エズラ・パウンド、T・S・エリオット、アーネスト・ヘミングウェイ、スコット・フィッツジェラルドらと並ぶロスト・ジェネレーションを代表する作家、e.e.カミングズ。優しくて人嫌いで、前衛作家で古典作家でもあったカミングズの処女作『The Enormous Room』の星隆弘による新訳!。
by 星隆弘
第2章 途上
がっちりとした体格をぴしっとした身なりに包んでコロンと玉ねぎの匂いをぷんぷんさせたやくざが憲兵特有の愛想の良さででぶ憲に挨拶をした。俺には皮肉たっぷりの眼差しと遠慮なしの冷笑をくれた。
ポッポーと短く甲高い警笛とともに、へんてこな汽車がよたよたと到着した。我が看守様一行がやっとのことで辿り着いたのはホームの反対側の端っこだった。連中は今度もまたいそげいそげいそげと俺をせき立てた。
なんとか荷物を背負い込み列車の端から端までの距離をよろよろ歩いて予約した車両にたどり着いた。すでにひとり囚人が乗っていた、微笑んだ顔の麗しい、すこし小柄な男で、防水布で包んだすこぶる上等な毛布を持っていた。俺たちはにこっと笑い合い(これは、俺がこれまでに人間相手に交わしたなかで最も心のこもった挨拶だった)、向かい合って座った――彼と、彼が運び込むのを手伝ってくれた俺の荷物が向かいの席で、こちら側は、俺を主菜にした憲兵のサンドイッチ。
何度か動く振りをして見せてからやっと汽車が動き出した。これにはドイツ人も歓呼して駅舎、汽車、俺たちを丸ごとひっくるめたそのすぐ上空に七機の偵察飛行機を飛ばした。フランス側でも同情心に駆られ全対空砲が一斉に火を吹いた。平和の守護者たちが皆それぞれの車窓から用心深く空に目を細め、敵は何機かと議論を始める一方で、俺たち囚人は互いを慮って微笑みを交わした。
『暑いですよね』と、この神の僕、囚人、犯罪者、かなにかの男は言って、かすかに震える華奢な手で水筒から大きな錫のコップにワインを注ぎ俺に差し出した。彼はベルギー人だった。戦争のはじめのころに志願兵となった。休暇をパリで過ごし、一日復帰が遅れた。彼がその顛末を報告すると、上官からは貴様は脱走兵だと宣告された――「上官に向かって言ったんです、そんな馬鹿なって。馬鹿げてます、ぼくはちゃんと、自分の自由意志でこうして戻ってきたのに。脱走兵扱いされるとわかっていたらそのままパリに居残っていましたよって」ワインはきんきんに冷えていて、俺は神聖なる酌人に礼を言った。
あんなワインを味わったのは後にも先にもあれっきりだ。
ノヨンを出発するときに兵食のパンをひと塊り祝福の代わりにもらっていた。俺はまた元気が湧いてくるのを覚えながらパンにかぶりついた。すると向かいに座る神の僕がソーセージを一本さっと取り出して、半分を俺の膝に置いた。はんぶんこにするには大型で鋭いフランス軍用のナイフが役に立った。
ソーセージの味を噛み締めたのもあれっきりだな。
俺の両隣の豚どももすでにめいめいの無気力症を克服してほっぺたが張り裂けんばかりのパン塊をむしゃむしゃやっていた。連中には食器一揃いと、国王陛下や大統領閣下にでも供するのかというほど手の込んだ遠征弁当が用意されていた。でぶ憲がくちゃくちゃ音を立ててはげっぷをかますのがやかましくてこれには本当にまいってしまった。食ってるときも飲んでるときも目が半開きで、きたねえ面に一面生やしたいやらしい髭に薄靄がかかる。
この男の赤みがかった左右の目玉がむさぼりつくような眼差しでぐりんと見回して防水布に包まれた毛布を捉えた。ごくんと大きな音でワインを飲み下すと、彼はもごもごと口を開いた(なんせあいつの分厚い口髭いっぱいに唾液でかるく湿った食べかすがこびりついていたからさ)「そんな小細工はなんの役にも立たんぞ、それその。向こうに着いたら全部取り上げられるって、わかってるよな。俺なら有効活用できるぜ。だいぶ前からそんな具合のゴム引きが欲しかったんだ、雨外套を仕立てるのにな。わかるよな?(ごくん。ごくっ。)」
この瞬間にインスピレーションがふってわいた。この山賊どもの注意を俺に惹きつければ防水布を救い出せる。と同時に俺の生まれつきのおどけ者気質も満足できる。「鉛筆はありませんか」と俺は訊いた。「祖国じゃ絵描きをやっていたので、肖像画を描いて差し上げますよ」
でぶ憲が鉛筆を一本くれた。紙をどこから手に入れたかは覚えていない。俺はでぶ憲に豚みたいなポーズを取らせ、絵の出来栄えはでぶ憲に口髭を噛ませるものだった。やくざがその絵を噴飯ものだという。なら今すぐ彼の肖像画も描いてやらないと。俺は最善を尽くしたものの、旦那じゃ美しすぎて自分の筆ではどうもと断りを入れると、やくざはぶつぶつと言い返した(口髭をひねって分け目を作りながら)。「いいから、描いてみろ」そうですかい、ならやってみましょう、描き上げますよ。思い出すなあ、あいつ文句をつけてきたんだ、鼻が変だって。
この間、神聖なる脱走兵は身をよじって喜んでいた。「よろしければ、センセイ」と彼は晴れやかな顔でささやいた。「身に余る光栄なのですが、できましたら――ぼくなんぞはもう感服しきりになるでしょうけど……」
涙が(妙な話だね)目に溢れてきた。
彼は肖像画を神聖な絵画のように手に取り、精確さと思いやりをもって評し、内ポケットに捧げ入れた。それから俺たちは飲み交わした。たまたま汽車が停まったときにはやくざが説得されて使いっ走りに出て囚人の水筒にワインを汲みなおしてきた。それからまた飲み交わした。
彼はにっこり笑いながら十年を食らったと話してくれた。三年間は独房禁錮で、それから七年道路工夫に混じって働くってことだったかな。そんなに悪い話じゃないですよ。女房と、子供さえいなければねえ。「独り者は幸せですよこの戦争ではね」――そう言ってにっこり笑った。
憲兵らが顎髭をきれいに拭き、腹の上のごみくずを払い落とし、足を伸ばし、荷物を整え出した。赤みがかった二つの目玉、ちんまりしていても残酷な目玉が、腹ごなし中の恍惚状態から覚めて獰猛さをむき出しにし爛々と獲物に狙いをさだめた。「そんなものは役に……」
無言のうちに神聖なる囚人の繊細でやさしい手が毛布の包みを解いた。無言のうちにその長い、疲れきった、立派な腕が俺の左隣の山賊に防水布を手渡した。満足げにぶひっと鼻を鳴らして、山賊は大きな荷袋に獲物を詰め込み、袋の口から飛び出さないようにするのに苦心していた。無言のうちに神聖なる眼差しが俺に語った、「なにができる、ぼくら囚人に」俺たちは最後の微笑みを交わした、目と目を合わせて。
駅。まずやくざが降りる。俺がおびただしい荷物を抱えて続く。神の僕が俺のあとに――終わりにでぶ憲。
毛皮のコートをくるんだ毛布の包みがだんだんとほどけていって、ついに抱えきれなくなった。
どさっ。落ちた荷を拾い上げるには、背中の大袋を下ろさなくてはならない。
そこに「よければぼくに担がせてくださいセンセイ」という声がして――大袋が消えてしまった。目も口もきけなくなって俺は毛布につまずいた。そうしてようやく小さな刑務所の庭にたどり着いた。神の僕は大袋を背負ったままお辞儀をし……俺は礼を言わなかった。振り向いたときには、彼はもう連れ去られていて、大袋が咎めるように俺の足元に置かれていた。
茫然自失し錯乱した意識のむこうに正体不明の舌先がいくつもちらちらと閃いていた。甲高い少年の声が、ベルギー語で、イタリア語で、ポーランド語で、スペイン語で、そして――美しい英語で俺にうったえかける。「ヘイ、にいちゃん、煙草くれよ、にいちゃんよお……」
俺は目を上げた。小さな長方形の空間に立っていた。中庭のようだ。ぐるっと囲んで、二階建ての木造バラック。小さくて粗末な階段が重々しい鎖と巨大な南京錠で閉鎖されたいくつもの扉に続いている。階段というより梯子だ。珍妙に切り抜かれただけの窓の壁に対する小ささは人形の家の窓のすき間以上に小さく見える。すき間の向こうに見えるのは人間の顔か? それぞれの扉が内部からの体当たりの衝撃で絶え間なくたわんでいる。
見つめる目。
見つめる目、二人目。俺の正面だった。明り採りのか細いすき間にもおびただしく格子を渡した壁。そのすき間に群がる十二、いや十五のにたにた笑い。格子を掴んだ手は、骨と皮ばかりにやせこけて青っ白い。格子の間から突き出すがりがりの腕、とめどなく突き出してくる。にたにた笑いが一斉に窓に飛びかかってくる、その顔にくっついている手がしがみつく、その手にくっついている腕が俺に向かって突き出される……一瞬のうちに。今度は奥からにたにた笑いが飛び込んできて第一陣のにたにた笑いを払いのけると突き飛ばされた彼らはガラスの砕けるように脆くも打ち倒された。手はしおれて格子をはなれ、腕は白く線を引いて視界から遠のき、奥へと吸い込まれていく。
この悲惨さの巨大なごった煮の中心人物らしい者が格子にしがみついた、ぶるぶる震えているが払いのけられたりはしなかった。格子の真ん中に猿のようにしがみついていた。竪琴の弦にしがみつく天使のようでもあった。甲高い少年のような声で愛想よく呼びかけてくる。「おうにいちゃん、煙草くれよ」
整った顔立ち、浅黒い肌、ラテン系の微笑み、力強く爪弾く指先。
俺はいてもたってもいられず憲兵の一群を掻きわけて進んだ(連中は俺を囲んでおもしろくもない好奇心から俺がこの惨状にどんな反応を示すかと眺めていた)。窓のほうへと荒々しく闊歩した。
幾兆もの手。
幾千兆もの物乞う指先。
かの猿天使が煙草を一包み丁重に受け取り、それとともに喚き叫ぶ闇の中へと消えた。煙草を配給する甲高い少年のような声が聞こえた。そして彼はまた視界に飛び込んできて、真ん中の格子二本に品よくすがりつき、こう言った。「ありがとうよにいちゃん、あんた最高だ」……「ありがとう、ありがとう、ありがとう……」耳をつんざくような感謝の嵐が部屋の奥からわいてきた。
「荷物をここに運び込め」怒れる声でそう言われた。「待て、持ちこめるのは毛布一枚だけだ、わかったな」フランス語だった。まちがいなく刑務所の親分だろう。俺は従った。でっぷり肥えた兵隊が大義そうに俺を牢獄へと連れて行った。俺の部屋は猿天使と同じ側の二部屋先だった。甲高い少年のような声が、迸る閃光のように突き出た腕を後光にして、俺の背中を追った。親分殿がみずから錠前をはずした。俺は平然と歩みを進めた。太った兵隊が扉に錠を下ろして鎖をかけた。四本の足が去っていった。ポケットになにか入っていると思ったら、煙草が四本出てきた。あの猿――いやあの天使に全部あげちまえなくて悪いことしたな。目を上げ、我が獄の竪琴を見つめた。
(第07回 了)
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