「僕が泣くのは痛みのためでなく / たった一人で生まれたため / 今まさに その意味を理解したため」
by 小原眞紀子
虫
朝、目覚めると
僕はてんとう虫になっていた
部屋は果てしなく広く
僕はただその端から端まで
三六〇度にわたり眺めた
隅に移動するまで
半日かかるかと思ったが
背の関節を動かそうとして
羽があることに気づいた
僕は部屋を飛びまわり
世界を征服した気になった
ドアのノブがまわって
君が入ってくるまでは
君の姿は
僕をちぢこまらせ
ちぢこまるもなにも
これ以上は小さくなれないと
思い出させるのに十分だったが
さほど不幸ではなかった
スカートの裾に留まった
僕を君はつまみ上げ
一瞬だけつぶされる恐怖が
短い躰を貫いたのだが
君はブローチのように
僕を襟に置いて
じっとしていろと命じた
君のすするデミタスの
コーヒーカップの模様のなかから
そもそも僕は生じたのだった
鳥
同じ空気を吸いながら
触れ合わないものがある
視線がずれて
声は海上にひびく
いつもなら
それだけ
ゆったりうねる
世界が突然、切り分けられ
耳元で叫ぶ
触れ合わぬものが
触れ合わぬままに
襲ってくる
白黒映画の
わかりにくさで
わからないままに
襲われる
恐怖とはそれである
ビー玉の瞳
音としての言葉
ものである躰
腑に落ちぬことがわかった
ところで世界に未練はのこる
だろうことが怖いのである、と
君は赤いクレパスで
曲線を引いた
鳥たちの隙間に
できることはそれだけ
うつむいて呟いても
空を見上げても
港
港とは夢である
陸地で暮らす
平日の夕暮れに見やる
空に向かって伸びをして
錨を巻き揚げる
僕らの港はいつも
去るべき場所だから
ここから
月まであるいは
君のところまで
いずれもはるかな
夢そのもの
もうひとつの港そのもの
行き着くことのない
なぜなら君も旅をする
宇宙を横切って
知らないの、と微笑む
人類は月に到達したのよ
いつの話だか
知るもんか
たどり着いても
去るべき場所だから
君と同じさ
行き着くことのない
港とは夢である
波に揺られながら
毎夜、目を凝らす
闇のなかを
書割りの舞台を観るように
写真 星隆弘
縦書きでもお読みいただけます。左のボタンをクリックしてファイルを表示させてください。
* 連作詩篇『ここから月まで』は毎月09日に更新されます。
■ 小原眞紀子さんの本 ■
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■