俳句の世界では四十代、五十代はまだ若手である。俳句には定年後の高尚な趣味という社会的役割が抜きがたくある。生真面目に一から俳句を学ぼうとする、お金と時間のある大人がたくさん参入してくるから結社も商業句誌も経営が成り立っている面がある。老後の趣味というだけでなく、孤立せず新たに友達を見つけるサークル的役割もある。ただそういう方たちは六十歳オーバーだから、指導する方も四十代、五十代ではちょいと心もとない。どっしり構えた六十代後半以降の、大家然とした結社主宰の方がいいわけだ。もちろん俳句技術力だけでなく、人間的包容力がなければ主宰は務まりません。
俳句愛好者に自然好き――つまり花鳥風月好きの方が多いのは確かだと思う。また制度(形式)に従順な面もお持ちだ。どうしても人間関係が気になるなら小説を読んだり書いたりするだろう。俳句に限らず制度・形式に不満を抱く人なら結社も定型も素直には受け入れがたいはずだ。そういう人は詩的な表現が好きでも自由詩などに行く。ある程度人間的欲望が枯れてくる年齢で、むやみに社会制度に抗ったりしない大人が俳句に向いている由縁である。
ただ単に既存の制度や定型に沿うのは、俳句を〝文学〟として捉えると決して良いことではない。習い事はすべからくそうだが、技術的にうまくてもプロにはなれない。仲間内の○○会では入選しても、一般社会で作品が認知されるわけではないのだ。既存の俳壇ルールにおとなしく従い、会社組織と同じように一歩ずつ上へ上へと歩みを進めて行っても頭打ちになってしまうことが多いのである。
自然好きで定型に従順な人が俳句向きの資質を持っているとは言えるが、自己の資質へのかすかな苛立ち、定型への不安や不信が俳句文学を活性化させる大事な要素である。このあたりの機微は微妙だが、四十代くらいまでの俳人はそういった揺らぎを多かれ少なかれ持っている。持たざるを得ない。
会社勤めしている二十代三十代の人間が「俳句を書いてます」と言うと、まず間違いなく「なんで?」と聞かれる。年寄り臭い、儲からないのになぜ、といった様々なニュアンスがある。ただそういった言葉には、うんと動揺する方がいいのだ。当たり前のように俳句に没入する俳句好きの人たちに囲まれていると、社会との接点が失われてしまう。俳句を書いているのが恥ずかしいなら、俳壇を超えて、広く社会的認知を得る俳人にまで突出するしかないということでもある。
飛びてゆかましよ簾は海を向き
香水の名に〈航海の手記〉とあり
うごきそむ塒は凪を待ちかねて
夕映えの櫂を入り江にさしいれぬ
檣に舳に連れ立ち夏のすだまかな
糸吐きて舟はくらげとなりにけり
(小津夜景「艢に舳に」)
今号では「若手俳人競詠10句」の特集が組まれている「under 45」とサブタイトルがあるので四十五歳以下の俳人限定のようだ。これが面白かった。トップバッターは小津夜景さんで昭和四十六年(一九七一年)生まれとある。結社に所属しておらず俳句の師もいないらしい。破調が多く季語もあまり気にしていない句だが魅力がある。動きのある句だ。「糸吐きて」の句にあるように変容への願望もある。つまり定型的な花鳥風月句ではなく、作品の中に作家の観念軸が立っている。それが感じ取れるから破調や無季が気にならない。
もちろんこの観念軸を、句集一冊にまで持続させ、まとめ上げられるかどうかはまた別の問題だ。苦しくなれば定型的俳句表現で句を埋めることになるかもしれない。結社所属になれば、もっと穏当な表現になってゆく可能性もある。ただこういった〝はみ出る表現〟を俳句は必要としている。「under 45」の免罪符として許容されているのでなければ、小津さんのような表現はもっと評価されて良い。
神さまの吐息にあそぶ柳かな
ひとすぢの光はつばめ空の餅
初夏や離るるほどの青き鳥
篠の子のひかりを探る細さかな
(草子洗「山のこゑ」)
緋鯉より風に乗りたる鯉のぼり
薔薇園を出てゆくときの薔薇の門
新茶淹れ色鉛筆の芯は折れ
ドからラへ音階はこぶ五月かな
(矢野玲奈「薔薇園」)
草子洗さんは田所属で、矢野玲奈さんは玉藻・天為所属である。ともに昭和五十年(一九七五年)生まれだ。よい意味で、呆れるほど清冽でウブな句である。草子さんの句の主題は「ひかり」である。精神がある高みを希求している。矢野さんの句からは撞着的な迷いが感じ取れる。表題作「薔薇園を」がそれをよく表しているが、「新茶淹れ色鉛筆の芯は折れ」の句も魅力的だ。華やかな迷い、極彩色の挫折感と言っていいかもしれない。俳歴が長くなるとこういった清新さは失われがちになる。作家の精神が若くしなやかなら、言葉もまた若々しくなる。初心忘るべからずは重要だと思う。
姿見のなかの裸といれかはる
気のつくといつもしんがり虹を撮る
太陽を牡丹のひだの押しよせる
心臓の奥の茂みを踏み鳴らす
萍と雲となんにもない正午
ぼんやりと津波の届く露台かな
蠛蠓に真顔のつつみこまれる津
(大塚凱「これからある無」)
大塚凱さんは平成七年(一九九五年)生まれで群青所属、師は佐藤郁良、櫂未知子さんとある。杓子定規に言えば、思春期の男の子の鬱屈した心情がよく表現されている。ただ表現主題に「無」を選んだことには意味があるだろう。無とはなにもないという意味ではないことを、作品が証明している。すべては無に帰着するかもしれないが、すべての存在は無と呼ばれるエネルギー総体から生まれ出るのかもしれないのだ。「なんにもない正午」だが「萍と雲」は在る。
ちょっと語弊があるが、今回の「若手俳人競詠10句」は角川俳句さんとしては度量の広い特集だった。たまたま面白い若手俳人がいたのか、それともネット世代の特徴が少しずつ表れてきたのかはわからない。ただどんどん進んでゆく情報化時代に、今後も俳壇の結社や師弟制度、それに大結社の有季定型重視姿勢がそのまま継続するとは思えない。
決まりごとだらけの形式的な縛りをきつくしておいて、その中で自由でいられるのは、名人と呼ばれるような作家以外不可能である。まず様々な試行錯誤を重ね、そこからそれぞれの作家が定型の意味を見出してゆくのが俳句文学本来の道筋だと思う。
岡野隆
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■