出雲の特集である。神道の様々な儀式のグラビアは、たいへん興味深い。太古から永遠に変わらない土地が、日本の中に存在している。そこでタイムスリップしたかのような錯覚に捉えられる。もちろん錯覚なのだろうが。
並んでいる論考も興味深い。が、ふと思った。これって文芸誌なんだっけか?
齋藤女史がこの雑誌の民俗学的なところをひどくお気に入りで、うん、確かに面白い。で、この面白さはたぶん、直接的に創作に結びつく。ってゆうか、読んでると、いきなり何か書けそうな気がする。しかも、すっごく日本的なもんが。
怪という雑誌が文芸誌なのは、京極夏彦とか宮部みゆきの作品が掲載されているからではなく( って、あらためて見ると、すごいラインナップ )、そこにある民俗学っぽい記事が無味乾燥っぽいアカデミズムとかじゃなくて、想像力とか創作意欲とかを掻き立てる感じだからに違いない。きっと。
だからそこに載ってる作品が、そこに載ってる民俗学っぽい記事にインスパイアされて書かれたってことが、つまり民俗学っぽい知識と小説とが、どんな具合に結びついてるかわかれば…。って、それだと「あなたも作家、それも芥川賞系の小説専門の作家になれる」みたいな雑誌になってしまう。文学金魚で叩かれてるみたいな。
幸いとゆうか、ここに書いてる作家さんたちは、そんなネタばれを許したり、雑誌や作家志望の読者におもねったりするほどは甘くない。だけどそれだけに、やっぱ記事の雰囲気からずれて、なんで突然、この物語? とは感じるが。
まあ、それはともかく、京極夏彦の小説の最後に、「この物語はフィクションだと思うけど、実在の人物や組織と関係あるかないか…よくわかりません」みたいに自信なさそうに注があるのは、すごくいい。
実際、民俗学っぽい記事が、小説より奇なりって感じで載ってると、フィクションって何だろ、と思う。創作意欲を掻き立てる、とか言っておいて矛盾してるが。実在の人物や組織と、まったく無関係の物語なんか、あるわけないだろが、と突っ込みたくなるし。
たとえば、松谷みよ子の「信濃に神無月はない」。そこでの神様たちの会議とか、竜神とかを「実在の組織・神とは関係ありません」と言ったらおしまいだろう。
ごく太古的な、ナイーヴな、ネイティヴな感性と、この民俗学っぽいノリは相性のいいもので、そんな感性を持っていた古代人、あるいは現代の子供であっても、どこかでホントの話と思って聞いている。それが物語の原初的な力だった、ちゅー気がしてきた。とすると、現代の作家たちはノンフィクションライターになるしかないの、と言われそうだ。
それは違う、たぶん。作家のテーマにリアリティがあればね。
水野翼
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■