「詩人と呼ばれる人たちに憧れている。こんなに憧れているにもかかわらず、僕は生まれてこのかた「詩人」にお会いできた試しがない。・・・いつか誰かが、詩人たちの胸ビレ的何かを見つけてくれるその日まで、僕は書き続けることにする」
辻原登奨励小説賞受賞の若き新鋭作家による、鮮烈なショートショート小説連作!。
by 小松剛生
立ち食いそばが好きだ。
立ち食いそばのある町が好きだし、立ち食いそばが構内にある駅は素敵な駅だと思う。世界の中心にあるべきなのは愛よりも立ち食いそばであるべきだと思うくらいには、それが好きだ。
なぜこんなにも好きなのだろう。
いや、その「好きさ」加減がちょうどいいところに、むしろヒントが隠されているような気がする。砂漠のど真ん中であれば、立ち食いそばよりもオアシスを求めるだろうし(立ち食いそば屋であれば水も飲めるだろうという無粋な口出しはこの際、ご容赦いただきたい)、女の子とのデートでわざわざ立ち食いそばをたぐりに行くという選択もしない。
ただひとりでぶらりと立ち寄る、けれどその時は立ち食いそばでなければならない、そんな具合のポジションに立ち食いそばという存在がある。だから、いい。
ムーミンの話の中にスナフキンという孤独な放浪者が登場することを知っている人は多いだろう。スナフキンは言う。「どうしてみんな、ぼくの旅のことを、そっとしておいてくれないんだろう」スナフキンがムーミン谷に滞在する期間が長いのはムーミンたちが「僕のことをひとりにしてくれる」からだという。
立ち食いそばもそうだ。
それは僕のことをそっとしておいてくれる。ひとりになりたいときにひとりになれる程度が、すごくちょうどいい。
東海林さだおさんも立ち食いそば好きなことで有名(勝手に僕がそう思っているだけかもしれないけれど)だ。何かの著書で、そばを注文する青年に感動する場面を書いていた記憶がある。
青年は券売機で買った券をカウンターに置きながら「そばで」と言う。東海林さだおさんはそれまで「そば」としか言わなかった。その「で」に他の言葉では置き換えられない優しさを感じたと、確か書いていた。
「で」だけでしか伝えることのできない優しさ。それが生まれるのも、立ち食いそばだからなんじゃないかと思うくらいにはそれに対して盲目な自分がいる。
トルコ共和国の国旗は星と三日月を表しているという。でもすこしおかしいのは、三日月の向きが逆なのだ。
日本と同じ北半球に位置しているその国から見た三日月は左側に切れ目があるはずなのに、国旗は右に切れ目がある。
『三日月とクロワッサン』にて、そのことに触れていた須藤靖氏は「国旗を考えた人が、三日月を逆立ちしながら眺めた可能性は否定できない」というようなことも書いていたので、興味ある人はぜひ一読することをおすすめする。
「なるほどね」
彼女は僕の話を聞きながら、テーブルに運ばれてきたお皿の上のクロワッサンを三日月の向きにしながらそう言った。
「え、なにが」と僕が聞くと「知らないの?」と言われた。
「フランス語で三日月のことをクロワッサンっていうの。あなたのいうトルコの国旗はフランス語だと「デ・クロワッサン」ってことね」
「そうなんだ」
知らなかった。
彼女はそのまま黙ってクロワッサンを食べ始めてしまった。僕の頼んだオムライスはまだ運ばれてきてないけど、彼女は僕といるとき、まるでひとりでものを食べているかのように行動する。スナフキンよりだいぶ背丈はあるけど、日本のスナフキンと言ってもいいのかもしれない。
その話をしようか迷っていた僕に、彼女が先に口を開いた。
「お昼はどうしようか」
まだ朝ご飯を食べ終わってもいないのに、もうお昼ご飯のことを考えている。
彼女であれば、立ち食いそばに誘ってもいいかもしれない。
僕は言った。
「そばで」
僕なりにそれはちょっとした優しさを伝えたかったのだけど、彼女はちょうどクロワッサンに夢中になっているタイミングと重なってしまい「え、なに」と訊きかえされてしまった。
「いや、なんでもない」
「で」の優しさが通用しない世界もある。
おわり
【参考および引用文献】
『三日月とクロワッサン』著:須藤靖(毎日新聞社 2012年)
(第34回 了)
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* 『僕が詩人になれない108の理由あるいは僕が東京ヤクルトスワローズファンになったわけ』は毎月6日と24日に更新されます。
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