エズラ・パウンド、T・S・エリオット、アーネスト・ヘミングウェイ、スコット・フィッツジェラルドらと並ぶロスト・ジェネレーションを代表する作家、e.e.カミングズ。優しくて人嫌いで、前衛作家で古典作家でもあったカミングズの処女作『The Enormous Room』の星隆弘による新訳!。
by 星隆弘
第三章 天路歴程
この頃には人人人で賑わう駅前の街並みを気楽にゆったりと散歩しながら、我が護送役の男は楽しいおしゃべりに夢中になっていた。パリには詳しいんだって? 彼はなんでも知っていた。しかしここ数年(もう八年になるかね?)はパリを離れていたんだそうだ。いい街だぜパリは、でかい街なのは無論のこと。でも絶え間無く変化している。軍服と衛生分隊への配属を待つ間のひと月をパリで過ごしていたんだって? 親友もいっしょだったと? ふぅぅむ。
パリの巡査の典型として一分の隙もなく型通りの小男が俺たちをじろじろ見ていた。先輩憲兵は限りない敬意を込めて、それはもうみすぼらしい田舎の牧師補佐が立派な身なりの強盗に払うような敬意を込めて巡査に挨拶をした。二人は少しばかり選び抜いた言葉を交わした、もちろんフランス語だ。「とっ捕まえたやつを見せろよ」––––「アメリカ人一匹だ」––––「なにをやらかしたんだ」––––「ふむ」––––訳ありなんだという風に肩をすぼめて街のごろつきの耳になにか囁く。巡査は満足げに「はぁぁん」と声を漏らした––––そしてこっちを一瞥したその目つきには俺なんか地球上から一掃してくれようって肚が見え見えだった(その間俺はパリの朝の風景をつくづく眺めるふりをしていた)。やっと散歩を再開しても、巡査の獰猛な視線がじっと俺たちの背中を見つめていた。俺は明らかに刻一刻と犯罪者になっている。きっと明日には銃殺されるんだろう、明後日(だと間違って思い込んでいたのだけれども)を待たずに。俺はこの朝を祝して乾杯し元気を取り戻したんだ、コーヒーとパリをありがとう神様、そして完全に覚悟もできている。見事な辞世の挨拶をしてみせよう(南仏訛りで)。銃を構えた連中に向かって、「紳士諸賢、『冗談だろ、俺は、俺は車掌の妹と仲良しなんだぜ』」……連中はいつ死にたいかと訊くはずだ。それにはこう答える、「すみません、つまりいつ不滅の存在になりたいかってことですよね」それからこうだ、「どうしたんです、『そんなの俺にはどうでもいいし、いつもへったくれもあるかって、フランス政府に差し止められちゃあさ』」
俺が笑い出したので先輩憲兵はだいぶ面食らっていた。きっとこんなものじゃなく驚愕していただろうな、俺がそのときみなぎってきた抑えきれない衝動に負けて、彼の背中を陽気にぽんぽん叩いたりしていたら。
なにもかも冗談みたいだった。辻馬車の御者も、コーヒー屋も、警官も、朝も、ついでだからおまけに立派なフランス政府も。
三十分かそこらも歩いただろうか。我が案内人兼護衛役がふいに工員の男をつかまえて尋ねた、肉屋はどっちだ? 「すぐ目の前に一軒ありますぜ」と教えられた。確かに、一ブロックも離れていない。俺はまた笑った。こりゃあたしかに八年ぶりだ。
先輩憲兵は大量の買い物をものの五分で済ませた。ソーセージ、チーズ、パン、チョコレート、赤の安ワイン。不服そうな顔で口いっぱいに俺に対する嫌疑の見出し文を含んだ中産階級の女店主はきびきびと突慳貪な物腰で用を聞いた。俺はこの女を毛嫌いするあまり何か買い足すものはあるか(次の食事はだいぶ遅くなるだろうからとのことだ)という看守殿の勧めを断わってしまった、俺はチョコレート菓子ひとつで満足だった ––––かなり質の悪いチョコレートだったが、それでもその後の三ヶ月間で口にすることになるものとは比べ物にならない。それから俺たちは来た道を引き返し、何本か道を間違えたり忠実に俺の荷袋二つと外套の見張りを務めてくれている後輩憲兵を尋ね歩いたりしてやっと駅の元の場所に帰り着いた。
先輩憲兵と俺が腰を下ろすと、今度は後輩くんの散歩をする番だった。俺が十歩先の売店でファンタジオ誌を買おうと思って立ち上がると、先輩憲兵は飛び上がって行き帰りの付き添いをしてくれた。何か読みますか、と訊いたら彼が「いやけっこう」と答えた気がする。たしか新聞を買ってあげたんだ。そして俺たちは待機していた、駅の人々みんなにじろじろ見られ、士官やその情婦からは笑われ、筋骨たくましいご婦人方やよぼよぼの小男らには指さされ ––––つまり駅全体の娯楽の的だった。雑誌を読んでいても気がくさくさしてしまう。十二時なんて永遠に来ないんじゃないか? 後輩くんが戻ってくる、こざっぱりとした身なりで、全身消毒してあるかのように見える。彼は俺の左の席に座る。これ見よがしに時計を見比べる。時間だ。進め。俺は弾かれたように荷物の下にもぐりこんだ。
「これからどこに行くんです」と俺は先輩のほうに訊いた。立派な口髭の先をつまんでくねらせながら、彼は答えた、「マァーセイだ」
マルセイユか! 俺はまた喜びに溢れた。地中海沿岸に聞こえる大港湾都市ずっと行ってみたかったんだ、その街には見たこともない色彩とへんてこな慣習があり、人々はおしゃべりしながら歌うという。しかしどうだパリに到着するのだって途方も無い一大事だったじゃないか ––––この先の旅が思いやられるな。こうしたことどもがみなごっちゃになって頭がくらくらした。強制送還されるんじゃないか。でもなんでマルセイユから。そもそもマルセイユってどこにあるんだ。たぶん俺はマルセイユの位置をまるっきり間違えているな。結局、だからなんだって話だ。ともかく人に指さされたりあざ笑われたり半ば噛み殺したくすくす笑いからは脱出できるんだ……
風采の立派な太った紳士二人と、憲兵二人と、あとは俺、この五人で車室はいっぱいになった。紳士二人は立板に水にしゃべりつづけ、護送役二人と俺は黙りこくっていた。俺は水のように流れ去って行く車窓の風景を眺めながら気持ちよくうとうとした。憲兵達もそれぞれ車室の扉に寄りかかってうたた寝していた。汽車はのろのろと大地を駆け抜けて行った、農家と農家の間を抜け、田畑を突き抜け、森を巡って……日の光がその色彩によって俺の目をびんたし、眠たげな心を張り倒した。
(第11回 了)
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