『オデッセイ』(2015年 アメリカ映画)ポスター
監督リドリー・スコット
茶色は不人気である。街にひしめく広告を一瞥すればわかることだが、こと商業の世界において、商標に茶色を用いたり、茶色の商品を販売することは稀である。顧客の意識調査でも男女を問わず、茶色の品物には食指が動かない、という回答がしばしば得られるらしい。
だがこれは取りも直さず、茶色がわれわれにとって非常に身近な色であるということの証左でもある。一歩外へ出れば、土も、樹木も茶色い。要するに茶色というのは自然界の色だから、外の世界から切り離された屋内まではあまり踏み込んで来ないのである。空には手が届かないから青い物は魅力的だし、花はすぐに枯れるから赤い物も買ってもいいが、そこら中にある土の色をしたものに、わざわざ金を出そうという気にはならない。
例外的なのは革製品であろう。だがこれはまさに野性を忍ばせるがゆえに珍重されるのではないか。自然を支配するという感覚にめっぽう弱い人類は、喜んでそれに身を包んだり、それで書物を装丁したりする。肉体や書物は自然の比喩と相性がいい。
と、そんな風に考えるとき、人間は自分たちもまた自然界の産物であり、茶色の肌や、髪や、肌や、瞳を持っていることを、忘れているようにさえ思われる。すると、どうやら茶色の映画は、自然と文明の対立という軸で読み解くことができそうである。
わかりやすい例はリドリー・スコット監督の「オデッセイ」(2015年、米)であろう。宇宙飛行のマークは火星探査団の一員であったが、激甚な砂嵐に襲われたある日、団員たちはマークが死亡したものと思い込み、彼をおいて火星を後にしてしまう。一命をとりとめたマークは、次の探査団が到着するまでの四年間に必要な食料の量を計算すると、植物学者としての知識を活かして、じゃがいもを育てることにする。
『オデッセイ』(2015年 アメリカ映画)スチール
監督リドリー・スコット
宇宙空間での遭難と帰還、というこの上もなくありきたりな物語の枠組みに新鮮味を与えているのは、まさにこの栽培という行為である。茶色一色、いつ命が脅かされてもおかしくない剥き出しの、宇宙規模の自然のなかに取り残されたマークは、自然からの唯一の逃げ場所である基地のなかで暮らしている。そこは白い幕で仕切られ、茶色を見なくてもすむ貴重な場所なのである。だがそこに引きこもっているだけでは永くは生き延びられない。そこでマークはあえて外から土を持ち込み、そこにじゃがいもの緑を芽吹かせることに挑戦するのだ。肥料になるのは、これまでにマークや仲間たちが蓄積した排泄物という、これまた茶色の物質である。こうしてマークは人類の叡智を象徴するような白い空間に、あえて自然界の茶色を侵食させることで、部分的にではあれ、火星の自然を征服することに成功するのである。
さらに言えば、火星の大地の茶色の向こうに、いつか帰れるかもしれない地球の大地が透けて見えているということも、見落としてはなるまい。映画の原題は「火星人(The Martian)」であり、ポスターに大きく記された惹句は「彼を故郷へ(Bring Him Home)」である。つまりマークは、火星の大地を地球のそれと同じように耕すことによって地球を手元に呼び込んでいるのであり、そうすることで、再び地球の大地を踏みしめて「地球人」になるという希望に幽かな輪郭を与え、辛うじて正気を保つのである。彼を何よりも苦しめている自然は、また母なる自然でもあるわけだ。
もっとも自然と文明の対立は都会においても、いや、都会においてこそ、鋭く現れるものとも言える。
例えば子役時代から活躍するクリスチャン・ベールの成人後の出世作である「アメリカン・サイコ」(2000年、米)である。八十年代後半のニューヨーク。主人公のパトリックはエリート校からエリート大学へ、エリート大学院からエリート企業へという歩みを重ねる典型的なヤッピーである。しかし仕事の実力はどれほどのものかわからない。というのもパトリックの勤務先で采配をふるっているのは、他ならぬパトリックの父親だからである。パトリックは仕事よりも、出勤前の過剰なまでの運動、ヤッピー仲間との高級な食事、そしてスーツや宝飾品、美容などに異様な関心を払う。
だがパトリックがその悪魔的な本領を発揮するのは日没後である。同僚のポールのほうが気の利いた意匠の名刺を持っていた、というだけの理由で、パトリックはまず腹いせにホームレスを殺し、それでも怒りが収まらずに今度はポール本人を殺し、ついにはあたかもサド侯爵のように、娼婦相手に拷問や殺人を繰り返すようになる。
しかし自然に頭を垂れ、返す刀で文明を糾弾した聖侯爵とは違い、パトリックは無自覚のまま文明に飲み込まれてしまっているのだ。
美徳は人間の恒常的な道徳では全くなくて、単に社会生活の義務が人間に尊重することを強いた、不自然な犠牲的感情でしかないことも明らかである。(中略)悪徳の勧奨は、これは確かに自然の声である。
サド侯爵『悪徳の栄え』(澁澤龍彦訳)
などという哲学に、パトリックは決してたどり着かない。そして、実のところ、パトリックが実際に人を殺したという証拠はひとつもないのである。映画の終盤、殺人鬼はついに弁護士にすべての罪を告白するが、相手はそれを冗談と笑い飛ばし、しかも、緊迫した会話の最中にパトリックを別人と勘違いする有様である。つまりパトリックは、ふだん彼が見下している浅はかで表面的なヤッピーの群れの一人に過ぎず、第三者から見れば「顔」さえも満足に持てない、無個性な富裕層の若者に過ぎないのだ。
この映画の画面はしばしば茶を帯びる。それは乾いた血の色を想起させる色でもあるが、むしろ健康的な男性美を演出するためにパトリックが施している人工的な日焼けの色として印象に残る。もちろんその肌色は有閑階級のパトリックには似合わず、連想されるのは自然の二文字ではなく不自然の三文字である。殺人という衝動的な行動でさえ文明に回収されてしまっているパトリックという存在に、もはや自然の光は見出だせない。
『アメリカン・サイコ』(2000年 アメリカ映画)スチール
監督メアリー・ハロン
これとよく似た状況は、題名も響きあう「アメリカン・ビューティー」(1999年、米)にも見出される。
広告会社に勤め、雑誌の編集に携わるレスターは、社会的には羨望の的であるはずの自らの職業を、退屈な苦役と決めつけて憎んでいる。一方、やり手の不動産ブローカーである妻のキャロリンはと言えば、情熱を失ってしまった傲慢な夫が憎くてたまらない。そしてチアリーダーとして青春を謳歌している娘のジェーンは、いがみ合う両親がそろって憎いのである。
そこへ、レスターが勤めを首になるという椿事が持ち上がる。しかしレスターは落ち込むどころか、よろこび勇んでファストフード店に就職すると、急に肉体を鍛え出し、派手な車を乗りまわし、マリファナまで嗜むようになる。レスターは恋をしていたのである。しかも相手はジェーンの同級生で、やはりチアリーダーのアンジェラであった。
この作品では中産階級の家庭を包む偽善が、ホモフォビア、不倫、麻薬依存、民族主義、自意識の低下など、現代のアメリカを蝕む様々な問題を通して暴露されてゆくのだが、有名なレスターの妄想の場面は満開の薔薇でいっぱいだというのに、現実世界の色調は全体的に茶色がかっている。それは中年男レスターが人生に疲れ、樹が枯れるようにして生気を失ってゆく様を思わせると同時に、アメリカという国家の理想主義が避けようもない破綻に直面し、この豊かな超大国がいつか再び荒野へと還ってゆくことを予告するようでもある。
『アメリカン・ビューティー』(1999年 アメリカ映画)スチール
監督サム・メンデス
こうして見てくると、茶色という色合いはそもそもアメリカという国によく合っているのではないか、という気もしてくる。広大な森と砂漠を開拓し、殺戮のうえに成り立つこの人工楽園は、常に文明を前進させ続けなければ自然のしっぺ返しが追いついてくる、という恐怖に追いかけられでもするように、ひたすらに生き急ぐのである。
その意味では「フォレスト・ガンプ/一期一会」(1994年、米)のような作品は救いであろう。フォレスト・ガンプは知能指数が低く、背骨の歪みのために歩くこともままならない少年であったが、いじめらっれ子であったことが幸いして、悪童たちから逃げまわるうちに天稟の俊足を発揮するようになる。その後アメフト選手に、陸軍の兵士に、卓球選手に、投資家に、そして平和の使者へと姿を変えながらフォレストは走り続け、最後には小さな幸福を手にするのである。
フォレストは言うまでもなく、弱者が夢を見ることを許す国であったはずのアメリカの、建国当初の理想を体現している。そしてフォレストが走り抜ける茶色の風景は、まぎれもない本物の自然、「自ら(おのずから)然る(しかる)」ところの自然なのだ。
『フォレスト・ガンプ/一期一会』(1994年 アメリカ映画)スチール
監督ロバート・ゼメキス
大野ロベルト
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■