「詩人と呼ばれる人たちに憧れている。こんなに憧れているにもかかわらず、僕は生まれてこのかた「詩人」にお会いできた試しがない。・・・いつか誰かが、詩人たちの胸ビレ的何かを見つけてくれるその日まで、僕は書き続けることにする」
辻原登奨励小説賞受賞の若き新鋭作家による、鮮烈なショートショート小説連作!。
by 小松剛生
はんぺん
おでんに関する話を書こうと思いついたのは、吉田先生の一言がきっかけだった。
「野球というスポーツはほんとに素晴らしいね」
その夜、僕と先生はおでんをつつきながら野球中継をぼんやりと眺めていた。
巨人 対 ロッテ。
ちょうど交流戦の始まった時期だ。
先生はスポーツと名のつくもの全般に興味がないとばかり思っていたので、テレビで野球を観るという事実そのものが意外だった。
「一度だけ球場に観に行ったことがあるんだ。巨人戦だったな。テレビ中継されているのはほとんどが巨人だし、東京ドームは近いからね。なにしろつまらない試合でさ。相手チームが2回だか3回に6点奪っていって、それきりさ。相手チームがどこだったかは忘れたけどね」
――何よりびっくりしたのは生で見る野球選手たちのお尻の大きさだよ。いかにも筋肉がたっぷり詰まっていそうな、大きなお尻をしてるんだ。特に仁志選手が大きかったのを憶えてるよ。
先生らしい感想だった。
僕はおでんの汁をレンゲですくい取りながら訊いてみた。
「それきり行ってないんですか」
「もうこりごりだよ。鳴り物はうるさいし、お弁当は値段高いし。トイレも遠くてすごく混んでた。野球の最も素晴らしいところはね、途中で席を外しても問題ないところにあると僕は思うんだよ。サッカーじゃそうもいかないよ。なにせ点が入るシーンなんてあんまり見れない、ボールはひっきりなしに動いてる、あれじゃトイレにも行けやしない。その点、野球はいいね。気軽にトイレに行ける。得点シーンを見逃しても、そこまで損した気分にならない。明日また見ればいいやって思える」
――野球はテレビで見るに限るよ。
そう言って先生は食卓の上のおでんに視線を戻した。
5月半ばというのにやたらと暑い夜で、冷えたビールが心地好かった。
先生は言った。
「おでんは濁点のついたものが美味しいね。「がんもどき」なんか最高だ」
なるほど、確かに。
ちくわぶ、だいこん、たまご。
みんな濁点のついたものばかりだ。
「先生、はんぺんはお嫌いですか」
「僕はあれをおでんとは認めないよ」
ああ、かわいそうなはんぺん。
どうやら先生にとってはんぺんはおでん界の鼻つまみ者的存在らしい。
熱い汁にすべて浸からせてもらえず、鍋のへりに先っちょが飛び出ているその白い身体はいかにも居心地悪そうに、くたりと萎びれていた。
僕はなんだか彼が哀れに思えて、それを箸でつまんだ。
*
学生の頃、クラスにひとり変なやつがいた。
どこの教室にも一人はいるであろう、ある種の空気を身にまとった男だった。
ここでは彼を「はんぺん」と呼ぶことにする。
はんぺんは余白が好きだった。
愛している、といっても過言ではなかった。
なぜか彼と気の合った僕はよくよく飲みに連れ出されたものだが、酔いが回ってくる時間帯になるとたいてい余白の話になった。
「余白はいいよ」
はんぺんは言う。
「文字で書かれた物語の隙間にある空白を眺めているとね。なんだか吸い込まれそうな気分になってくる。その白さを目の当たりにする、それだけで物語の登場人物になれるような気がしてくるんだ。いや、ひょっとすると」
「ひょっとすると?」
「余白こそが僕の物語かもしれない」
はんぺんはウーロンハイのジョッキを傾け、琥珀色の液体は彼の喉へと吸い込まれていった。
そいつはどこにでもあるんだ。
推理小説にも哲学書にも。
そしてそのどれもが白い。
右を向いても白、左を向いても白。
そんな風に想像を巡らせているとね、世界はどこまでも広いなって思えてくる。
「世界、ねぇ」
世界は広い。いや、世界は白い。
それがはんぺんの口癖になった。
酔いに酔った僕らは店を出て通りの真ん中を闊歩し、世界の白さを体感するためにひたすら白いものを叫んだ。
「とうふ」
「トイレットペーパー」
「ビートルズのホワイトアルバム」
「壁紙のクロス材」
そしてやっぱり。
「はんぺん」
とうとう僕らは力尽きて、どこぞのアパートの塀にもたれかかることになった。
しこたま飲んだウーロンハイが二人の目を濁らせていた。
「まいったな」
「うん、まいった」
なすすべもない僕らは仕方なく月の白さを眺めようとしたが、それを邪魔する影が現れた。
「暗いな」
はんぺんが呟いた。
そして僕らは彼女と出会った。
*
「人生をうまく生きるコツはね」
吉田先生は相変わらずはんぺんに手をつけようとはせず、試合は7回表に入っていた。
「とにかく低めにボールを投げることにあるんだよ」
「どういうことですか」
「チャーリー・ブラウンが人生の謎に答えてくれてるんだ」
――人には親切に、タバコはすうな、キビキビやれ、よく笑え、食べすぎるな、虫歯に注意、投票は正確に。
――日に当たりすぎるな、外国向け小包は早目に、地上と地下の生物を愛せ、保険をかけよ、そしてボールは低めに。
「はぁ」
ちょうどテレビではロッテの成瀬が巨人の村田を、低めのストレートでダブルプレーに抑えたところだった。
「ほらね」
*
はんぺんの話を続けよう。
酔っぱらった僕らの前に突如として現れたのは同じ大学、しかも同じクラスのSだった(Sというアルファベットが彼女にぴったりな気がするのでそう呼ぶことにする)。
それはいろんな特徴の頭文字を表している。
ショートヘアのS。
嫉妬のS。
洗濯好きなS。
その偶然、いや奇跡と呼ぶにふさわしい邂逅に僕らは運命を感じようとしたが、残念ながら僕とはんぺんが飲んでいた店は大学のすぐ近くだった。
遅くまで構内で研究する勤勉な生徒と鉢合わせになる確率はじゅうぶんにあり、さすがにそれを奇跡と呼べるほど僕らは図々しくはなかった。
Sがはんぺんと付き合い始めるのに、そう長い時間はかからなかった。
一緒に酒を飲むメンバーは二人から三人になった。
僕らうだつのあがらないお坊ちゃん学生からしたら格段の進歩と言えた。
変わったことがもうひとつ。
はんぺんだ。
余白とS。
愛さなければならない存在が一気に倍に増えた彼は、日増しにその苛立ちを隠しきれないでいるようだった。
余白の話になるとたいていSは反論した。
「はんぺんの言いたいことはわかるわ。それがとても大切なことだってこともね。でもね、人生は余白だけあれば解決するほど簡単じゃない。いつかはんぺんにも本文を書かなければいけないときが来る。はんぺんは甘えてるだけなのよ」
「でも、でも」
彼はなんとか言い返そうとしたが、言葉が出てこないようだった。
やがて諦めると、いつものウーロンハイを一口。
つられて僕も一口。
「結局ね」とSは続けた。
「それってドーナツの穴を愛するようなものなのよ。でもその空白はやっぱり穴でしかないの。今は学生だからそれでもいいとは思う。でも、あなたや私にも、本文を書くときが必ず訪れる。それでもはんぺんは余白を愛せる?」
Sは自分が喋りすぎたことに気付いたのか、ハッと口を閉じた。
はんぺんも無口になった。
僕は――。
何か言うべきだったのだろうか。
それからはんぺんはめっきりと授業に顔を出す回数が減った。
たまに顔を出しても「やぁ」と声をかけるぐらいで、3人で会う日も少なくならざるを得なかった。
Sとはときどき図書館で会った。
館内でおしゃべりをするわけにもいかないので、僕らは互いに目配せを交わして別れた。
後でこっそり彼女が呼んでいる本を背中から覗いてみた。
古い書物だったらしく、文字がびっしりと刷られた紙は時間の経過で黄色く色あせていた。
本を片手にノートに何やら書きこむ彼女の細いうなじ。
それが、僕がSを見た最後になった。
僕は誰に見られるわけでもなく大学を卒業し、こうして吉田先生とおでんをつついている。
人生の謎にまだ答えは出ていないが、やるべきことは少しずつわかってきている。
ボールは低めに投げるんだ。
*
野球はいつの間にか終わっていた。
ロッテが勝ち、巨人の連勝は10で止まったらしい。
吉田先生はすっかり酔っぱらってソファーでいびきをかいている。
僕は最後のはんぺんを食べきれず、もったいないけど流し場に捨てることにする。
「はんぺん、とうふ、トイレットペーパー」
あの夜を思い出す。
はんぺんは今どうしているだろうか。
今でも余白を愛せているのだろうか。
世界は広い。いや、世界は白い。
その白さはあまりにもまぶしくて。
謎に満ちている。
おわり
参考及び引用
『フィンガーボウルの話のつづき』(新潮文庫)著・吉田篤弘
『スヌーピーのもっと気楽に』(講談社+α文庫)
著・チャールズMシュルツ、谷川俊太郎
レモンパイを食べ損ねた男
彼はレモンパイを食べたことがなかった。
映画や小説でそれを目にするたびに毎回のように「よし、今度食べてやろう」と決心するのだが、毎回のように忘れてしまうのだ。
それもいつの間にか。
――なぜ忘れてしまうんだろう。
真剣に考えてみたこともあった。
結論も出たはずだが、やはりいつの間にかその結論の内容でさえ忘れてしまっていた。
もっとも、そこまで思い入れが強いわけでもない。
忘れても「ま、いいか」と諦めてしまうほどのもので、だからこそ忘れてしまうかもしれない。
――そもそも僕はほんとうにレモンパイを食べたいのかな。
わからなかった。
――もしかしたら。
ほんとうの答えはレモンパイの中に隠されているのかもしれない。
「ねぇ、姉ちゃん」
「なに」
去年、やっとのことで大学を卒業した彼は今、実姉といっしょに住んでいた。
「いや、なんでもない」
「変な子ね」
中村橋の町並みは今日も相変わらず穏やかなものだった。
この町は他のそれよりも電信柱が多い気がするが、たぶん気のせいだろう。
電線の上にカラスが何羽か止まっていた。
レモンパイの味にしても、電信柱にしてもそれはいつの間にか彼の知らない間にそこに忽然と立っているもののひとつだ。
――当たり前が多すぎるよ。
いつからか、彼はそれを「ほんとうの答え」と呼んでいた。
それはいつの間にかそこにあり、知らない間に彼の周りに立ち続けているのだ。
おまけにその事実を誰も教えてくれない。
電信柱がいつからそこにあるかなんて、誰も教えてはくれなかった。
「いい加減、定職につきなさいよ」
仕事から帰ってきた姉に小言を言われるのもいつものことだ。
彼は「ううん」とあいまいな返事を返してテレビを見続けていた。
「ねぇ」
「なに」
「レモンパイ、食べたことある?」
いきなり何さ、と付け加えながらも姉は頭をひねって思い出す素振りをしてみせた。
「ああ、そういえば子どもの頃一度だけ、お母さんが作ってくれたことあったじゃない。憶えてない?」
「憶えてない」
「なに、レモンパイが急に食べたくなったの?」
「そういうわけじゃないけど」
ちなみに言えば彼が自分のことを「僕」というのは姉の前でだけだ。
普段、友人たちなどの前では彼は自分のことを「俺」と呼ぶ。
それも電信柱の当たり前と呼ばれるもののひとつだった。
「俺」はいつの間にかそこに立っていた。
「つくろうか」
「いいよ、別に」
「まぁまぁいいから」
姉の機嫌がやけに良かったのが幸いして、急きょレモンパイを作ってくれることになった。
彼はそれ以上とくに反抗せずに、素直にレモンパイが出来上がるのをソファーに寝そべりながら待つことにした。
――どんな味がするのだろう。
彼はまだ味わったこともない味について想像した。
いや、姉によれば昔味わったことはあったらしいが。
「ごめん、そういえばグラニュー糖が足りなかったから買ってきてくれないかな」
台所から居間に向けて姉が呼びかけても返事はなかった。
「あれ」
そこに彼はいなかった。
まるで彼の存在ははじめからなかったかのように。
ソファーのへこんだ痕でさえ、きれいに消えていた。
おわり
今も世界のどこかで鍵が不足している
家の鍵が壊れた。
もともと壊れているかどうかわからないくらいのボロいアパートなので、いつ何が起きても不思議ではないし、玄関先のポストなどネジが外れてブランコのようにきぃきぃ唸っていた。
「すぐ交換すればいいじゃないか」と同僚の土田が言う。
「誰に言えばいいんだろ」
「鍵は鍵屋じゃないのか」
――なるほど。
彼はその日の仕事終わりに家で電話帳をめくり、カ行をたどってみる。
すると出てくる出てくる、果たして世の中にこんなにも鍵が壊れて困っている人がいるのかと思うとなんだか不思議な気分になった。
世界中にある鍵付き扉の半分くらいは壊れているんじゃなかろうか、とさえ思った。
適当に選んだ番号に掛ける。
とぅるとぅる、とぅるとぅる
「はい、こちら鍵屋です」
「ウチの鍵が壊れてしまったんだけれど」
「さようですか、では鍵のタイプをお教えいただけますか」
「別に普通のタイプだけど」
「申し訳ございませんお客様。鍵には様々な種類があり、4桁の番号とそれに続くアルファベットでそれらを区別しております。このナンバーは世界共通でして、すなわち鍵に国境はございません」
鍵に国境はございません。
電話越しにでも、鍵屋の応対時における冷静な口調のなかに幾分かの誇りが混じっているのがわかった。
素晴らしい、と彼は言った。
「ではお客様、鍵の裏側にそのナンバーが小さく刻まれているのがお見えになるかと思われます。読み上げていただいてもよろしいでしょうか」
ひっくり返してみると、確かにそこには小さな記号の羅列があった。たった今、小人か何かがこっそりと彫っていったのでは、と思わせられるほどに新鮮な刻みだった。
「5290―T」
「ありがとうございます、少々お待ちください」
向こうでは何やらごそごそと音がした。
彼はもう一度その羅列をよく見ようと、鍵に目を凝らしてみる。
――お客様、お客様。
「はいすみません」
「ああよかった、鍵の精に攫われてしまったのかと思いました」
「鍵の精?」
はい、と鍵屋はさも深刻そうにうなずいた、ように感じられた。
「奴らは鍵の壊れた家を好み、次々と鍵にできそうなものにナンバーをふっていきます。なにせ世界では鍵が常に不足しておりますから。最終的にその家主を鍵に変えてしまうのです」
「物騒な話だな」
「ええ、ですから私どもは鍵が壊れた際には一刻も早く取り替えられるよう、お客様方に対して勧めているのです。決して商売だけが目的ではありません」
なるほど、じゃあ僕も早く鍵を交換しなくては。
「それでお客様の所有しておりました鍵、『5290―T』ですが」
「はい」
「残念ながらこのタイプの鍵は交換するのに海外から取り寄せなければなりません。今すぐ、というわけにはいきませんし、じゃっかんお値段のほうもお高くなりますが」
鍵屋はそう言って交換にかかる値段を口にした。
――確かに。
彼のような一介の車整備士にはとても払える金額ではなかった。
「今回はやめておくよ」
鍵屋は残念そうに声のトーンを低くしながら「またお待ちしております」と言ってのけた。
「くれぐれも、鍵の精にはお気をつけください」
そのようなやり取りがあり、彼の家の鍵は未だに壊れたままでいる。
玄関先のブランコは今も揺れ続けている。
「あれ、首筋に何か付いてるぞ」と土田。
「なんだろ」
彼は言われるがまま手をやってみる。
「何かペンで描いてたのか?」
土田が尋ねた。
「自分で見えないところに書くはずないだろ」
彼が何気なく首筋に当てたその指先を眺めると、確かに黒いペンの跡のようなものが付着していた。だがそれはあまりにも小さい。それ単独で意味の通ったものだとは思えなかった。
まるで誰かが記号か何かで目印をつけたような、そんな跡だった。
おわりり
(第07回 了)
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* 『僕が詩人になれない108の理由あるいは僕が東京ヤクルトスワローズファンになったわけ』は毎月24日に更新されます。
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■