日本作家特集、ということだ。また漠然とした特集だが、普段はS-F の本場、海外からのものが多いので、日本作家とわざわざ呼ばなくてはならないのだろう。
それでと言うか、ところがと言うか、この特集も日本作家たちも、わりと安心して読める感じがする。大事なのはこの「感じ」ではないか。
時評のために文芸誌を手にとって、だんだんと様子がわかるようになってくると、それがいかに不安定でいい加減な「制度」かが透けて見える。「制度」であるのは主に純文学誌だけれど、その作品はレベルが低いというより、もう基準が見えない。それが不安定だ、ということ。
エンタテインメント誌は不安定ではない。作品自体の安定感がある。その一方で、雑誌の方の存在理由が希薄になってくる。で、いい加減なコンセプトで特集を組むことになるんだろうな。希薄な存在であることと、馬鹿馬鹿しくいい加減であることとの間での、究極の選択だ。
S-F マガジンは幸いにも純文学誌ではなく、エンタテインメント誌ながら伝統と存在理由がある。したがって、このどちらの陥穽にもはまらない「感じ」があるわけだ。
読者が雑誌を手にとる、しかも毎月毎月、手にとろうとするのは、何と言ってもこの「感じ」からに他ならない。極端な話、その「感じ」さえ与えられるなら、中身も実態もどうだっていいくらいだ。
同じくハヤカワのミステリ・マガジンも編集コンセプトにブレが少なく、他のミステリ誌と異なる安心感はあるのだが、S-F ジャンルにはまた固有の揺らぎなさがある。これはどこから来るのか。
「日本作家」たちのS-F 作品は確かに、「低値安定」的な揺らぎなさともとれる。とりたてて低調というわけではなく、ただ決して盛り上がることのないジャンルとしての揺らぎのなさ。
盛り上がることがないのは、「盛り上げる」というカルチャーがないからでもある。「日本作家」たちが三人寄っても、ジャーナルが見えないし、生まれてこないというのは、珍しくもなかなか清々しい。
本当のところS-F もミステリも、日本固有の文化や宗教、死生観とはなんら接点を持たない。ジャーナルがないのはそのせいだが、ミステリはときどき「ぶちあげる」。そうやってぶちあげられたものにかぎって、買って読むと期待はずれ。結局はミステリというジャンルの本質からはずれた、「人情」だの「今風の会話」だの、日本文学の「状況」で盛り上げるしかないからだ。
S-F ジャンルはそういう姑息なこととは無縁らしい。もちろんハヤカワのS-Fマガジン編集部としてはいろいろと試みているものの、どうにも閉じられたものになっているというだけかもしれないが。
だけど、黙々と書き続けるS-F「日本作家」の作品は少なくとも、わけのわからないジャーナルと化した純文学誌に載せても、十二分に通用するんじゃないかな。
水野翼
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■