傑作である。何が傑作といって、想像力が正しい方向を向いている。正しいか正しくないかはどうやって判断するかというと、それが細部にまでおよび、しかも無理を感じさせずに展開しているのならば間違いない。そのとき想像力は、倫理とか社会常識とか教訓とかの補助をいっさい受ける必要がない。受ける必要がないものはむしろ害悪となり得るので、結果として排除される。
逆にいえば、社会常識や教訓がちょっとでものぞいたら、その善し悪しは別として、おそらくその地点において想像力は行き詰まっている。想像力は別世界をつくるものだから、それが見えているかぎり現世の常識や教訓を思い出す必要はないはずだからだ。枯渇を糊塗するため、それらは呼び出される。呼び出されるとき、子供向けということがエクスキューズに利用されるのは腹立たしい。
それが本当に子供向けなのか、子供を持つ親の財布向けなのかは、子供の興奮の度合いを見ていればわかる。本書を眺めた子供は、間違いなく冷蔵庫に直行するだろう。野菜室にもしかして、おかしな動物たちがうごめいているかもしれない。そうだとして、それには理由などないのだ。
理由がない、ということは子供たちを直撃する。あらゆる理由は大人の考えたもので本来、子供には縁がないからだ。しかし理由はなくても繋がりはある。野菜室のキャベツが惑星であることに理由はないが、それが多くの奇妙な野菜-動物を擁するのは、それらすべてが〈新鮮〉であるからだ。
すなわち目の前の野菜、写真で示される現世のリアリティはその新鮮さによってのみ、奇妙な想像上の生命体を担保する。それ以外のどんな社会的・教育的なコードとも無縁である。想像上の生命力が結びつくのは現世の生命力、野菜でいうなら新鮮さだけ、ということだ。それは日常的な、ごくおとなしい生命力であるがゆえに、想像上の生命体は何からも留められることなく多様性をきわめる。
この光景はどこかで見た、とも思う。さまざまな種の生物が生まれ、生命多様性をもたらしたという古代のカンブリア爆発を想わせるそれは。想像力の正しい道筋は、そのカンブリア期を経るものであるならば、惑星キャベジにもカンブリア爆発があったに違いない。そう思わせるような、多様で奇妙で笑っちゃう動物たちのオンパレードだ。だから子供たちは冷蔵庫に直行する。まだまだ別の動物たちが生まれるポテンシャルを感じるのだ。
トマトとブタ(トマトン)、カバとカボチャ(カバチャ)、ダイコンのイカ(ダイコンイカ=×ダイオウイカ)、文字通りちっちゃなゴマのアザラシ(ゴマアザラシ)と、この想像力は単に画像の結び合わせではなく、言語的なものから発生している。むしろ言葉を画像のように扱うことで、意味のコードから解き放たれている。
それはもちろん、あのアリスの「かばん語」である。それが正しい文法を内在させている証拠に、動物たちの解説文もかぎりないダジャレとロジックに充ち満ちている。ナスのクジラ(ナスクジラ=×白くないシロナガスクジラ)からのさまざまなクジラの種の展開は、あくまで想像力の文法に従った自然発生を示すのだ。
金井純
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