久しぶりの故郷。思い出したくない過去。でも親族との縁は切れない。生まれ育った家と土地の記憶も消えない。そして生まれてくる子供と左腕に鮮やかな龍の入れ墨を入れた旦那。それはわたしにとって、牢のようなものなのか、それとも・・・。辻原登奨励小説賞受賞作家・寅間心閑による連載小説第3弾!。
by 寅間心閑
四 (後半)
「キノシタ、ワタナベ、ニシ。で、二度目のワタナベ。もちろん最初のとは違う人よ」
四回変わった、という苗字を並べているのだろう。ワタナベカナミ、と今の名前を小さく呟いてみた。私と同じだ。ピンと来ない。
目が慣れてきたとはいえ、夜の松原は暗い。こんな時間にこんな場所にひとりで来て、この子は怖くないのだろうか。いや、それ以前に危なくないのだろうか。ふと視界から白い脚が消える。
「ちょっと佳奈美、どうしたと?」
「ごめん、姉ちゃん。トイレたい。ワインば飲みすぎたあ」
どうやらその場で屈んだらしい。あの子らしいと言えばそれまでだが、今、微笑ましいと笑う気には到底なれない。
「唐津湾に沿って、植えられているクロマツの数は百万本。長さにすると五キロ、幅は一キロ、総面積は二四〇ヘクタールもあります」
佳奈美がのんびり歌うように唱えているのは、この松原についての説明だ。聞き覚えはあるが、懐かしむ余裕はない。
「元々の目的は防風・防潮のために植林をしたものです……。ねえ、姉ちゃん、どう?」
用を足し終わったのだろう。暗がりに白い脚が再び現れた。
「それ、自由研究のやろ? 覚えとったと?」
「だって姉ちゃんから貰ったノートやもん。何度も何度も読んでるうちに、いつの間にか覚えとったと」
嬉しい気持ちは当然あるが、その分だけ怖くもある。以前働いていたスナックのママさんが、人付き合いの基本だとよく若い女の子に教えていた。
「想いの強い人には気をつけなさいよ。そういう人に恨まれると一番怖いんだから」
今日久しぶりに会った佳奈美は、どこか想いが強い。私のことを慕ってくれる分だけ怖くなってしまう。さっき微笑みながら投げた「妬んどうとさ」という言葉が、妙な感じで耳に残っている。
「昔からね、お客さんからも記憶力のことは褒められるとよ」
お客さん、がイメージできない私をからかうように、佳奈美は手招きをする。
「ねえ、すぐそこに懐かしか場所があると。姉ちゃん、見に行かん?」
「え? 何?」
「いいから、ちょっと来てんね」
立ち上がる際、真新しいスニーカーの汚れに気付く。タクシーを降りてからここまで、乱暴に歩いてきた証拠だ。ちゃんとしなきゃとお腹をかばい、歩き出した佳奈美の後を追う。もちろんトートバッグ、というか御祝儀の二十万円は肌身離さず持っていく。多分、このまま奥まで突っ切れば海へ抜けるはずだ。
怖い、と思った。
あの遠くまで広がる海を、こんな闇夜に、しかも佳奈美と見るのは怖い。理屈ではなく、死んでしまいそうな気がする。お腹の子もみちづれだ。
だから、もし奥に進もうとするなら引き止めるつもりだったが、そうではなかった。
「ここよ、ここ。ねえ、見て」振り返って手招きをするあの子の周囲には、ただ闇が広がるばかりだ。「姉ちゃん、分からん? ほら、たくさん大蛇の暴れとろうが」
その言葉がヒントとなり正解が浮かび上がる。昔、佳奈美が「大蛇みたい」とはしゃいだ木、いびつに曲がりくねった太い枝を、縦横無尽に広げる松の大木だ。あまりに大きすぎて気付かなかった。
暴れるたくさんの大蛇、という喩えは決して大袈裟ではなく、闇に潜むその姿は奇妙な躍動感に溢れている。強い海風のせいで、傾いたり変形した松はたくさんあるが、ここまで複雑な形も珍しい。地面を這うように伸びた枝も二、三本ある。
「この木、見つけたの姉ちゃんやったね」
「そうやった?」
本当に覚えていない。ただ、このいびつな枝にそれぞれ身体を預け、とりとめのないお喋りをしていた記憶はある。あの頃も、結局母親のことは聞けずじまいだった。
「あと、追っかけっこばしてさ、捕まえられたらこの木に入ると。姉ちゃん、覚えとらん?」
「入る?」
「そうそう、この木が牢屋って決めて」
「ああ、ケイドロ?」佳奈美は首を傾げている。「ケイサツ、ドロボウのケイドロやろ?」
「ああ、それそれ。でもさ、結局二人しかおらんけん、一回捕まえられたらそこで終わるったい」
徐々に思い出してきた。中学生の私には子どもっぽすぎる遊びだったが、この子が楽しそうにしているのが嬉しくて、よく松原の中を駆け回ったものだ。
「いや、佳奈美、一回で終わったらつまらんけん、何かルールば決めて続けられるようにせんかったっけ?」
そうそう、と言いながら牢屋へ入る佳奈美。ちょうど身体を挟むようにして、いびつな枝の隙間に収まる姿は懐かしかった。私も身体を預けられる枝を探し、トートバッグを肩に掛けたまま楽な体勢を取る。この松原に入って、初めて気持ちが和んだ。
「今、私さ、貯金くらいしか趣味がないとよ。でもね、使うのも好きやけん、思うようには貯まってくれんと」
「あ、さっきの食事のお金、私、自分の分……」
「よかよか。本音言うとさ、あれ手切れ金たい」動揺する私を見ながら何かを口に入れ、すぐにワインで流し込む。「もちろん姉ちゃんは別よ。姉ちゃんのだけは、私からの感謝の気持ちたい」
怖いのはこの想いの強さだ。あと今、いったい何を飲み込んだのか。
「もう田辺の人間とはこれで終わり!」
上空めがけて嬉しそうに叫んだ声が、夜の松原にゆっくりと溶けていく。私もこれで最後にするつもりだったと告げられないのは、目の前の佳奈美とどうしたいかが定まらないからだ。
「結局さ、あの人と離れても田辺の家とつながっとったら同じことやろうもん。何回苗字が変わったって、私は田辺の子、あの人の子のままたいね」
今、私との距離は二、三メートルほどなのに、佳奈美の声は大きいままだ。あの人、とは母親のことだろう。牢屋の中で身体をよじるようにして声を出す姿は痛々しく、近寄り難い。そして気のせいかもしれないが、ところどころ呂律が怪しい。
「私、一番好かんのはさ、ろくでもない家で育ってきたやろって言われることさ。そがん時、私は黙っとったい。何も言わんたい。ただニコニコしながら話ば聞いとっと」
いったい誰がそんな酷いことを言うのだろう。でも、ろくでもない家なんかじゃない、とは言ってあげられない。十五年前の雪の日から、この子とは別々に暮らしている。私は事情を何も知らない。まただ、と気付く。また、佳奈美にかける言葉が見つからない。
「姉ちゃん」声の調子が落ち着いてきた。「無理やりニコニコするの、辛かあ。知っとう? そういう人はさ、すぐ運命って言うと。そういう家に育ったなら仕方なか。運命やけん、あきらめろ。あきらめて働け、ってそがん言うとよ」
思い切り衝かれたように胸が痛い。働け、という響きがあまりにも生々しかった。この子にそんな酷いことを言うのは、さっきから端々に出てくる「お客さん」なのだろうか。
分かっている。訊けば済むことだ。どんな仕事なのかと尋ねればいい。きっと答えてくれるだろう。そう、結局私が訊きたくないだけだ。
「まずはさ、貯金ばして家を買うと。別に大阪でなくてもいいったい。京都とかは高そうやけん、奈良とか和歌山とか、まあ本当、どこでもいいったい。少し広くてセキュリティーのちゃんとしとれば、場所にはこだわらんと」
もう買うことが決まっているような口ぶりのまま、また何かを飲み込もうとしたので、「ちょっと」と勇気を出して制してみる。
「ん?」
「その今飲んでる……」
「大丈夫、処方薬やもん」手のひらに置いた白い錠剤を見せてはくれるが、言葉は刺々しい。「変なクスリと思っとうとやろ?」
やめんね、ときつい声を出したのは、挑発に苛立ったからではなく、争いたくなかったからだ。でも佳奈美は笑いながら言う。
「姉ちゃんには関係なかろ? もう、私と会う気ないっちゃろ?」
まずい。強い想いが裏目に出始めている。早く鎮めたいが、どう返事をすべきかが決まらない。そんな私から視線を逸らすことなく、この子はまた錠剤を口に含もうとしている。
やめんね、と再び大きな声が出た。身体も動いた。松の枝の間をすり抜け、何とか錠剤を奪おうと駆け寄ってみたものの、ワインの瓶を片手に佳奈美は抵抗し、意外に強い力で私をはねのけた。そして無言のまま肩で息をしながら錠剤を口に入れ、ワインをらっぱ飲みして流し込む。
今、はねのけられた私が立ち尽くしているのは、松の大木の外側だ。この子だけ、牢屋に残してしまった。
「静かねえ」
やっと喋った。あの錠剤の効果なのか、佳奈美の声は落ち着いている。松原の外側から、遠くを走る車の音が微かに聞こえた。多分トラックやダンプカーのような大きな車だ。
「家ば買ったら、次は墓も買うと。墓狂いのじいちゃんの孫やけんね。姉ちゃんは、旦那さんの家の墓に入るっちゃろ?」
「……うん、多分」
そう答えたが、実感が湧かないので嘘をついたような気分だ。この子は突然、何を言い出すのだろう。
「さっき、じいちゃんの話ば聞いて驚いたとよ。墓狂いげな、初めて聞いたもん」
「……」
「私、ここに来るとどこに墓を建てたらいいか、って考えるったい」
「墓って……、ここに?」
「そりゃ本物の墓は建てられんやろ。だけん、墓石だけぽつんと置いとくと。いいアイデアと思わん? 名前も何も書いとらんとよ。形だけでいいっちゃけん。私の骨も何もナシ、墓石だけ」
あの錠剤が、私の予想どおり違法な薬物ならいいのに、と密かに願う。まともな状態でこんなことを言い出す方がよっぽど危険だ。
「どっちみち、いい死に方はしない運命らしいったい」
「そんなこと言わんで!」
「ありがと、姉ちゃん。でもね、私もそんな気がするっちゃん。運命やけん仕方なか、って最近思うとよ」
悔しかった。どうしてこの子がそんな風に思わなければいけないのか。運命だなんて、誰がそんなデタラメを吹きこんでいるのか。私だってこの子と紙一重なんだ。私が家出少女になったかもしれないし、私が牢屋に残されたかもしれないんだ。
「ばあちゃんの葬式みたいにさ、たくさんの人に悲しんでほしいとは思わんたい。でも姉ちゃん? 姉ちゃんは悲しんでくれる?」
「もうやめんね、本当に」
「私、決めた。墓石ばここに置こう。姉ちゃん、たまにでいいけん、来てくれるやろ?」
返事などしたくない。でも、この子が悪いわけでもない。悪いのは、と考えてぞっとした。運命、という言葉が一瞬よぎってしまった。
牢屋の中、佳奈美は遂に二本目のワインを飲み干し、瓶を軽く投げる。姉ちゃん、と呼びかけてくるが、呂律が怪しいうえに声がざらざらしているから聞き取りづらい。
「姉ちゃん、私の墓石、ここに置くけんが、お参りに来てんね」
やっぱり返事などしたくない。そんな私の態度が気に入らない佳奈美は、早口で何度も呼びかける。その仕草が昔と変わらない分、異様さが際立つ。だから思わず視線を逸らした。俯き、汚れたスニーカーをじっと見る。
「ねえ、姉ちゃん、私の墓に来たらさ、水やったり花替えたりせんでよかよ。線香もいらんし、お経もあげんでよか。だけん来てよ、楽ちんやけんねえ」
会わなければよかったと悔やみたくはないが、もう限界だ。嫌いではないから苦しい。他人ならよかったのかもしれない。でも私たちは姉妹だ。あの母親が産んだ姉妹だ。血を分けたからこその苦しさがある。やっぱり、会うべきではなかったんだ。
「その代わりさ、私の墓には唾ば吐きかけちゃらんね。何べんも何べんもやったらよかさ。物足りんかったらロウソクば垂らして、ムチでしばいちゃらんね。縛るよりも簡単やろうもん」
こめかみが激しく痛む。この子は何を言っているんだろう。気味悪さがある反面、今すぐにでも抱きしめて全てを受け入れてあげたい衝動もある。私は自分の方が辛かったと思い込み、今まで何もしてあげられなかった。
「どっちみちろくな死に方じゃないとよ。つまらん人生、つまらん運命、つまらん仕事、本当つまらんね。だけん姉ちゃん、本当お願いよ。私の墓ば滅茶苦茶にしてんね」
ここまで悪化させた責任は、多分私にもある。この子の気が済むまで喋らせてあげたいし、あと数時間、夜が明けるまで付き合う覚悟もある。でも、明日になったら私は東京へ帰る。旦那が待つあの1DKのマンションが、私の帰る家だ。
「ねえ、外でするってさ、そんな難しいことじゃなかよ。さっき私もしたろうもん。ね、墓石ば跨いで、後は何も考えんでしかぶればいいったい。ワインやらビールやら飲んでおけば簡単よ。それでも足りんやったら、姉ちゃん、糞ばなすってやって」
恐怖と嫌悪が身体を突き抜けた。お腹の子の目を覆い、耳を塞ぐようにして私はその場にうずくまる。産まれる前から穢れた空気に触れる必要はない。守ってあげられるのは私だけなんだ、と身を固くした瞬間、足元に何かを投げつけられた。黒い塊。目を凝らすまでもなく正体が分かる。大量の髪の毛――ウィッグだ。
「姉ちゃん、こっちば見てんね。私、本当はこんな感じよ。どう、似合う? 地毛やと本当、色々とこびりつくし、臭いがなかなか取れんもんね」
もう顔を上げる余裕はない。いざ上げたところで、佳奈美の「本当」の姿と向き合う自信もない。これ以上抵抗するのはやめよう。お腹の子と御祝儀の二十万円を東京に連れて帰る。そのことだけを考えよう。
再び牢屋の中で佳奈美が何か言い始めたが、呂律が回らないから長い悲鳴のようだ。誰かが気付いて、一刻も早く警察に通報してくれますように。そう祈りながら、「私のせいでごめんなさいね」とお腹の子に囁きかけた。
(第08回 最終回 了)
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