宮崎駿監督「風立ちぬ」で注目されている堀辰雄の「風立ちぬ」から、「春」という一章が再録されている。初出は、J-novelの版元である実業之日本社から発行されていた「新女苑」昭和12年4月号に掲載されたとのことである。J-novelというと、文芸誌としては老舗という感は正直、あまりしないのだが、歴史のある出版社なんだな。。。
肺の病というと、太宰治が罹りたがったというので有名で、いわゆる「文学的な病」だ。その幻想みたいなものはいまだにあるのか、金魚屋の著者のおひとりがツベルクリンの結果でもって大学病院に行き、文芸家協会の健康保険証を見せたとたん、お医者さんがじーっと顔を眺めて、ハイリスク扱いされたとか。さぞかしロマンチックな雰囲気を漂わせておられたのでしょう。結果はシロで、実際、この忙しいのに隔離だなんて冗談じゃない、とのこと。確かに、なかなかハカナゲにもなってられないこのご時世で、「と、ところでサナトリウムとかって、Wi-Fi 入ります?」って訊きそう。まあ、生きて戻ってこられるとわかってるからこそ、仕事の遅れも気になるというものだ。
堀辰雄の「風立ちぬ」の再録では、やはり「はかなげであること」と「よりいっそうの愛おしさ」について述べられている。憎々しいほどたくましい女というのは、ま、あまり愛されはしない。しかし一方では、そんな当時だからこそ、骨太で丈夫そうな女をこそ娶らねば、と考えられていたに違いない。
文学金魚の映画評欄「映画金魚」に掲載された、三輪健太朗氏の映画「風立ちぬ」評はたいへんな評判で、いやレビューが評判というのも考えてみれば妙なことだが、長さも論文レベルで思想が表現されており、「作品」と呼んで差し支えないぐらいだった。そこでの説得力のある(しかも情感のこもった)論理の帰結として、「誰もがそれぞれの夢を見ている」というのが印象に残った。
骨太の丈夫そうな女を娶りたいというのは計算であり、エゴである。そしてそれと同等に、はかなげな女に何か夢を抱くというのも、エゴには違いない。結核がほぼ、克服可能な病となった現在でも、純愛ものの常套は難病である。いずれ亡きもの、失われるものであると想定することで感情の高まりと純化を図るのは、それ自体はさして「純」でもない「純文学」の為せる業ということか。
だとすれば、我々がすべきことは、あれもエゴ、これもエゴだと、ナイーヴなティーンエイジャーみたいに(ってのも、古いか)指差すことではあるまい。むしろエゴの最も強いかたち、その強さでもって純化されるほどのエゴのあり様を正確に見届けることだろう。それであるなら、しょーもない難病純愛ものに堕することはない。真の「純文学」はそこからしか生まれない。
力強い生活力を得たいのでもいいし、あくまで透明な愛の観念を得たいというのでもいい。ようはその欲望、エゴの「強度」であり、それを存分に試そうとするならば、確かに長編マンガ映画といったポップな場からは「引退」を余儀なくされるのかもしれない。
水野翼
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■