エズラ・パウンド、T・S・エリオット、アーネスト・ヘミングウェイ、スコット・フィッツジェラルドらと並ぶロスト・ジェネレーションを代表する作家、e.e.カミングズ。優しくて人嫌いで、前衛作家で古典作家でもあったカミングズの処女作『The Enormous Room』の星隆弘による新訳!。
by 星隆弘
第三章 天路歴程
行き先は例の、何時間前だったか、ベルギー人脱走兵や前の護送役らといっしょに汽車から降り立った、まさにあの駅だった。身体がすっかりかじかんでいたし半分寝ぼけてもいたけど、俺の心中は妙にわくわくしていた。左右に並んで歩く憲兵は陰々滅々として、黙りこくっていた、たまに何か訊いても一言二言返ってくるだけだった。ああ、汽車だ。それで、どこかに行くわけですか。『無論だ』―――「どこへ?」―――「じきにわかる」
駅には数分で到着した、が俺にはどこがどこだかわからなかった。ランプの黄色い明るみが、夜霧にぼやぼやと際限なくふくらんでいて、こじんまりとしたプラットフォームにはあちこちと行き交う人影、ひそひそと話す声。なんか何もかもがバカみたいに抑えつけられ、麗しいまでに異様で、気持ちがいいほど狂っている。人影のひとつひとつがそれぞれ独特のありようで幽霊じみていた。それぞれの散策に打ち興じていたにもかかわらず、どういうわけだかそれぞれにこの世のものとも思われぬここなるこの世の番外地、腐り爛れて薄気味悪い暗がりを選び集いし幽霊の群れだ。我が護送役でさえ声をひそめた。「こいつから目を離すなよ、おれは汽車のほうを見てくる」そう言ってひとり霧の中に消えていった。俺は立ちくらみがしてすぐそばの壁にもたれかかり(荷物もどさっと投げ出した)そのままじっと目を凝らした、一寸先の闇、そこにはざわめく人影が満ち満ちていた。棒切れを足取りの支えにして、よるべなく行ったり来たりする英国人士官らの姿があった。そこかしこで言葉を交わすフランス人尉官らの姿もあった。遠くにはあやつり人形とも小鬼ともつかないようなまったく正気を失った駅長の姿があった。退屈そうに悪態を吐いたり救いのない冗談でふざけあったり禍々しい身振りでのそのそうろついたりしている休暇中の兵卒の群れもいくつかあった。『バカ言え。いいか、汽車なんかもう出やしねえよ』―――『車掌が死んだんだって、その妹から聞いたんだ』―――『まんまとはめられたのかよ、おれは』―――『ていうか、おれたちみんなおしまいだわ』―――『何時になった』―――『何時もへったくれもあるかって、フランス政府に差し止められちゃあさ』喧しくも見通しの悪いモヤモヤから突如として現れたのは一群のアルジェリア人だった、その足取りは疲労困憊のうちにも堂々としていて、その目は何に恃まずとも爛々と光り輝いていたが―――この一様に黒い霧のなかでは顔の見分けはつかなかった。連中は三々五々に別れて泣き喚きながらしわくちゃの握りこぶしで殴りかかってくる小鬼駅長に襲いかかった。汽車は来ないぞ。とっくにフランス政府に取り上げられちまった。「期限までに仏軍部隊に戻る方法なんぞ知ったことか。あんたがたはいずれ一人残らず脱走兵さね、しかしそれが私の責任というのかね」(俺は友達のことを思い出した、例のベルギー人のことだけど、こうしている間にも俺が奇跡の導きで脱出したばかりの牢獄の檻のなかで横になっているんだろうなって)……未開で無知で戦争を好まぬアルジェリア出身の立派な連中のうちひとりは自覚できるほど酔っていた、その男のたいそう立派なふたり連れも同様の体たらくで汽車がこないなら近くの農家で彼をぐっすり寝かせてやるべきだろうなどと言い出す、その農家だってこんなに見通しのきかない夜にあっても確かに見たと言い張った。こうして酔っ払いは仲間に付き添われて闇の向こうに消えていった、付き添いの不意の足音が酔っ払いのどしんどしんと不躾に響く足取りをその都度修正して導いていくのもやがて聞こえなくなった。……残った黒人たちの何人かは俺のそばに腰を下ろして、煙草を喫んだ。連中の巨きな顔は、活力みなぎる暗闇をぎゅっと押し固めたかのようだが、疲労一色に消沈していた。分厚く優しげな手が膝頭をばしばしと打った。
別行動していた憲兵が引き返してきて、霧を抜け出し、どしんとおおげさな音を立てて帰還した。すぐにフランス行きの汽車が到着する。間に合ったな、これまでのところはすこぶる順調。文句なしだ。しかし寒いな、えっ?
やがてどこかに狂いの生じた模型の身の毛のよだつようなミニチュア版轟音をひきずってフランス行きの汽車が慎重に手探りするように到着した……
汽車に乗り込む、その際にも俺が万が一逃亡したりしないよう相応の注意が払われていた。じつはこのとき俺はみっともない大荷物を誰の手も借りずに車内に押し上げようとしてどうも乗りたいらしいお歴々を一分近くも待たせることになった。それから我が看守ともども四苦八苦しながらなんとか客室までたどり着くと英国人がひとりフランス人女性がふたり先に席についていた。憲兵たちは出入り口の両側の席に陣取ったが、その所作がアングロサクソン人の眠りを妨げ婦人らのひそひそ話に一瞬の沈黙を呼び込んだ。ガタコンとひと揺れ―――出発だ。
俺の席は左手をフランス婦人に右手を英国人に挟まれている。英国人は状況を理解する間もなくおやすみなさいだ。フランス婦人(三十前後だ)は楽しそうに向かいの席のお友達とおしゃべり中。黒衣に身を包む以前は相当な美人だったにちがいない。お友達のほうも未亡人。ほんとに楽しそうにしゃべるんだ、戦争のこと、パリのこと、お粗末な行政のこと、迷惑にならないように声をひそめて、お互いにちょっと前のめりになって、右のねぼすけなんぞにも邪魔しないように気を遣って。汽車は徐々に勢いを増していく。憲兵も揃ってこっくりこっくりしてるが、ひとりは無意識のうちに出入り口の把手を掴んでいる。俺が逃げないようにか。疲れ切っていたものだからありとあらゆる姿勢を試してみる。一番良かったのは杖を立てて両足で挟みこみ握りの上に顎を載せる格好だ、だからって決して楽なわけじゃない、英国さんが体をよじってのしかかってくるわ紳士に恥じない大いびきをかくわ。頭から爪先まで眺めてみる、イートン校出だろう、たぶん。育ちもよければ肥立ちもいいってやつだ。こんな姿勢じゃなければね―――まあ、これも戦争だ。婦人方はにこやかにおしゃべりを続ける。「それにさ、聞いた? またパリで空襲だって。妹が手紙で知らせてくれたんだけどね」―――「大都の熱狂ゆめ醒めやらず、よ」―――
ガタンと鳴って、徐々にゆっくりと。ガタンゴトン。
窓の外が明るくなる。世界が見える。世界はまだそこにある、フランス政府に奪い去られることもなく、外気は凛として清々しいにちがいない。客室は暑い。憲兵の体臭は最悪。でもおれも人のことは言えない。なんて慎しみ深い女性たちだろう。
「どれ、やっとか」護送のふたりが目を覚まし、わざとらしくあくびをした。とっぷり居眠りこいていたなんて万が一にも俺に思われないためにか。ようこそパリへ。
休暇兵の何人かが「パリだ」と叫んだ。俺の向かいのご婦人も「パリだわ、パリ」と口走った。一緒に乗り合わせた狂人たちの寝ぼけ頭が次々に叫ぶ―――獰猛で美しい雄叫びが、最後車両までこだまする……忘却の都パリ、享楽の都パリ、魂の故郷パリ、麗しのパリ、結局最後はパリ。
英国さんが目を覚まして物憂げに訊ねてきた。「ええと、ここは?」―――「パリですよ」と俺は答えた、そして大荷物を抱えて客室を出るときに細心の注意を払ってあいつの足を踏みつけてやった。パリへようこそ。
(第09回 了)
縦書きでもお読みいただけます。左のボタンをクリックしてファイルを表示させてください。
* 『伽藍』は毎月30日に更新されます。
■ e・e・カミングズの本 ■
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■