基本資料が出揃うのは戦後になってからです。
戦後の日本アヴァンギャルド芸術を支えたのは、主に戦中にティーンエイジャーだった少年少女でした。彼らの多くは戦中には熱狂的皇国少年少女でした。政府に〝騙された〟という痛切な反省が過激なアヴァンギャルド芸術を生み、六〇年七〇年の全国的学生運動につながっていった面があります。うんと純だったのです。
しかしその多くが戦中に三十代以上だった池袋モンパルナスの画家たちは、抑圧から解放された戦後にストレートにシュルレアリスムなどの前衛表現に戻ってゆきませんでした。鮎川信夫や田村隆一らの戦後詩の詩人たちと同様に彼らは自由な大正デモクラシーの雰囲気を知っており、絵描きには関係ないと思いながら、個の力では如何ともし難い熱狂的皇国主義に日本が傾いてゆくのを見ていました。そこに巻き込まれもした。試行錯誤を重ねてきた彼らが再び次々に移り変わり始めた新たな絵画動向を信じ切れなかったのは当然だと思います。
また画家は基本的に目と手の作家です。欧米絵画という指標を奪われた戦中の経験が戦後の歩みの基礎になった面があります。モンパルナスの画家たちの多くは戦後にアトリエ村を離れ別々に活動してゆくことになりますが、その多くが具象抽象画に向かっていった。
新しもの好きの日本人には戦後のアヴァンギャルド芸術の方が斬新でした。アクション・ペインティング、ポップアート、アンフォルメル、ネオ・ダダ、コンセプチュアルアートなど次々にトレンドが移り変わりました。しかし今は「斬新に見えた」と過去形で言った方がいいかもしれません。視点を変えればモダンとプレ・モダンの価値が逆転するように、モンパルナスの画家たちの方がより直截に日本的洋画表現を実現していたのだとも言えます。(下編に続く)
鶴山裕司
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