エズラ・パウンド、T・S・エリオット、アーネスト・ヘミングウェイ、スコット・フィッツジェラルドらと並ぶロスト・ジェネレーションを代表する作家、e.e.カミングズ。優しくて人嫌いで、前衛作家で古典作家でもあったカミングズの処女作『The Enormous Room』の星隆弘による新訳!。
by 星隆弘
第四章 新入り
前を行く亡霊が幅狭でところどころ欠損している小汚い階段をふたつ駆け下りた。そこで左折し、開け放しの戸口をくぐり抜けた。
俺は曇天のじめじめした朝の空気に飛び出していた。
右手に曲がった亡霊は、早足で建物の壁沿いを行く。俺はそういう機械のように亡霊の背中を追いかけた。角のところからは、上で窓から眺めた例の、高さ八フィートの有刺鉄線のフェンスが始まっていた。奴は足を止め、鍵を取り出して、通用口を解錠した。フェンスの端が三フィートか四フィート内側に折れ曲がった。奴が先に入り、俺は後に続いた。
電光石火の早業で背後の通用口が施錠され、俺は角を直角に曲がりながら壁沿いに一番走者を追いかけた。奴の背中を大股歩きに追った。ついさっきまでは自由な世界を散歩していたのに。囚人に逆戻りだ。相変わらず頭上には大空が広がっていた、じめじめひんやりした朝が俺を抱き包んでくれた、でも鉄線と石で出来た壁が言うんだ目を覚ませお前の束の間の自由は儚く散ったのだと。現実は通用口に劣らず狭苦しい通路をあっちに行ったりこっちに行ったり、有刺鉄線で隔絶された左手は、女が散歩することで知られた中庭――奥行き五十フィート長辺が二百フィートの長方形で、向こう端は石壁で仕切られ他の三辺はぐるりと有刺鉄線に取り囲まれていた、――そして右手を飾る、石壁の灰色の変わり映えのなさ、規則正しさと垂直面の作り出す退屈、音絶えし空の鈍重なる暴威……。
飛び去って行く亡霊を追って無意識に六歩か八歩進んだとき、ちょうど俺の頭上で、灰色の石壁が女の暗影にひしと凍りついた、がその硬さと角張りは蟠ってのたうつ笑い声の膿んではじけた発散を浴びてたちまち和らいだ。びくっとして、見上げると、むさ苦しい面の四つ組み合わさった大首がぎゅうぎゅう詰になった窓に直面した。物欲しそうに一点集中した四つの頭の鉢には青灰色の蓬髪が絡まり合い、ぶすぶすと盛んに燻る品性下劣な四対の目玉、歯抜けのニチャニチャ笑いに顫える八枚の唇。しかしこの物の怪どもを凌駕したのはその背後から一人ぬっと頭を突き出す美に覚えた戦慄だった――溌剌として清々しいおでこ、うら若き象牙色のすっぴん顔、夜を溶かした黒髪の氷のごとく凛とした芯の強さと艶ややかさ、白く輝く怖気立つほど屈託のない笑顔。
……奴が二三歩先で叫んでいた。「止まるな!」窓の面々は手品のように忽然と消えてなくなっていた。
俺は一路に突き進んだ。壁の小さな扉をくぐり抜けると十五フィート平方ほどの一室に出た、小型のストーブと、薪木の山と、梯子が一台あるっきり。奴はさらに小さな扉を突っ切って、長方形の殺風景な場所に出た、そこで俺の目に飛び込んできたものは左手にあるスズ造りの大きな湯船と右手に並ぶ十個の木製の盥だった、それぞれ直径一ヤードほどで、壁際に一列に置かれていた。「脱げ」と亡霊が命令した。俺はその通りにした。「一番手前のやつに入れ」俺は盥に入った。「その紐を引いてみろ」と言うと、亡霊はそそくさとタバコを隅っこに放り投げた。仰ぎ見ると、頭上の貯水槽みたいなところから紐がぶら下がっていた。ぐっと引いた。俺を出迎えたのは凍てつくほどの冷や水の身を切るような滝だった。俺は盥から飛び上がった。「ナプキンはここだ。体を拭け」――奴はハンカチよりもちょっぴり大きいだけの布切れを差し出した。「はよせぃ」服を着るも、濡れたままだしガタガタ身震いするしどうしようもなくみじめだった。「よし。行くぞ」俺は亡霊を追い、ストーブのある部屋を抜け、有刺鉄線の通路にさしかかった。しゃがれた叫び声が中庭から聞こえた――庭いっぱいに溢れた女たち、少女たち、子供たち、赤ん坊も一人か二人いるようだった。そのなかに窓越しのご挨拶をいただいたあの四体の物の怪どもの一体を見つけた気がした、それは薄汚れたドレスに土でどろどろに汚れた体をすっぽりと包めた十八才の少女だった、下痢便みたいな髪の毛のべったりと垂れ流しになった肩掛けの内で骨ばった両肩が息を殺し、ぽっかりと開いた口、咳き込んで震わす青っちろいほっぺたの間から突き出た、赤っ鼻。鉄線の向こうにはクレイユの獄の面影を見るような人物もいた、肩に銃を担ぎ、腰にはリボルバーを下げ、至極単調な身のこなし。
おばけに急かされて通用口をくぐり壁沿いを進み、そこで階段を上るかと思いきや奴の指示する先は突き当りが四角く照らされた薄暗い通路で、間髪を置かずに「散歩場に出ろ」と言ったきり ――奴の姿が見えなくなった。
あの五人の笑い声が耳から離れない、存在意義もわからない、そんなザマで俺はよろよろと通路を進み、雄牛のように太い首ともはや定番のリボルバーを下げた巨漢に頭からまともにぶつかって怒鳴られた。『なにしてやがる、テメェ!』――『すみません、風呂に』と返すのがやっとで、ぶつかった弾みで声がでなかった。――巨漢はかっかしたフランス語で問い詰めてきた。「風呂場に連れ出したのは誰だ」――一瞬頭が真っ白になった――が新任の風呂係のことを話すフリッツの言葉が咄嗟に閃いたんだ。「リーシャール」と気を落ち着けて答えた。――雄牛は得心がいったというように鼻を鳴らした。「中庭に出るんだ早くしろ」と巨漢が命じた。――『こっちでしょうか?』と俺はうやうやしく訊き返した。巨漢は馬鹿にした目つきでじろじろ見返すばかりで答えない、だから俺は独断で一番手前の扉に入ることにした、願わくばこの男が俺を撃ち殺さないだけの嗜みを身につけていますように。敷居を跨ぐやいなや俺の居場所に帰ってきたんだと知った、十歩と離れていないところに和やかにくつろぐBの姿があった、そのほかにも三十人ほど、女用と比べれば四分の一ほどの中庭にたむろしていた。有刺鉄線のフェンスにちょこんと設えた小汚い通用口まで俺は大手を振って行き、そこで掛け金を手探りしているところに(なんせ錠前が見当たらなくてさ)肝をつぶしたような声が『そこでなにしてやがるぅ!』と響き渡り、気がつけば俺はライフルの銃口をぼけっと見つめていた。B、フリッツ、ハリィ、ポンポン、オーギュストさん、熊さん、それに忘れちゃいけないブラガード伯爵までもが飛んできて戦々恐々とする看守に俺が新入りでリーシャールさんの付き添いで風呂場に行っていて今しがた帰ってきたばかりだ、当然中庭にも混ざってしかるべきだと口を揃えて弁解してくれた。ところがこの疑り深い天測技師はそんな武勇伝に耳を貸すような男ではなく断乎として譲らない。幸いにもそのとき通路の戸口から巨漢の看守が声を上げた。「入れてやれ」おかげで俺は通されて、友人一同の歓呼をもって迎えられ、中庭の守護神の好判断を斥ける形になったが、その彼は余計な仕事がどうのこうのとぶつくさ文句を言っていた。
男用の庭の広さに関しては俺の見立て通りだった。どう見ても奥行き二十ヤード幅十五ヤードには及ばない。聞こえてくる女たちの黄色い声の明瞭さから察するに二つの中庭は隣接しているようだ。二つを分け隔てるのは高さ十フィートの石壁、前に(風呂場をめざした途上で)女用の庭の奥の一辺になっていると書いた壁だ。男用の中庭には仕切りのそれよりももう少し高い石壁があり、ちょうど石壁同士が平行して庭を挟む形になっている、残りの二面、つまり両端は、いつもの有刺鉄線だ。
中庭の設備はさっぱりしているんだ。向こう端の真ん中あたりの鉄線の手前に木造の番小屋がぽつんと立っている、じつに珍奇な発明品もあって、これは二階の例の一角の姉妹品なんじゃないかと思うのだが、左手の中庭の仕切り壁にとっては接することが光栄の至りだろう、またこの壁の先のほうでは鉄棒が一本地面から七フィートの高さで壁面から水平に飛び出していて棒の先は木の支柱で支えられている、見るからに囚人たちの体操遊びのために供された一工夫というところだ、右手奥の一角は木造のこじんまりとした小屋が占めていて副次的には男たちの極めて局所的な雨宿りに用いられたりするが元々の用途は型破りな散水車の置き場だった、その散水車っていうのが木樽の両側に車輪と長柄を取り付けた代物でとてもじゃないが小型のロバより大きなものには取り付けられそうもない(わけだが俺はそいつを引いて馬車馬のように歩いたよ、お察しの通り)、もう片方の石壁沿いには壁面に平行する形で、無論十分に距離をとった上で、鉄の梁材が二本設置されていているがこれは散歩の時間を己の足で立ったままやり過ごすことのできなかった不運な連中のための情け容赦なく冷え切った座席代わりだ、小屋のそばの地面には遊び道具二号と三号が転がっている ――大きな鉄の砲丸と馬車の骸の一部だった長さ六フィート長柄―― 囚人たちの力試しと水平鉄棒を大いに満喫したあとのひどく手持ち無沙汰な時間の退屈しのぎにはもってこいだ、最後に紹介するのは、十二ある疥癬病みの林檎の木、怒れる大地において真の生を得んと立ち向かう彼らは、全世界に向かってこの中庭こそが現世の林檎の園だと高らかに謳っていた。
〝林檎の木には林檎がいっぱい
林檎の園へ行こうよ、シモーヌ〟 ……
(第19回 了)
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* 『伽藍』は毎月17日に更新されます。
■ e・e・カミングズの本 ■
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■