水野翼さんの文芸誌時評 『 No.003 読楽 2013 年 9 月号』 をアップしましたぁ。文芸誌時評に戻るとちょっとホッとしますなぁ。ん~、はっきり言うと詩誌は息苦しいのであります。単純ですがメディアの数が少ないせいだと思います。歌壇・俳壇では複数の雑誌が刊行されていますが、角川短歌・俳句さんがセンターメディアだといふ暗黙の了解がある。詩壇では了解もへったくれもなく、ほぼ現代詩手帖さん一誌といふ状況です。
ほんでこれらの詩誌に書くと、なぜか皆さん似たような書き方で、似たような内容の原稿になるんだなぁ。たまに 『おっ』 と思ふと、たいていは普段はその雑誌に書かない作家の原稿だったりします。言いにくいですが、不肖・石川のように、ほんの一年くらいしか詩誌を読んでいない読者ですら、常連執筆者は名前を見ただけで何を書いているのかだいたいわかってしまふ。文芸誌にはこういった息苦しさはないですね。メディアごとに特徴はあるとはいえ、作家は詩誌よりも自由に書いています。
ほんで水野さんは 「あやかし跋扈」 というタイトルの、恩田陸と夢枕獏さんの連載を取り上げておられます。水野さんは 『夢枕獏はときに詩的でもある改行の多いテキストに、ねっとりした表現が妖しさをきっちり提示する。恩田陸は女性らしい、すっきりしたきれいな文体に、いつもの収拾のつかなさ?が妖しさを高める』 と書いておられます。そーだなーと石川も思います。文壇的にはお二人とも大衆文学系流行作家といふことになると思いますが、純文学からは失われてしまった怪しさを表現できる作家だと思ひます。
これも単純化すれば、大衆文学は正面から 〝妖しさ〟 をテーマにします。幽霊とか超常現象ですね。そこから妖しさの本質に迫っていくわけです。純文学の場合、まず 〝妖しさ〟 の本質とは何かを作家が認識把握した上で、それを表現しようとする。幽霊や超常現象などを一切書かず、現実世界の枠組みの中でそれを表現するわけです。
どちらの方法がいいとかいう問題ではありません。しかし純文学が妖しさを表現できなくなっているのは、純文学系作家が時代の本質を把握しきれていないことを意味すると思います。不肖・石川は純文学大好きですが、どんなに贔屓目に見ても、現在は大衆文学の方がずっと勢いがあり作品のクオリティも高いと思いますですぅ。
■ 水野翼 文芸誌時評 『 No.003 読楽 2013 年 9 月号』 ■