偏った態度なのか、はたまた単なる変態か(笑)。男と女の性別も、恋愛も、セックスも、人間が排出するアノ匂いと音と光景で語られ、ひしめき合い、混じり合うアレに人間の存在は分解され、混沌の中からパズルのように何かが生み出されるまったく新しいタイプの物語。
論理学者にして気鋭の小説家、三浦俊彦による待望の新連載小説!。
by 三浦俊彦
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■ ひとつ最後に驚かされたのは、ほなみ先生はティシュを全く使う気配なく、万事心得たようにすんなりパンツズボンを上げてすたすたと去っていったことでした。
普段ウンコレスな体質ならば拭く習慣がないのは当然ですが、それにしても実際うまく運ぶものだなあと。オナラと便秘便だけならまだしも、あれほどの下痢と軟便をも繰り返した後ですから、拭かずには心地よく歩けるはずがありません、普通。それをいとも当然のように……、
そうです。あのすさまじい派手脱糞によってほなみ肛門はびちょびちょに汚れ爛れすらしていたのですが、そのあとの乾燥系放屁一斉射撃ブゥーーーーーーーーーーーーーーーッ!、ブゥーーーーーーーーーーーーーーーッ!、ブゥーーーーーーーーーーーーーーーッ!、ブゥーーーーーーーーーーーーーーーッ!によって、浸潤肛門はすっかり乾き、癒され、宥められていたのでした。オート洗浄・乾燥機能付き肛門だったのだ。
体質が急変したとなれば、勝手が違って大粗相をしてもおかしくないところだろう。そこをほなみ肛門はいともあっさり、おそらく本人の脳による意識抜きであっさり適応できてしまった!
体質も極まればかくもスムーズに世を渡っていけるものなのだ。
これぞ見習わなければ、とその場で打ち震えた僕だったのです。
そう……、この目撃体験をもって僕は、「そうなんですよ、この体質からは逃れられないことを悟ったのでしたよ……。諦めるというか、悟るべきだということを悟ったのでしたよ……」
袖村茂明のこの顔振峠体験こそが、地縛霊のような体質オーラをその場に長くとどめ、後に桑田康介&仲出芳明による「磁場」もしくは「波動」感覚として捕捉され、体質感染を生じ、飯島隆文&グローリア・ハッチオン場面への遭遇となって結実したことはもはや明白だろう。
通りすがり的近隣の誰彼かまわず体質感染をもたらしてきた袖村ビジュアリズムもさすがに、十何年間のあいだ体質成分を一か所にとどめおいたというのはその後袖村が生涯を終えるまで破られなかった大記録というべきである。それだけ袖村の人生にとっての主観的画期性が客観的に投影された一大事例の証というべきであろう。
この袖村回顧談は印南哲治に重大な衝撃を与えた。
何故だろうか。
■ 金妙塾が、深筋忠征級の「スカトロ道の達人」を招き塾活動のブレイクスルーを図るようになったことは前述した(第30回)。その招待企画が印南哲治に向かったことは、偶然でもなんでもない。ネオクソゲリラの発展的解消の儀式は、ネオクソゲリラの朗読で最も頻繁にその著作を使用した石丸φの登場を願う形となるであろうことはけだし当然だからである。
印南は身元を周到に隠匿しておきたい旨を出版社筋に周知徹底させていたため、金妙塾の問い合わせに対しどの版元も律儀に沈黙を守り、一時石丸φ招聘企画は暗礁に乗り上げたかに見えた。が、第二候補両角θ招聘の段取を定例会にて議論しているとき、桑田康介がふと画期的なアイディアを提示したのである。
「あのー、話戻すようだけど、石丸φさんって、正体はこのほら、印南哲治って哲学者と同じ人じゃないかなあ……」
康介の手には、二十年余り前の日付のある菅瀬由美子独舞『暗刻声』パンフレットがあった。この公演パンフに印南哲治が「解説文」を寄せたのは、大学院の同期にこの菅瀬由美子の旦那であるアメリカ人がおり、誘われて何度か独舞リハーサルを自宅へ見に行っていたからだった。この独舞公演は、自宅2DKの六畳間で三日間だけ行なわれたものであり、自らのボイスパフォーマンスのテープ録音に合わせて全裸で踊り、最後に脱糞するというシンプルなものである。ボイスパフォーマンス音には歯磨音(シャカシャカサャキャシャカ……)嚥下音(グ、ゲクッ)ゲップ音(グィエ)唾吐き音(ピュエッ、プウェッ)痰吐き音(クヲアアアアァーッ)嘔吐音(ウォエャオァオワ)などが多種重なり、フィナーレの脱糞も事前に仕込んでおいた胡桃やビーズを一緒に出すという、音的にみるとかなり凝った作りであった。菅瀬由美子は小学校三年のとき学校で、便意を女子トイレまでこらえきれず間近の男子トイレに駆け込み、片想いの大原君がアサガオに向かっているのに気づいて個室に入らぬまま立ちすくんだが運の尽き、立ったまま大下痢を放出し白靴下真ッ茶に染めて大泣きし憬れの君に介抱されたという経験を持っており、それ由来の下半身系コンプレクスがこのスカトロ系公演活動への専念を生んだというのが定説であり、後述のように小学生時から七歳年下の従弟を尻穴遊びで苛んだりした個性はこのおもらし事件の直後から顕在化したとされている。(ちなみに、菅瀬由美子の恥辱おもらし体験は、本報告の最後部に微妙写像されることになるので記憶にとどめておいていただきたい)。記帳名簿によると公演は十九人、のべ二十二人だけ観賞したと言われ、美女の間近な脱糞風景(菅瀬由美子は10段階で7.34程度の美人だと印南の日記にあり、パンフの写真でもそのくらいに見えるとされる)は印南のその後の針路を決める役割をあの笹原圭介以上に決定したと言えるかもしれない。まだ大学院博士課程在籍中の身にて肩書臆面もなく「哲学者」と記すあたり、アングラアーチストとしての舞踏者への敬意からというよりおろち文化学が後々教育学でも社会学でもなく哲学の一分野として研究されるようになる知的布置の布石も根深いと解釈すべきであろう。
印刷されたパンフはわずか百部、近所の喫茶店などに配布されていたが、桑田康介自身どこで手に入れていたかを覚えていないとはいえ、たまたま『お尻倶楽部』バックナンバーを整理していたとき段ボールの底にその深緑色のパンフがあったということで、自分の生まれるずっと前のこのようなマイナー公演パンフを入手できたこと自体、桑田康介のおろち資質を物語っている。その二頁目の印南哲治の――まだ石丸φ名義で執筆を始める前の若き印南の――文章が金妙塾の求める人物の文章であると康介が察したのは、「ただなんとなく」であった。むろん、詳しく解析すれば使われている単語の頻度や語尾の癖、リズムなどから類似が実証できるはずだが、それを無意識につきとめてめていたというところが、ますます桑田康介のおろち資質を示しているといえよう。桑田康介が金妙塾に入塾できたのは印南哲治のせいであることは前述したが、今度は逆に、印南哲治が金妙塾と接点を持つにあたって――そう、彼が金妙塾を放置しようと決めた直後に――桑田康介が決定的役割を果たしたのである。
あたかも、あたかも……
印南哲治の達人体質が(袖村茂明のビジュアル体質、蔦崎公一の食ワサレ体質とは違い「達人体質」なる資質を担う遺伝子が同定されているわけではないが)自らの金妙塾への自然なる接触を実現するために予め天才桑田康介を金妙塾に送り込んでいたかのように。
康介の提言に対して塾生の全員が頷き、やはり「確たる理由もわからぬまま」石丸φ=印南哲治と確信したのだった。「哲学者」の肩書を手掛りに全国大学教員名簿により、同名の印南哲治なる人物を金妙塾代表・吉丸八彦と小熊誠子が伊奈芸術大学へ訪ねる段取となったのである。
この頃印南は、31番さんと会えなくなった虚脱感から、ひたすら講義に専念していた。研究室に吉丸と小熊の訪問を受けた印南は、金妙塾に関わる己れの運命なるものと運命ならざるものとの区別を悟って二つ返事で講演を承諾した。いやなに、報酬は要りませんよ。私はあそこの、深筋さんの鮮渋堂でいい買い物させていただいたことありますしね。この文化の普及に役立てるなら、喜んで。金妙塾への拘りを印南に放棄させた31番さんがその車内放屁により再び印南を金妙塾に結びつけるというこの
ループ構造……
……は、印南と桑田康介の相互寄与の関係に類似している。印南哲治の周囲には、確かにこの「ループ的フィードバック機構」の磁場がしばしば励起しているということが後にも幾たびか見て取れるだろう。
印南は身も心も極限まで密着し尽くした鮎子関係、身も心も中途半端なおろち系関係、そして淡いままにとどまった31番さん関係という結果的に理想的三色の経験記憶を、なんとか物質的に再現したいという願望であったことに気がついた。
つまり、講義と職務に専念しながらくすぶっていた内なる情念の疼きの源がである。
金妙塾の来訪・依頼によって、ごく短期間鎮静していた印南本来のおろち衝動に再び火がついたのだ。理想的三色の物質的再現とは、当日吉丸八彦、小熊誠子と駅ビルのレストランで食後のワインを飲んでいるとき鮮明な像を結び冗談半分を装いつつ口にしたものだが、金妙塾本来の人的資源とその調達能力を利用した「人間肥溜パフォーマンス」であった。以前に抱いていた人間肥溜自殺願望(第29回その他)の延長ではない。あの肥溜死とこの肥溜実演との差異は、おそらく、囲碁と将棋の相違、柔道と空手の相違、いや、音楽と絵画の相違よりも大きい。肥溜死は非公開でひたすら自己実存の自己開示のために行なわれるべき功利的営為であったのに対し、肥溜実演は公開パフォーマンスとして自他確認の実験としてなされるべき芸術的営為として妄想されたのだったからである。しかも、人数も単なる致死効果でなく美的飽和を旨とする関係上、以前の三十名から最低五十名という構想に変更されていた。ひとりあたり二百グラムを放出すれば、ちょうど計十キログラムという基準量を実現できるからである。しかも顔面集中ではなく逆に顔面以外の全身を覆う構図となり、人的配置も、便秘尻、健康尻、下痢尻を交互に配して三色流合の図を形成することこそ、印南の経験記憶の理想的三色を意味づける完成形態でなければならなかった。テクニカルな難度が倍したと言ってよく、印南は金妙塾との関わりを、この究極の芸術活動の実現に向けた準備として捉えることとなったのである。この衝動について印南は金妙塾生らに以後二度と明示的に洩らしはしなかったが、この秘められた衝動が印南を窮地に追い詰める一因となっていたことは最近おろち史ストックホルム学派によって明らかにされた。
■ 菅瀬慎次・貴美子は、菅瀬由美子の従弟妹である。両者にはほとんど交流はなかったが、慎次・貴美子兄妹に「隙アリ」のような決して普遍的ならざる遊びがハイティーン時に至るまで綿々坦々続きえたのは、兄妹幼少時に一二度訪れたおり由美子が慎次より七歳年上のイニシァティブによって元来素因なき兄妹にアヌス系色濃き遊戯を仕掛けたことがあり、それが刷り込まれた結果があの穏健なる「隙アリ」であったと今日では考えられている。当該刷り込みが兄との別離後も菅瀬貴美子を支配していたことは、湊美術大学入学後にビザールアートサークル「うかれメ」を級友とともに結成しその代表として貴美子が活躍し始めたことに表われている。
「うかれメ」はその名の仄めかすとおり全員女性メンバーによって営まれるサークルであるが、当初、パフォーマンスをビデオや写真に収録して芸術祭に出品するという活動法をとっていた。パフォーマンスとしては全員が東京近郊に散らばって道端主に自販機脇に痰を吐き、その地点を五週間にわたって定時に撮り続けて痰痕がどう変化してゆくか、いつまで残っているかを記録する『スポット840h』や、路上キスしているカップル計十七組の脚だけ延々と望遠盗撮記録した『路チュー中柱』など、ビザールとは自称しながらきわめてコンセプチュアルといおうかおとなしめ助走的作品といおうかにとりあえず専念しているうちにずるずると二年が経ち、写真専攻の貴美子はゼミ課題の映像を求めて「うかれメ」新境地の探索も兼ね、公称ヤバめ系繁華街の暗黒筋に知り合いのいる友人の友人を通じ、地下生活者のリンチに立会い撮影することを許可されたのだった。
さよう、K.S.というイニシャルを記憶されているだろう。
蔦崎公一の悲壮悲惨きわまりない「修業」にピリオドを打ったあのK.S.……
あのK.S.……こそ、この菅瀬貴美子なのであるらしい。
少なくとも新世紀おろち確率論の範疇ではその可能性が限りなく高いとされる。
(第70回 了)
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■ 三浦俊彦さんの本 ■
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■