6月に亡くなったレイ・ブラッドベリの追悼特集である。エッセイや再録などの翻訳が五本並んでいる。
「連れて帰ってくれ」は、亡くなる直前に発表された自伝的エッセイである。物語に夢中になった少年時代の様子は、微笑ましいというのを通り越して、かなりイッちゃってる感じ。そうでなければ、あんなふうな大作家にはならないんだろうな、と思える。
少年レイ・ブラッドベリは火星に向かい、「連れて帰ってくれ」と叫ぶ。ああそうか、レイ・ブラッドベリはかぐや姫のように、いっときこの地球に身を置いていただけだったのか、と納得した。だから遠いところばかり眺めて、未来とか過去とか、火星とか月のことばかり考えて暮らしていたのだろう。
しかし一方で、いわゆるSFという範疇に入りきらない、ファンタジックな作品も数多くある。SFの抒情詩人という呼び名は、よく考えると語義矛盾で、ブラッドベリの抒情的なファンタジー、たとえば『十月はたそがれの国』などに、S (サイエンス) の要素はあまり感じられない。
思うに、レイ・ブラッドベリにとっての S (サイエンス) とは、少年の鮮烈な感受性の受け皿であるに相違ない。その相で世界を眺めれば、透明な、不思議なフィルターがかかって見える。ブラッドベリがいつも言っていた「メタファー」とはそのことだろう。
日本で最も人気のあるブラッドベリ作品は、おそらく『たんぽぽのお酒』ではないか。少年の夏の日、うきうきした目覚めに、地に足がつかない感じ。それは我々にも既視感がある。どこの国の少年も同じだ。
少年は何としても、新しいシューズが必要だと感じる。去年のではダメなのだ。今、この夏の日の素晴らしい瞬間には、新しいシューズが。
このような少年の日の抒情性を「新しいシューズ」というマテリアル=物質に還元してしまうのは、まさしくアメリカ文学だと言える。
日本においては、抒情は過去の文脈の中から汲み出されてくるものだが、アメリカ文学はそれをより透明に、純粋に濾過しようとする。モダンを通り越したマテリアル、過去から断絶されたサイエンス・フィクション、そういったものはすべてアメリカ文学をアメリカ文学足らしめるための「純化装置」だろう。
ならば「SFの抒情詩人」という矛盾に満ちた呼び名に戸惑うことはない。ようは、レイ・ブラッドベリは「アメリカ文学者だ」と言っているのと同義なのだから。
そして死の直前に「連れて帰ってくれ」という、まさにああいったエッセイを書き遺してゆくというのは、我々の考える「文学者」の定義そのものだ。この6月にブラッドベリは火星に帰ったのである。
池田浩
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■