デッサン力の正体とは、何だろう。カブリエル・バンサンの『アンジュール』を開くたびに考える。開くたびに、と言うのが誇張ではないくらい、繰り返し眺めて飽きない絵本である。それも文字通りの「絵本」で、それぞれの力強いデッサンに言葉は添えられていない。
50 枚にものぼるこれらの絵に、しかしストーリーはある。いきなり車の窓から投げ捨てられた犬は、必死で飼い主の車を追いかけるが、振り切られて見失ってしまう。街を彷徨い、海を見つめ、人間に追い散らされるが、ついに心の通い合う少年と出逢う。
絵本を見る者に迫ってくるのはしかし、捨てられた犬の悲しみや不安そのものではない。悲しみも不安も、言ってみれば「言葉」である。悲しみと言えば悲しみだろうが、それはせいぜい正しい説明という以上のものではない。本当にあるのはただ、そのようにしてある、という姿であり、たたずまいである。
捨てられた犬の姿が直接、伝えてくるのは、強烈な生命感である。車を追いかけて躍動する筋肉の動き、行き場もなく海辺にいるピンと伸びた背筋。余計な色彩はいっさいなく、紙と鉛筆だけで十二分にあらわされているのは、この犬という動物の美しさである。
美しさを存分に示すために、犬は人の家から離れ、車から放り出されなくてはならなかった。そしてもちろん、さらにいっそう美しさを際立たせ、輝くばかりにしているのは、世界にひとりぼっちで対峙する犬の孤独にほかならない。
途中、犬は自らを放り出した「車」に復讐を果たしている。飛び出してきた犬は車の列の間をすり抜け、混乱した車同士が衝突して煙が上がり、道路は大渋滞。もっとも、それも犬の憎しみがもたらしたというわけではなくて、その筋肉の躍動の結果であるに過ぎない。
紙と鉛筆によるシンプルなデッサンが表現し得るものは本当のところ、物のかたちでも風景の雰囲気でもなく、生命感そのものでしかないのではないか、と感じてしまう。かたちをなぞったものに魅力はないし、こんな風景です、というのは情報でしかない。何を描こうと、そこに「息吹き」を吹き込むこと。それがデッサンなるものの到達点ではないか。
一方では、そんな「息吹き」を控えることによっても表現は成り立つのだ。犬の肉体の線に比べ、車、すなわち自動車を描く線の愛のなさ。この単純な強弱はきわめて饒舌で、まさしく言葉がいらない由縁だ。一歩間違えれば、嫌味になりかねないほどの表現力である。
その中間にあって「人々」の描き方は多様である。町中で犬など無視する人々は人の姿をしたものでしかなく、犬を追い払う掃除夫は車より少しましな機能的な線から出来ている。事故の周辺に集まった人々は驚き、騒ぎ、困っているらしく、それぞれの事情や感情の色彩のようなものを帯び、犬のような生のままではない、別種の生命を感じさせる。そして犬の前に、運命そのもののように徐々に姿を現す少年。ここに描写されているように、おそらく我々人間は、その社会化の程度に応じて様々な輪郭線を見せながら暮らしているのではないか。
金井純
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■