飯島耕一氏がお亡くなりになった。個人的なお付き合いがあったわけではないが、敬愛する詩人の一人だった。また愛すべき方だった。
初めて飯島さんにお会いした、というより先生の姿を見たのは明治大学の教室である。僕は仏文学科の学生で、先生はシュペルヴィエルの講義をされていた。最初の講義の時、先生は『僕は法学部の教授だから、仏文に来て講義をすると、ちょっと緊張するんだよね』という意味のことを言われた。小学生と大学生以上の語学力の差があるのだから、妙なことを言う先生だと思ったのを覚えている。ただ講義は淡々としたものだった。黒縁眼鏡をかけ、うつむき加減で講義をする先生から、僕はフランス詩を習った。
飯島さんと吉岡実は親友で、吉岡さんとお話していると、必ず一回は飯島さんの話になった。吉岡さんの最後の詩集『ムーンドロップ』は、昭和六十三年(一九八八年)に刊行された。僕らに大きな衝撃を与えた前作『薬玉』に比べると、明らかに内容的に劣る詩集だった。出たばかりの詩集について、作家本人が気弱なことを言うはずもないが、吉岡さんもどこかでそれを感じているようだった。
この頃、吉岡さんは、あと一作詩集を書きたいんだとしきりに言っていた。『薬玉』刊行後の自信に満ち溢れた吉岡さんはもうおらず、そこには微かな焦りが透けて見えた。僕は吉岡実は再び変わるだろうと確信していた。彼は大胆に変貌し続けた詩人だったからである。彼にもっと時間が残されていたら、ほぼ確実に新たな表現領域を開拓しただろう。僕はもう、作家の死からその文学を考える思考を信じない。確かに詩人にとって作品がすべてだが、すぐれた作家の場合、その可能性は未来に向けて延びている。
1988年の冬、渋谷道元坂の喫茶店トップで吉岡さんと話していたとき、彼は『今年出た詩集で読むに値するのは、俺の『ムーンドロップ』と飯島の『虹の喜劇(コメディ)』だけだ』と言い放った。批評などは書かなかったが、吉岡さんの審美眼は恐ろしく厳しかった。友達だというくらいでその厳しさを緩めるような人ではなかった。詳細は書けないが、吉岡さんの批評眼は友人たちの作品に対しても苛烈だった。しかし飯島さんだけはいつも別格だった。『飯島の詩はいいよ』と何度も口にしていた。それが僕には少し訝しかった。
吉岡さんの詩は意味的にもイメージ的にも凝縮されている。『サフラン摘み』の頃から長い詩も書くようになったが、それまではほぼ短詩である。しかし飯島さんの詩は、言葉は悪いが拡散的で、少しだらけているような長詩が多かった。僕はいわゆる〝芸風〟が違うと、他者の作品を認めやすいのかな、と漠然と考えていた。しかし吉岡のような優れた作家の言葉は、僕にとっては絶対なのである。その後だいぶたってから、僕は飯島耕一論を書くために彼の全ての詩集と主要な散文を読んで、吉岡の言葉の意味をようやく理解した。
吉岡さんとは質は異なるが、飯島さんもまた変わり続けた詩人だった。常に新しい表現領域を追い求めていた。それを飯島さんは、いつもほとんど子供のような無邪気さで成し遂げた。また吉岡さんは鮎川信夫らよりも年長で、世代的には戦後詩派に属する作家だった。しかし詩から社会的表現を排除して、むしろ自分より年下の飯島さんらの世代に親近感を持っていた。晩年に吉岡さんは、『詩集をあと一冊書くか、僕が体験したあの奇妙な戦争を描いた小説を書き残しておきたい』とも言っていた。芸術至上派のイメージが強いが、吉岡さんにも戦後詩人としての自覚や責任感があったのである。
ただ寡作だった吉岡さんは、それになかなか手をつけられなかった。しかし吉岡さんより一回り近く年下で、中学生として戦争を体験した飯島さんは大胆だった。飯島さんは皇国少年時代を苦い体験として、あの戦争を自己の文学的課題として捉えた。またほとんどの現代詩派の詩人たちが、現実世界と遊離した表現に向かっていったのに対して、果敢に時代の変化を作品に取り入れた。飯島さんの姿勢は自らが生きる同時代に対して真摯であり、吉岡が持っていない詩の富を有していた。
ベトナム戦争が終ったいま
はじめてゴヤの詩を
書くことができる。
スペインはこの分では晴れだろう
と言ったあの死んだ男と、
スペインを
ころがるように走り、
(小さなひさしのついた
カタロニヤの農夫のかぶる帽子をのせて
鞄を肩に 埃だらけになって
それでも幸福な顔をしていた二人、
一人は敗戦直後の旧制高校のドイツ語教師で、
もう一人は
その隣の教室のフランス語組の生徒で・・・・・・)、
三年経って いまようやく
あの土地の影と光が 見えてくる。
きみの内部で 一度死んだスペインが
もう一度生きはじめ、
グゥダルキビル川が
光る。
(『ゴヤのファースト・ネームは』より表題作のXIII章全)
少し専門的な話で、詩人以外の方には伝わりにくいと思うが、飯島さんの行の切り方はほとんど天才的である。詩は内容的にも形式的にもまったくなんの制約もない自由詩だが、それでも〝行を切る〟ことが、この言語芸術の要であることは間違いない。飯島さんの行の切り方は自在だ。作品で表現したい内容やイメージに沿って、大胆かつ繊細に行を切る。自由詩と呼ばれるが、その実態は詩人個々が無限の自由に制限を設けた〝不自由詩〟だという状態の中で、飯島さんは限りなく自由だった。飯島さんは俳句に強い興味を持ち、小説も書いたが、俳人や小説家の意識はなかったと思う。真に自由である詩人の試みだった。
吉岡さんがお亡くなりになったと知った翌日、ご自宅に電話をかけると、飯島さんが出られた。『今なら会えるよ。おいで』と言ってくださった。吉岡さんは死去の前に葬儀委員長に飯島さんを指名した。吉岡さんが亡くなってからだいぶたって、吉岡さん、飯島さん共通の古い友人が、ある雑誌のインタビューで『吉岡の評価は過大だ』という意味の発言をなさった。僕は喫茶店で、そのことで飯島さんに詰め寄られた。『僕は反論したよ。君は吉岡実論を書いたのに、なぜ何も言わない』というものだった。『Xさんを、現役の詩人だと思っている詩人なんて、いるんですか?』と乱暴な言葉を返したが、飯島さんは納得されなかった。ただ飯島さんは、筋を通したい、真っ直ぐな人だった。
飯島さんはシュルレアリスムの研究家でもあり、瀧口修造と親しかった。しかし瀧口さんの師である西脇順三郎に対しては批判的だった。その飯島さんが、ある日突然、西脇さんと和解した。その経緯は鍵谷幸信さんが『詩人・西脇順三郎』の中で書いておられる。酔っぱらった飯島さんが、老詩人に向かって『おい、順公』と言い、西脇さんが即座に『なんだ、飯公』と言い返して、たちまち仲良くなってしまったのだと言う。飯島さんはその後、『田園に異神あり』という長い西脇論を書いた。
この飯島さんと西脇さんの和解は、二人が納得できる言葉を書き残していないので、謎めいて見える。しかし僕はなんとなくその内実が理解できるような気がする。飯島さんは勘のいい詩人だ。飯島さんは純粋なシュルレアリストとして孤塁を守る瀧口さんを尊敬しながら、西脇詩の重要性に早くから気づいていたはずだ。しかし彼の性格から言って、どんな形であろうと瀧口さんに背を向けるようなことをしたくなかったのだと思う。『おい、順公』という飯島さんの暴言には、彼の含羞が込められていると思う。そういう形でしか、西脇さんとの垣根を打ち破ることができなかったのではないだろうか。
ツルヤマクン(若い編集者の名)
ごめんなさい
きみのさいしょのしごとをめちゃくちゃにしてしまった
まだクスリで頭がボーとして
足フラフラしている
痔の手術は二度とも終ったが そのかわりに
思いがけないウツがやってきた
十二月半ばから 一月 二月 三月
ひどいものだった 朝眼がさめると襲いかかってくる
いま三月の下旬
少し楽になった
他人がしあわせそうにみえてしかたがない
この世はウツの人と
そうでない人との二種類に見える
深夜 眠れなくて ビール瓶をテレビのブラウン管に
ぶちこもうかと思った
宮古島の南端のあったかい水の崖で
ゆるやかに水死できたらなと
クスリのひろがるねむけのなかで あまく
うっとりとしかもゾーッと考えていた
(『虹の喜劇(コメディ)』より『道化としての病気/通路としての病気』冒頭)
僕は当時、詩の雑誌の編集者で、飯島さんに新連載詩をお願いした。それが痔の手術と欝の再発で遅れ遅れになった。作品の冒頭に『ツルヤマクン(若い編集者の名)/ごめんなさい』とあるのは、律儀な性格の飯島さんが、締め切りを守れなかったことを反映している。僕は高田馬場の中華料理屋で、飯島さんにお詫びのごちそうをしてもらった。飯島さんは僕の顔をまじまじと見ながら、『君は絶対欝にならない。欝の僕が言うんだから、間違いない』と妙なことをおっしゃった。
単純な詩に見えるだろうが、飯島さんの詩人としての力量は抜群だ。日本語の人名は、そうとうな有名人でないかぎり、名前なのか別の固有名詞なのかわかりにくい。〝鶴山〟ではなく、〝ツルヤマ〟と表記したのはそのためである。西脇さんも詩で人名を使う時には、たいていカタカナ表記にしている。田村隆一も同じだ。そういう些細なところに詩人の言語能力が現れるのである。また冒頭の数行はほとんど平仮名で書かれている。欝の処方薬で朦朧としている意識を表現しているわけだ。漢字、カタカナ、平仮名に対して繊細な感性を働かせることができなければ、優れた詩人とは言えない。
飯島さんの最後の詩集は『アメリカ』になってしまったが、その前に刊行された詩集『さえずりきこう』収録の第二部『生死海』は傑作だった。飯島さんは明らかにエズラ・パウンドの『詩篇(キャントーズ)』を意識されている。現代詩人で戦後詩人でもある飯島さんにとって、言語の美的側面と社会意識を有機的に結び付けることが、最大の課題だったのである。作家は肉体が消滅すれば、作品だけが残る。飯島さんの詩は戦後の詩を代表する作品の一つである。ご冥福をお祈り申しあげます。僕はあなたの作品をこれからも読み続けます。
鶴山裕司
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■