岡野隆さんの『BOOKレビュー・詩書』『No.007 可能性の可能性-丑丸敬史 処女句集『BALSE』』をアップしましたぁ。丑丸さんは生物学の学究で俳人です。処女句集『BALSE』は不肖・石川も読ませていただきましたが、ずいぶん無茶をされるなぁと思いました(爆)。しかしとても面白い試みだと思います。岡野さんの書評もスッキリした論旨です。内容に異論を抱く読者もいらっしゃるでしょうが、文学金魚ではこういった質の書評が欲しいのです。俳壇の誰か(何か)を意識した文章は不可です。〝俳句は文学〟という前提で、俳句についてあまり予備知識のない一般読者を意識した文章を書いていただきたい。
文学の世界は大きく小説文壇と詩壇に分類できると思います。しかし小説家は詩壇についてあまり知りませんし、詩人も文壇のことはよくわかっていません。言いにくいですが、詩壇は自費出版マーケットです。雑誌や書籍の売上げだけで所帯を維持できるはずもなく、メディアは自費出版を主な収入源として動いています。商業詩誌は経済的には自費出版を募るための広告塔だと言っていい(俳壇では結社広告を募るためのメディアでもあります)。
小説家は、詩誌ではほんの数ヶ月前(短い時は一ヶ月前)に原稿依頼が為され、それがほぼノーチェックで掲載されると聞いたら驚くでしょうね。文芸誌ではほとんどあり得ないことです。しかし現実に数日間で30枚ほどの原稿を書き、連載までする詩人がたくさんいる。それだけの筆力があり原稿の質が高ければ、詩壇内有名人で終わるはずがない。しかし一般読書界で著名な詩人は、詩壇メディアから〝卒業〟した作家が圧倒的に多い。詩誌にとってはその場限りの状況論であれ、詩壇が盛り上がって見え、それによって自由詩や俳句・短歌の〝センター雑誌〟に見えることが最も重要なわけです。詩人も詩誌に寄与することが仕事だと勘違いしている。
小説文芸誌の場合、新人の作品(小説や長めの評論)に関しては掲載されるまでに半年や一年かかるのは珍しくありません。その間、編集部から何度も書き直しを指示されるわけですが、作家がその作業に従ってもなお最終的に掲載されない作品が出ます。ただそれは作家の小説テクニックや思考能力を高めるのに役立ちます。また一方で、特定文芸誌のカラーに染まってしまう弊害ももたらします。たいていの作家は、『なぜこんなところまで』と感じるほど細かい修正指示を受けます。それを繰り返していくうちに、そのメディアが〝世界〟になってしまうわけです。しかし例えば『文學界』に作品が掲載されることは、作家の卵には提灯行列をしたくなるくらいの快挙でしょうね。そのくらい狭く厳しい門なのです。
つまり詩壇はダメ出しの出ない世界であり、文壇はダメ出しの暴風雨に晒される世界です。詩壇は同人誌や作品集を出す際にも身銭を切る自費出版中心なのでそうなる。詩人は経済的に苦労しますが、原稿発表に至るまでの作家の苦しみは恐るべきものです。小説では文芸誌の新人賞を受賞し、自費出版ではなく版元から本が出なければ作家として社会的に認知されないという不文律があるので、作家たちは苦しい修正指示にも黙々と耐えるわけです。また絶望的に本が売れない純文学業界でも、少なくとも芥川賞を受賞した作品はある程度売れる。作家としての社会的認知と本の売上げ(経済)という二つの生命線をメディアが握っているわけです。詩壇では武士は食わねどで、経済問題はほとんどスルーされます。どんな形であれ一冊でも作品集を出していれば詩人です。
詩壇、文壇双方にメリットとディメリットがあります。自費出版主流の詩壇では、他者の思惑にわずらわされない形で作品を発表できるので、思いきった試みが可能です。自由詩などが典型的ですが、過去の詩史を振り返れば、重要な作品集はほぼ極端な実験的試みであることがわかります。その一方で、他者からのダメ出しを受けた経験がほとんどない詩人は弱い。批判から目を背け、相互補完・依存的な心地よい仲間内のコミュニティを作って作品の質を落としていく。メディアはクライアント(顧客)である詩人に厳しいことを言いませんから、詩壇では自分で自分にダメ出しをしなければならないわけです。
文壇ではそもそも〝デビュー〟に至る道筋が極めて厳しいですが、それが文壇内に留まる作家と文壇外でも活躍できる作家の篩いにもなります。自分がデビューした雑誌や文壇制度などを〝世界〟と認識した作家は、遅かれ早かれ特定の文芸誌や新人賞の選考委員などでしか見かけない文壇作家になっていきます。文壇に〝就職〟するわけです。いずれかの時点でメディアや文壇制度を相対化できたほんのわずかな作家が、一般社会でも活躍できる作家に育っていきます。もちろん大半の作家は文壇作家にも流行作家にもなれません。しかし文壇の厳しさが、小説以外の世界でも活躍できる人材を輩出しているのは確かです。小説家はたいていの詩人よりもずっと老獪な大人です。
不肖・石川は、詩壇と文壇のどちらがいいといった議論には興味がありません。どちらにもメリットがありディメリットがあります。ただ詩壇はあまりにもぬるい自由な風土で作家をダメにし、文壇は締め付けによって作家を萎縮させてしまう傾向がある。オルタナティブな方法があるはずです。石川は文学金魚を詩壇・文壇のメリットを活かし、ディメリットをできるだけ排除したメディアに育て上げたいと考えているのでありますぅ。
■ 岡野隆 『BOOKレビュー・詩書』 『No.007 可能性の可能性-丑丸敬史 処女句集『BALSE』』 ■