その家は今から90年以上も前、大阪の外れに建てられた。以来、曾祖父から祖父、父へと代々受け継がれてきたのだが……39歳になった四代目の僕は、東京で新たな家庭を築いている。伝統のバトンを繋ぐべきか、アンカーとして家を看取るべきか。東京と大阪を行き来して描く、郷里の実家を巡る物語。
by 山田隆道
第一話
その家は今から九十年以上前、大正十一年の大阪に建てられた。
伝統ある木造本瓦葺の日本家屋、大阪にしては広い百坪強の敷地面積。それだけ聞くと悪くないと思うかもしれないが、僕に言わせれば、かなりのボロ家だ。
その家がどれくらいボロいかというと、まず全体的に左に傾いている。だから、バランスボールに乗るのは至難の業だ。そもそもバランスボール自体がバランスをとれないため、置いているだけで壁際まで転がってしまうのだ。
その家のトイレはずいぶん前に和式から洋式に切り替えられており、いつも入念に清掃しているはずなのだが、それでもやけに臭い。もう何十年も同じ場所にトイレがあることを考えると、その場所自体に不穏な臭気がしみついているのかもしれない。
その家の天井裏には確実にネズミが住んでいる。二十年以上前に蜘蛛の巣だらけの天井裏を掃除したとき、二匹のネズミが元気に走り回っているのを目撃した。それ以来、奴らの足音は絶えるどころか、激しさを増すばかりだ。奴らの寿命は三年程度らしいため、間違いなく世代交代、すなわち順調に繁殖しているはずだ。今は怖くて天井裏をのぞこうとも思わないが、そこにはどんなネズミ王国が広がっているのだろうか。
その家に最初に住んだのは、僕の曾祖父にあたる栗山茂彦一家だ。その前はどこに住んでいたのか、どういう経緯でその家の建築に至ったのか、そういう詳しいことはよくわからないが、大正十二年生まれの祖父・勇がその家で産声をあげたことは確かだ。祖父いわく、当時としては頑強な家だったらしい。昭和九年に阪神地方で猛威を振るった室戸台風は約三千人の死者と行方不明者を出したが、その家はびくともしなかったという。
その家は曾祖父・茂彦の死に場所にもなった。僕が生まれる前、大阪万博が開催された昭和四十五年のことだ。すさまじい勢いで変わっていく大阪の街と華やかな開催式の様子をテレビで見届け、未来の光を少しだけ浴びた矢先、寝間で息を引き取ったという。
その家の長男として生まれた祖父・勇は、その家で少年期から青年期を過ごし、その家で祖母と新婚生活を送り始めた直後、その家で赤紙を受け取った。祖父は中国に出征する前、もう二度とその家の敷居をまたぐことはないだろうと覚悟したものの、戦場で食中毒を起こして長期入院している最中に終戦を迎えたため、生き残ったらしい。祖父の所属部隊はその入院中に全滅したというから、これ以上の怪我の功名を僕は知らない。
その家は戦地から帰ってきた祖父のことを変わらぬ佇まいで迎え入れた。大阪府下といっても、大阪市内の中心部より京都のほうがはるかに近い、言わば郊外に位置する家のため、大阪大空襲の被害はまったく受けなかったらしい。祖父は戦後すぐに祖母との間に一男二女を授かり、七十八歳で亡くなるまで、その家で幸せに暮らした。
その家は祖父の長男である父・幸雄にとっても思い出の宝庫だ。父もまた、祖父と同じように生まれてから現在までの六十八年間をその家で過ごしているから、その家には並々ならぬ愛着をもっている。「この不景気に大阪に広い一軒家があるっちゅうのはありがたいことや。新一もおじいさんに感謝せなあかんぞ」とは、父がよく口にする台詞だ。
その家はきっと父の最期も看取るのだろう。その家は一世紀近くもの間、いくつもの家人の生死に立ち会い、いくつもの喜びと悲しみの声を聞いてきた。その家は建築当初こそ平屋だったが、後年の増築によって二階建てとなった。その家は阪神淡路大震災の影響でブロック塀や土壁のいたるところに亀裂が入っており、今もそのまま放置されている。その家は、だから次に大地震が発生したときは、さすがに耐えられないかもしれない。
その家は曾祖父の茂彦から祖父の勇、そして父の幸雄へと三代にわたって受け継がれてきた。その家は近い将来、四代目の僕の手にもわたるのだろうか。その家は僕も生まれ育った愛着のある場所だから、その行く末が気にならないと言ったら嘘になる。嘘になるのだけど、その家を僕が受け継ぐためには解決しなければならない問題もある。
僕は三十九歳になった今、東京の会社に勤務している。十二年前に東京生まれの妻と東京で結婚し、やがて東京生まれの一男一女を授かった。祖父や父が生きた時代とはまったく違う、二十一世紀の栗山家を東京のニュータウンで築いているのだ。
× × ×
ほんの数年前までは、大阪の外れにある実家のことなんか考えたこともなかった。もっと昔の話をすると、その実家に住んでいた高校生のころは我が家が嫌いでしょうがなかった。
なにしろ、大正十一年築の古くさい家だ。もちろん、時代に合わせて何度かリフォームを繰り返しているため、台所はシステムキッチンになり、畳の居間はフローリングのリビングになり、掘り炬燵や囲炉裏もなくなったのだが、それでもどういうわけか大正の名残が消えない。トイレも臭い。きっと基礎を変えていないからだろう。田舎の国道沿いにある元ラブホテルのカラオケボックスみたいな、そういう不自然さが感じられるのだ。
だから高校生のころは、恥ずかしくて友達を家に呼ぶ気になれなかった。洒落た建売住宅やマンションなどに住んでいる友達は、親に内緒で彼女を自室に連れ込んだとか、自室をドアロックすれば親が勝手に入って来られないとか、そういう話をよくしていたが、当時の僕の自室は襖で仕切られただけの和室だったため、とてもじゃないけど親に内緒で彼女を連れ込むなんてできなかった。唯一の救いは、一度も彼女ができなかったことだ。
高校卒業後、僕が東京の大学に進学した理由は、単純にそんな実家を出て一人暮らしがしたかったからだ。大阪の大学はもちろん、兵庫や京都、奈良、和歌山の大学でも、父はまちがいなく実家から通えと言うだろう。父はそういう人だ。
地方から東京に出てきた多くの大学生がそうであるように、僕もまた、一人暮らしの自由な生活を馬鹿みたいに謳歌した。卒業後はごく一般的な就職活動を経て、そのころ興味をもっていた映像制作の会社に就職した。その会社の所在地が東京であることなど、当時はまったく気にならなかった。やりたい仕事に就く、考えたのはそれだけだった。
そういえば、僕が東京の会社に就職すると決まったとき、大阪の実家にいる父が少し難色を示したような、そんな記憶がかすかに残っている。はっきりした言葉は思い出せないが、なんとなく大阪に帰ってこいといったニュアンスだったように思う。二十七歳の誕生日に今の妻と結婚したときも、その翌年に長男、その二年後に長女が生まれたときも、たぶん父は同じ反応を示したのかもしれないが、それもあまり覚えていない。記憶がここまでおぼろげなのは、当時の僕が父と向き合おうとしなかったからだろう。
三十代の半ばくらいまでは毎日が忙しくて、だけど楽しくもあって充実もしていて、日々を夢中で過ごしていた。会社では次第に重要な職務を任されるようになり、結婚や育児といった人生の節目を乗り越え、ようやく大人のスタートラインに立てたような感覚だったから、実家を振り返ることなど一瞬たりともなかったはずだ。自分はまだまだ若い、これからが本当のスタートだ、そんな前向きな認識が強すぎたのかもしれない。
決して特別なことではないと思う。地方から東京に出てきた若者が少しずつ大人になっていく過程としては、実に一般的でありふれた、言わば王道だろう。
周りを見わたしても、東京で暮らす三十代の男なんて、みんな自分のことを若いと思っている。もう三十代ではなく、まだ三十代だと思っている。だから、僕と同世代の知人で郷里のことを深く考えている奴なんか一人もいない。三十代は二十代の延長戦だ。
ところが、なぜだろう。最近は違うのだ。僕自身がそういう周囲とのギャップを感じるようになった。実家のことが、ぼんやり脳裏をよぎるようになった。
すべては数か月前に起きた、ある出来事がきっかけだ。三十八歳の終盤、中年太りが気になって、タイトなTシャツを着るのをためらうようになった夏。それ以来、僕は自分たち家族の今後の人生設計について初めて真剣に、そして現実的に考えるようになった。
結局、僕は子供だったのだ。今にして強く思う。
× × ×
その夜、僕はひどく疲れていた。
午後十時過ぎに仕事が終わって、それから新宿発の私鉄に乗り込むと、あまりの混雑具合に頭がクラクラした。自宅の最寄り駅に着くまで、このタコ部屋みたいな暑苦しい満員電車に三十分以上も揺られなければならない。服装が自由な仕事で本当に良かった。ポロシャツじゃないと、ジメジメした東京の夏を生きていける自信がない。
下の子が小学校に入学した三年前、現在の三LDKマンションに引っ越した。二人の子供のことを考えると、それまで住んでいた二LDKでは狭いからという理由だった。家賃は十万円が限界だったため、それで三LDKを探すとなると、東京では郊外に住むしかない。通勤時間は徒歩も含めて約一時間半にもなるが、東京では珍しくないと思う。
それでも、今夜はさすがに体力的に厳しかった。なにしろ、このところ仕事がやたらと忙しかったのだ。丸一日の休みなんて、もう何か月もない。家に帰ることもできず、仕事場のソファーで仮眠を貪ったり、徹夜が何日か続いたりすることも少なくなかった。
今夜だって三日ぶりの帰宅だ。二十代のころならそれでもまだ元気が余っていたが、四十歳を前にした今はもう無理だ。疲労と眠気で頭が痛い。なんだか吐き気もする。顔を手で撫でると、指先が脂でギトギトする。その脂もどういうわけかドス黒い。きっと体臭も口臭もひどいことになっているのだろう。風呂に三日も入っていないのだから当然だ。
こんな仕事をいつまで続けるのだろう。なんとなく未来を憂いだ。これが一般的な会社なら、ブラックだのなんだのと言われて問題になるのだろうが、僕が勤めている映像制作会社は主にテレビ番組の制作を請け負っているため、こういう昔ながらの度を超したハードワークを当然とする風潮が今も強く残っている。いわゆる「ギョーカイ」という言葉を印籠がわりにして、あらゆる法規違反に社員を屈服させているようなところがある。
この印籠を見せつけてくるのは、実は社長であって社長ではない。うちみたいな孫請け会社の場合、発注元であるテレビ局と、そこからの一次請けである大手の制作会社が黄門様だ。うちの社長は、その印籠にひれ伏す小さな集団のトップというだけだ。
現在の僕は大日本テレビで放映されているバラエティ番組のディレクターを務めているのだが、だからといって世間がイメージしがちな天下のディレクター様ではない。僕はテレビ局の下請けの、そのまた下請けの会社から派遣された、なんの権限もない労働力のひとつにすぎず、社会的立場は社員十人にも満たない零細企業のサラリーマンだ。
だから発注元にはもちろん、その下請けにさえもてんで頭が上がらない。上から命令されたことにしたがって、目の前の仕事を粛々とこなす。たとえ相手が大学を出たばかりのADであっても、そのADがテレビ局員であった場合は彼にもしたがう。テレビ業界の末端はADだと簡単に決めつけるのは乱暴だ。ADはADでも、それがテレビ局員なら、孫請け会社のプロデューサーやディレクターより上の立場だと言っていい。
給料も安い。ここ五年以上も月の手取りが二十八万円ちょっとのままだ。ボーナスは年一回あるが、十万円にも満たない。これで休みがないのだから、客観的に見ても最悪な仕事だと思う。大学を出て十六年、よくやってこられたものだ。
きっと、これまでの僕にはギョーカイという印籠がそれなりに効いていたのだろう。
さあ皆の衆、控えおろう、控えおろう。労働条件は劣悪かもしれないが、ギョーカイ特有の華やかな空気と特権意識を感じられるのだから、他の仕事にはない喜びと充実感があるはずだ。高い競争率をかいくぐって一流大学からテレビ局に入らずとも、有名な芸能人と知り合いになれるのだから、田舎なんかではおおいに自慢できるはずだ。
なるほど、そうかもしれない。だから、孫請け業者は法規違反にも耐えるべきなのだろう。学も才能もない人間を天下のギョーカイ人にしていただけるのだから、この頭くらい下げるべきなのだろう。ははー、ははー。つまりは、そんな感じだったのだ。
だけど、最近はそれにも飽きてきている。そう、「飽きた」という言葉がもっとも適している。確かに、若いころは芸能人に会えて興奮した。東京のギョーカイ人という肩書に鼻をうごめかすような、そんな低俗な特権意識も少しはあった。だから、それなりに楽しかった時代もあったのだが、そういうミーハー心だけでは長くは続かない。収入も仕事上の権限も、うちみたいな孫請け会社にいる以上はきっと今が上限なのだろう。すべてが現状維持のまま、年齢を重ねていく未来しか想像できない。要するにマンネリなのだ。
最寄り駅に着いて改札を出ると、目の前のタクシー乗り場に長い行列ができていた。ここから自宅までは徒歩十五分以上もかかるから、本音を言うと僕もタクシーに乗りたかったが、その行列を見てうんざりした。東京の田舎は、田舎の都会より都会だ。
タバコを吸いながら家路を歩いた。疲労はとっくに限界を超えており、一刻も早く寝たいという気持ちはあったが、その一方でやけに清々しい解放感もあった。なにしろ明日放送予定の担当番組が今日で無事完成したため、このところ続いていた多忙な日々がようやく一区切りを迎えたのだ。明日からは数か月ぶりの連休、すなわち夏休みだ。
だからなのか、帰宅途中で小さなラーメン屋に立ち寄った。そんなに好きな店ではないうえ、家に帰れば妻が晩ごはんを残してくれていると思うのだが、なぜか得体の知れない魅力に誘惑され、しかもそれにあっさり負けてしまったのだ。
三十五歳あたりから急激に体重が増えた。服のサイズも変わった。そう考えると、深夜ラーメンに餃子、生ビールなんか禁断の組み合わせだ。安月給の妻子持ちが、こういう無駄遣いをするのは愚の骨頂だろう。僕はなけなしの金でデブを買っているのだ。
案の定、深夜の満腹感に後悔しながら自宅マンションに着いた。
時計の針はとっくに十二時を回っていた。二人の子供は就寝しているようだ。
リビングに入ると、妻の亜由美がせっせと荷作りをしていた。明日は朝早くから、家族みんなで大阪に行く予定だ。今年の夏休みはちょうどお盆と重なったから、僕の実家への帰省を家族旅行という名目にしておいた。実家に泊まると三日ぶんの宿泊代が浮く。
「おつかれさまー。仕事終わったんだ?」亜由美がにこやかに言う。
「なんとかね。地獄みたいな日々からようやく解放されたよ」
「じゃあ、予定通り明日からは休めるってこと?」
「社長に念押ししといたから大丈夫でしょ。これで休めなかったら訴えるよ」
「ほーんと。訴えたら絶対勝つよねー」亜由美は口の端に笑みを浮かべながら、軽口をたたいた。荷作りを中断し、食卓に視線を送る。「晩ごはん残しといたから」
「あ、ごめん。食べてきたんだ」
「そっか。じゃあ、それは明日のお弁当にするね。新幹線で食べよう」
亜由美は食卓に並んだ晩ごはんにラップをかけた。そのまま冷蔵庫にしまう。僕の外食は日常茶飯事なので、亜由美はよく心得ているのだろう。もっとも、今日の外食はたちが悪いが。
一歳下の亜由美と知り合ったのは、僕が今の会社に入って二年目のときだ。当時の僕がよく出入りしていた一次請けの大手制作会社で派遣の事務をしていた亜由美と自然な流れで会話を交わすようになり、そこから交際に発展した。見てくれは平凡だったが、人の話を興味深そうに聞く、相槌上手の女の子だった。
その後、三日ぶりの入浴を済ませた。風呂から上がると、亜由美が缶ビールを二本用意してくれていた。荷作りを終えたため、二人で晩酌を楽しもうというわけだろう。
「明日の夜は、実家でお義父さんたちとごはんでしょ?」食卓に座った亜由美が缶ビールのプルトップを開けながら言った。「それまではどうする予定?」
「新大阪に着くのが昼くらいだから、いったん実家に荷物を置いて……」
「親戚とかは来るの?」
「いや、来ないと思うよ」
「だったら、お墓参りを先にしても、夜までけっこう時間あるよね。わたし、梅田のグランフロントに行ってみたいの。ほら、去年オープンしたんでしょ?」
「ああ、梅田の再開発ってすごいらしいね」
亜由美は東京のニュータウンで生まれ育った、典型的な核家族の娘だ。三歳上に姉がいるだけで男兄弟はいない。だからなのか、三世代家族の長男である僕とは異なる感覚の持ち主なのだが、その一方で犬みたいな従順な性格をしているから実に助かっている。普通なら面倒だと思われそうなお盆だの墓参りだのといった栗山家の習慣を素直に受け入れてくれるだけでなく、大阪を旅行先のひとつとして楽しもうとしてくれる。
他愛もない会話を交わしているうちに、いつのまにか深夜二時になっていた。疲労と酔いがまじりあって瞼が重くなる。多忙を極めた日々から解放されたからか、睡魔の到来が心地良い。明日は朝八時に家を出る予定だが、その十分前までは寝ようと思う。
寝室のベッドに横になると、またたくまに疲労が快感に変わった。柔軟剤の爽やかな香りが漂う、適度にひんやりしたシーツ。三日ぶりの安眠。うー、たまらん。
うとうとしたころ、快感をぶち壊すようにケータイが鳴った。
くそう、こんな時間になんだよ。思わず液晶画面をにらみつけたものの、次の瞬間、その目を大きく見開いてしまう。
深夜二時過ぎに社長からの電話。
一瞬、目の前が暗転した。後頭部になぜか鈍痛が走る。
いくら時間が不規則な仕事とはいえ、これはさすがにトラブルのサインだろう。僕は心臓の高鳴りを覚えながら、おそるおそる電話に出た。「もしもし……」
「おう、新一か。悪い、今すぐ編集所に来てくれ」社長が焦ったような声で言った。
「はあ?」
「ついさっき、高野昭光が逮捕された」
「アッキーが!?」
「覚せい剤所持の現行犯だ。詳しいことはあとだ。とにかくタクシー飛ばして来い」
そこで電話が切れた。僕はしばらく動けなかった。頭の中が真っ白になって、ケータイを握る手が震えてしまう。真夏なのに背筋がゾクッとした。
高野昭光はアッキーの愛称で老若男女に人気のあるベテランタレントだ。十代でデビューしたころは端正な顔立ちが売りのアイドル歌手だったのだが、四十歳を過ぎた今は卓越したトーク力を生かしてバラエティ番組に欠かせない存在になっている。
そんなアッキーが覚せい剤で逮捕された。そのことで社長が狼狽する理由はひとつしかないだろう。うちが制作に関与している明日放送予定のバラティ番組。今日ですべての編集が終わり、あとは放送を待つだけなのだが、その番組ではよりによってアッキーが大活躍しているのだ。スタジオのゲスト席、いわゆる雛壇の前の席で、他のどのタレントよりもよくしゃべり、よく画面に映っている。僕が編集したのだから間違いない。
ああ、最悪だ。僕は急いで服を着替え、出かける準備をした。「なんかあったの?」そばで亜由美が心配そうに訊いてくる。「たぶん、今から編集の直し」
アッキーが活躍している番組を明日そのまま放送できるわけがない。だからといって差し替えられる別の番組があるのかどうかはわからない。社長が編集所に呼び出したということは、きっとアッキーが映っているシーンをすべてカットして、他の映像素材を使って再編集しろということだろう。果たして、そんなことができるのか。できたとしても、いったい何時間かかるのだろう。朝の出発までに終わるのだろうか。
あれこれ考えていてもしょうがないので、とにかく自宅を飛び出した
「明日の予定が変わるんだったら、早めに連絡してね!」
背後から亜由美の声が聞こえた瞬間、不覚にも目頭が熱くなった。こういう急を要するハプニングが発生したとき、うちのような孫請け業者は一番つらい。上からの命令にしたがうことしかできず、結果として家族を犠牲にしてしまう。
おのれ、アッキーめ。スタッフの何倍もの報酬と無形の恩恵を手にしておきながら、てめえの身勝手な行動で多くの裏方に迷惑をかけているという自覚はあるのか。いやきっと頭の片隅にもよぎっていないことだろう。シャブ中野郎はそういうもんだ。
もう嫌だ。だからテレビは厭なんだ。本当の電波芸者はタレントではない、末端のスタッフだ。僕は夜の東京を疾走するタクシーの中で、亜由美に手短なメールを送った。
「ごめん、訴える勇気もないわ」
(第01回 了)
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